ロッキーマウンテン国立公園

アメリカ大陸を縦に貫くロッキー山脈の頂点

ロッキーマウンテン国立公園はアメリカ西部、コロラド州北部に位置し面積は1076平方km(415平方マイル)、最大標高はロングスピーク(Longs Peak)で4345m。1915年に国立公園に指定された。
デンバーから北西60マイルを行ったところにロッキーマウンテン国立公園へのゲートシティとなるエステスパーク(EstesPark)の町がある。
ロッキー山脈は3000m級の山々が5千kmに渡り南北に連なり、北からグレーシャー、イエローストーン、グランドティトンと続き、ロッキーマウンテン国立公園でロッキー山脈は最高頂点となる。
当公園は標高差により著しく生態系が異なる。下から順に山麓地帯(Montane Zone)、森林地帯(Subalpain Zone)、高山地帯(AlpainZone)と三つのライフゾーンに分類され、標高3500mまでの森林地帯にはクロクマ、コヨーテなど多くの野生動物が棲み、4000m以上の高山地帯になると樹木はまったくなくなってツンドラ気候となる。
エステスパークから車でゆっくりと走行中に道路上を悠然と歩く2頭のムース(Moose)と遭遇。最初は大きな馬かと思ったがともかくその大きさに驚嘆。とても鹿の仲間とは思えない。ムースは元々インディアンの言葉であり、英語ではAlces alces。日本ではヘラジカと訳されている。
ムースの最大体長は3m。肩高2.3mで巨大な角まで入れると体高は優に3mを超える。アメリカ国立公園における大型野生動物ウォッチングでは、ムースは灰色熊グリズリー(Grizzly Beer)、アメリカバイソン(Bison)と並ぶ人気ビッグスリーのひとつ。なかでも一番遭遇チャンスが少ないのがムースだ。僕は、グリズリーはグレーシャー国立公園で、バイソンはイエローストーン国立公園で初対面を達成した。
ちなみに最大体重ではバイソンが1100kg、ムースが800kg、グリズリーは450kgとどれもが途方もなく大きい。突然現れたバイソンと30cmくらいの距離ですれ違ったことがあるが攻撃性は感じなかった。もし戦った時の最強はといえば文句なしにグリズリーだろう。ムースはアメリカを代表するカジュアルウェアAbercrombie & Fitchのシンボルマークにもなっている。

ロスオリボス

ワインとオリーブが育つ町

ロスオリボスはアメリカ西海岸、リフォルニア州南部にあり面積6.4平方km(2.5平方マイル)、標高80m、人口は1200人。ロスアンジェルスから北に100マイルの海岸沿いの町、サンタバーバラからだと州道154号で内陸に30マイルの距離。
地名のロスオリボスはスペイン語でザ・オリーブの意味だという。町並みにオリーブの樹々が青々と繁る。季節の花が咲き乱れ、地元産のワインが飲めるカジュアルで素朴なレストランがたくさんある。道に面したテラス席に地元の人々が集う。僕が好きなアメリカ田舎町の典型的なパターンだ。
静かな町なのに風景がキラキラしていて活力に漲っている。ロスオリボスはほぼ満点に近い。しかしサンタフェやタオス、大自然ではグレーシャー、マウントレーニアなどアメリカには桁外れに景色がよくパワー溢れる土地があるので満点は言い過ぎとして星は三つくらいかもしれない。
ロスオリボスはブドウの町でもある。当地を含む広いエリアがサンタバーバラ・ワインカントリーとなっていてサンタイネス・バレー、サンタマリア・バレー、ステリタヒルズ、バラードキャニオン、ハッピーキャニオンの五つAVA(American Viticultural Area)のワイン栽培地域に分類されている。
そのエリアの中でもとりわけ著名なAVAがロスオリボスの属するサンタイネス・バレーで、70のワイナリーが集中している。当地は夜になると太平洋から冷たい霧が流れ込みシャルドネ種、ピノノワール種のブドウがすくすくと育つという。
ロスオリボスの町中にあるテイスティングルームを巡ったが見たことのないラベルだらけ。ワインというのは世界各国、各地に本当に多くの銘柄があってそのバラエティの豊かさにいつも感動する。

レッドウッド国立公園

伝説の巨人ビッグフットが棲む巨木の森

レッドウッド国立公園はアメリカ西海岸、カリフォルニア州北部海岸沿いにあり面積は315平方km(122平方マイル)、アメリカスギの一種でレッドウッドと呼ばれる巨木が茂る樹林一帯が保護されている。1968年に国立公園に指定、1980年にユネスコの世界遺産となリ正式名称はRedwood National and State Parksに変更された。
当地には樹高115mという途方もない大きさのレッドウッドがあり、この木が現在地球上に存在する最大生物といわれている。1966年に屋久島で発見された縄文杉の樹高は30mで10階建てのビルに相当する。その高さの4倍もあるので桁違いといえる。ちなみにこのレッドウッドの推定重量は730トンもありジャンボジェット機(ボーイング747-400)4台分というから驚く。
アメリカ西海岸の森林ではとんでもない大きさの木に出会う。何故これほど巨大に育つのか。四季を通じて温暖な気候、安定的で豊富な降雨量など気候のよさがその理由といわれているが、それだけでこれほど大きくなるのか。この地特有の生物を特別大きく成長させる何か不思議なエネルギーがあるのではないかと考えたくなる。
この巨木の森にはビッグフット伝説がある。アメリカでは有名な二足歩行のUMA(未確認生物)で身長2m以上、足跡のサイズは最大で47cmあるという。毛むくじゃらで筋肉隆々。先住民である当地のインディアンには古くからサスクワッチ(Sacsquec)と呼ばれていて、ロッキー山脈の西側では度々このビッグフットが目撃され論争を巻き起こしている。1967年に撮影されたパターソンギムソン・フィルムは日本のテレビでも話題になった。
ギガントピテクス(Gigantopithecus)の生き残りという説もある。旧石器時代に絶滅したとされるヒト上科の大型の霊長類で体重は推定最大540kgあったという。
レッドウッドの巨木の森は真昼でも薄暗くちょっと怖い感じがする。それでも僕たち夫婦は道端に車をとめ勇気を出してうっそうと茂る森の中をそろそろと歩いたがビッグフットの足跡すら見ることはできなかった。

レキシントン

ケンタッキー・ブルーグラスカントリー

レキシントンはアメリカ南東部、ケンタッキー州中北部にあり面積は737平方km(286平方マイル)で標高は298m。
レキシントンはフェイエット、フランクリン、ブルボンなど15の郡からなる広大なブルーグラス牧草地帯の中心地であり、ケンタッキーダービーをはじめ国際級のサラブレッド競走馬を生み出してきた土地柄でもある。
3億年前、当地は海だったという。その名残の貝やサンゴ礁の影響でレキシントン周辺の土壌はカルシウム分に富み、その土が栄養価の高い牧草を育て、連続するゆるやかな丘陵と相俟って頑丈な馬が育ってきた。
西から東に向けフランクフォートとレキシントンの間の17マイルのオールドフランクフォート・パイク(Old Frankfort Pike)と14マイルのパリス・パイク(Paris Pike)を走行した。景観道路、ケンタッキー・シニック・バイウェイ(Kentucky Scenic Byway)である。輝くようなブルーグラスが広がる牧草地帯にサラブレッドの姿が映える。ケンタッキーを象徴する何とも素晴らしい風景だ。
ケンタッキーの呼び方はインディアンに由来する。紀元前から当地に住んでいたイロコイ(Iroquois)族の言葉「草原の地」が州名になったといわれている。イロコイ族は数あるインディアン部族のなかでも異色である。
数百あったアメリカ先住民、インディアン部族はそれぞれに自尊心と独立性が強く17世紀以降にヨーロッパ人から攻撃を受けているさなかにも部族間同士で抗争を繰り返していた。しかしイロコイ族は18世紀前半にすでに他の部族や一部のヨーロッパ諸国と同盟を結ぶなど多くのインディアンのなかでは特異な存在だった。現在はニューヨーク州北部とカナダに跨る地でイロコイ連邦(Iroquois Confederacy)として存在する正式な国家である。
イロコイはオノンダーガ族、カユーガ族、オナイダ族、モホーク族、セネカ族、タスカローラ族の6部族により構成される先住民連合であるためシックスネーションズ(Six Nations)とも称される。当地以外に住むイロコイ族も含めた総人口は約125000人、1997年に正式に発行されたパスポートは世界各国でおおむね受け入れられている。
余談になるがサウスダコタ州に住むスー族(Sioux)もアメリカからの独立を模索しているが彼らの聖地ブラックヒルズの領有権を巡りアメリカ政府と対立を続けている。このことはブラックヒルズの頁に詳しく記す。

レイクパウエル

映画「猿の惑星」の撮影地

レイクパウエルはアメリカ西部、ユタ州キャニオンランズ国立公園からアリゾナ州グランドキャニオン国立公園に連なる大峡谷とコロラド川が一体となって堰き止められた中間地点にある。最大標高は1140m。
地図で見るレイクパウエルはコロラドの川幅が突然広くなった地域のように見えるが、実際の感覚では琵琶湖に匹敵する巨大な湖。全長は300Km、湖の周囲3000kmととても大きい。
レイクパウエルの名称は、1869年にコロラド川流域を調査したジョン・ウェズリー・パウエル(John Wesley Powell)から付けられた。
ゲートシティはアリゾナとユタ州の州境にあるページ(Page)。1957年のグレンキャニオンダムとグレンキャニオン橋の建設に伴いできた町である。
僕たち夫婦はページにある湖に面したワーウィーブ・ロッジ(Wahweap Lodge)に宿泊したが設備、ロケーションともに中々快適。ロッジと一体となったマリーナから出るクルーズ船でレイクパウエルを周遊したが、コロラド川を下ってきたロッキー山脈の雪解け水は冷たく清廉、空気は澄み、朝夕には赤茶から紫、ブルーに変幻するロックマウンテンの風景も素晴らしい。
一帯はレインボーブリッジ国立モニュメント、アンテロープキャニオンと合わせてグレンキャニオン国立レクレーションエリアに指定されている。レインボーブリッジの周辺は先住民ナバホ族の居留地(Indian Reservations)である。
ワーウィーブ・マリーナ(Wahweap Marina)から片道2時間、湖を横断して近くまで行き、1マイルほどのトレイルを歩いて到着。アーチ状の岩石はユタ州には数千以上あるが、レインボーブリッジは高さ87mで世界最大。
古来より先住民の宗教信仰の聖地として崇められてきたパワースポットの地であり、興味本位の撮影や観光気分でがやがやとはしゃぐことは慎まなければならない。これは日本の寺社、仏閣などでも同じこと。レインボーブリッジをくぐることは禁止されている。

ルート66

現代に生きる歴史街道

ルート66はアメリカ中西部、イリノイ州シカゴからスタートしアメリカ西海岸カリフォルニア州サンタモニカを結ぶ全長2347マイル(3755km)の旧国道。1926年に建設され1985年に廃線となりその後はナショナルシニック・バイウェイ(National Scenic Byway)に指定された。
初期には産業道路として大型トラックの物流を担い、1930年代にはカンザス、オクラホマからカリフォルニアへ向かう移住者で溢れ返った。ジョン・スタインベックは「怒りの葡萄」で、土地を求めルート66を西へ西へと進む貧しい農民の姿を描き1940年にピューリッツアを受賞、この小説はルート66をますます有名にした。
ルート66は1938年にアメリカで初めての舗装道路となった。アリゾナの国立公園やカリフォルニアへのレジャーに活用されるようになったのは乗用車が普及し出した1950年代以降である。
ふたりの若者が車で大平原を旅する連続テレビドラマ「ルート66」は大ヒットを記録した。いつしかシボレーコルベットとGMキャディラックはルート66のイメージと重なり合い、20世紀中頃のアメリカ人の上昇意欲を刺激した。1960年代に青春時代を過ごしたアメリカ人なら誰しも引退後にはコルベットかキャディラックでルート66を優雅に旅したいと願うという。
事実ルート66を走ってみると出会うのは殆どが中高年夫婦である。沿道の寂れた景色や旧式のガソリンスタンドが懐かしくかえってよい。人生それぞれにドラマがある。ルート66はアメリカの古き良き時代を象徴する道路なのである。
バクダットカフェ(写真8)は映画「バクダットカフェ」の舞台となったところ。アリゾナからカリフォルニア州に入って120マイルほど。荒涼としたモハベ砂漠(Mojave Desert)の真ん中にあるポツンと1軒屋カフェだ。映画は1989年公開、監督はパーシー・アドロン。海外からの旅行者夫婦がうらぶれたカフェに集う変わり者揃いの人々と繰り広げる不思議な人生ドラマ。ルート66にはドラマが似合うのである。

ランカスター

アーミッシュの暮らしが今も続く

ランカスターはアメリカ北東部、ペンシルベニア州南部にあり面積19平方km(7平方マイル)、標高112m。アメリカ東海岸でもっとも長い川、サスケハナリバー(Susquehanna River)が町の西方に流れる。川の名はインディアン、サスケハナ族に由来する。
メイフラワー号で最初のヨーロッパ人が入植した1620年当時に2000人ほどが当地に居住していたが、その後サスケハナ族は衰退し川の名だけが残った。
ランカスターの歴史は古く、1709年に最初の移民であるペンシルベニア・ダッチが入植し、1729年に正式な町となった。
ランカスターはアーミッシュの町としても知られている。アーミッシュはカトリックの教義に厳格に従い移民当初の生活スタイルを守り続けている人々のこと。アメリカに住むアーミッシュ30万人の15%がランカスター居住といわれている。
ランカスターの郊外ではアーミッシュの家族が乗る馬車に何度も出会った。男性はつばの広い黒い帽子にあごひげ、吊ズボン。女性は髪の毛を束ねボンネットをかぶる独特のスタイルだ。アーミッシュの人々は車を所有しない、自宅に電気を引かないなど厳格なルールを定め近代技術に頼らない生活を300年以上も守り続けている。
ランカスターといえば1985年のハリソン・フォード主演の「刑事ジョン・ブック目撃者(Witness)」の印象が強烈だった。その映画で描かれていたアーミッシュの禁欲的、宗教色の強い規律に縛られた生活が重々しくちょっと恐ろしい生活にも思えた。
しかしランカスターを訪れアーミッシュの人々の生活に少しだけだが触れてみると、実はそれどころかアメリカ開拓時代のシンプルな生き方を継承している普通の人たちだとわかり、僕としてはかなりほっとしたのである。

ラファイエット

南部美食文化の町

ラファイエットはアメリカ南東部、ルイジアナ州南部にあり面積は127平方km(49平方マイル)、標高は11m。
アカディアナ文化が色濃く残る美しい町、美食の町としても知られていて僕たちはブルードッグカフェで食事をした(写真5)。世界的に有名なアーティスト、ジョージ・ロドリゲの作品が100点以上も展示されていて圧巻。ケイジャン料理のレベルも高くて満足だった。
ロドリゲは1944年、当地近くのニューアイベリア生まれ、2013年没。終生「青い犬」を描き続けた。
ロドリゲの生地ニューアイベリア郊外にタバスコ(TABASCO)の製造工場がある。1868年に当地に移住してきた銀行家で美食家のエドモンド・マキレニー(Edmund Mcilhenny)という人物がタバスコペッパーの栽培を開始、TABASCOというユニークな食品を考案し製法特許を取得、現在のマキレニー社 (Mc. ILHENNY CO.)の創業に至る。
蒸留酢と当地原産の岩塩を混ぜ樫の樽で3年間熟成させるというアメリカでは珍しい発酵食品なのだ。世界170か国に輸出されるほど有名になったタバスコ。日本ではアントニオ猪木が経営するアントントレーディング社が1970年に販売契約を結び、一般に普及した。
日本ではピザにタバスコをかける人が多いがイタリアでは珍しい。メキシコの覆面プロレスラー、ミル・マスカラスは鮨を食べる時は醤油の代わりにタバスコを使うそうだ。どう食べようと勝手だが、このタバスコを開発した美食家マキレニーは大好物の生牡蠣の味付けとして考案した。
最初は牡蠣用ソースとして当地に原生していた唐辛子と岩塩を混ぜて食べていたが、それを発酵させると風味が増すことに気が付いたという。いずれにしてもタバスコがまさか世界中に普及するとはマキレニーも考えていなかったようだ。
個性的な風味はもちろんだが象徴的な瓶のデザインがこのブランドの発展に大いに貢献している。容器は発足当初から受け継がれているというから創始者マキレニーのデザインセンスは相当なものだ。煉瓦造りの本社建物も風格があって美しい(写真3-4)。
このマキレニー社はバイユーと呼ばれるワニが生息する湿原と森が交錯する真ん中にあってナビがなければ到底辿りつけない。それでも工場が近づくにつれタバスコ独特の香りが目と鼻を刺激する。
僕たちはまず製造工程を見学しそれからタバスコストアへ向かった。定番の赤いタバスコだけでなくハバロネ、更にはハラペーニョを使った緑色のタバスコなど種類も多い。瓶のサイズもバリエーション豊かで巨大なガロン瓶のタバスコには驚いた。1ガロンは3.8L、日本酒の一升瓶の2倍以上の大きさで価格は40ドルと超お買い得だったがもちろん買わなかった。

ラッセン・ボルカニック国立公園

世界最大の溶岩ドーム

ラッセン・ボルカニック(ラッセン火山)国立公園はアメリカ西部、カリフォルニア州中北部に位置し面積は429平方km(166平方マイル)。1914年に国立公園に指定された。
サンフランシスコから北に240マイル、車で4時間ほどの距離。マウントラッセンの標高は3187m。カナダからカリフォルニアに連なるカスケード山脈の南方に位置する。カスケード山脈はアメリカ最大の火山帯でもある。
アメリカの過去の大噴火はすべてこの火山帯から起きている。当地から北にあるオレゴンのセントへレンズ山は1980年の大噴火で山頂部分の500mが吹っ飛び、面積518平方kmの森林が消失し、200マイルに渡る高速道路が破壊された。富士山とそっくりだったセントへレンズの姿は爆発で真ん中がえぐり取られ阿蘇山に似たカルデラ山に変化した。火山噴火は恐ろしい。
ラッセン最期の巨大噴火は1630年から1670年の間だったと考えられている。現在、ラッセンの温泉は沸騰し激しく蒸気が噴出している。ラッセン大噴火から300年以上を経た現在、地下の噴火エネルギーは最大限まで高まっておりアメリカ地質研究所と国立公園局は当公園内の9か所に地震計を設置し常時火山性ガスと地殻変動の測定を行う最大の危機管理体制に入っているという。
カリフォルニアと日本は面積も近いが火山と地震災害の危険と隣り合わせという点でも似通っている。カリフォルニアにはサンアンドレアスという南北に走る断層があり度々巨大な地盤変化を起こしてきた。
1906年のサンフランシスコ大地震では3千人が死亡し22万5千人が家を失った。地震も火山噴火も一定周期をおいて繰り返す。サンフランシスコ周辺の地殻の歪みも限界に近付いており20年以内に巨大地震が発生する可能性は80%だと考えられている。

ラジタス

蘇ったゴーストタウン

ラジタスはアメリカ南東部、テキサス州ブリュースター・カウンティーに属し、当地北にはビッグベンド・ランチ州立公園、南にはビッグベンド国立公園があり、リオグランデ川を挟み南側はメキシコのチワワ州となっている。
当地は数千年に渡り古代人チソス・インディアンが住むメキシコの領土だったが、その後メスカレロ・アパッチ族、18世紀以降はコマンチェ族が居住した。米墨戦争(Mexican-American War)終結4年後の1852年、陸軍将校ウイリアム・エモリー(William H Emory)が当地を調査し、その後のヨーロッパ入植者の進出により当地の先住民インディアンはほぼ壊滅した。
チソス山脈には水銀の鉱脈があり1890年頃からラジタス周辺で採鉱がはじまり多くの人が集まり活況を呈した。といっても15軒の店が開業し、居住者は50人という程度だった。1901年には郵便局も開設され大きな町へと発展する兆しが見えたが、水銀採掘の斜陽化と共に鉱山は1939年に閉鎖され、以降ラジタスは人が住まないゴーストタウンとなった。
人の気配が消えて50年以上たった1995年、ラジタスはジェームス・ガーナー主演のTV西部劇「荒野の追跡者・ラレード通り(Street of Laredo)」の撮影地で話題となり、またラジタス周辺は鉱泉地であることからスパリゾートの可能性も見いだされたこともあり近年になって急速に観光地として取り上げられだした。
加えてラジタスの周辺から恐竜の化石が大量に出土し恐竜の博物館創設の計画もあるらしい。とはいえ今のところ当地に積極的に訪れる人は少ないようだ。何しろテキサス州の中心地ダラスから車で11時間かかるという度を越した辺鄙な土地。草原と牛、それ以外見当たらない。
長時間のドライブで疲れ果てた僕たち夫婦はホテルにチェックインしたその足で併設の食堂へ。西部劇で見るのとほとんど同じタイプの木造の2階建て。バーと食堂の中間型。
テキサスの流儀に倣いステーキとバーボンを注文した。ホテルダイニングというよりカウボーイのたまり場だ。滅多によそ者が来ないのだろう、じっとこちらを観察する視線。これくらいでビビってたんじゃアメリカ奥地の旅はできないのだ。
ホテルの部屋やバーは映画で見る西部開拓時代のムード満載だったと思うが、それほど楽しめた感じはしなかったし、よくは思い出せない。それなりに緊張した旅となった。

ラグナビーチ

切り立った絶壁と美しい海岸線をもつ芸術家の町

ラグナビーチはアメリカ西海岸、カリフォルニア州にあり面積は24平方km(9平方マイル)。
1870年代から入植者が増え、1900年代には多くのアーティストが当地に移り住み芸術活動が盛んとなった。ラグナ・カレッジオブ・アート&デザインという1961年創立の小さな美術大学もある。
ラグナビーチの北側、3マイルの海岸線および自然森と丘陵、渓谷を合わせた10平方km(4平方マイル)がクリスタルコーブ州立公園に指定されていて当地周辺の散策コースとなっている(写真1)。
アメリカで大ヒットのTVドラマ「ジ・オーシー(The OC)」の舞台として一躍有名になった新興地クリスタルコーブは当州立公園に面するPacific Coast Highwayの東側にあり、聞くところによるとその住宅価格はマリブやビバリーヒルズのベルエアに並ぶという(写真2)。
休暇でラグナビーチに滞在する場合はホテルライフが中心となる。プールサイドで本を読んだり食事をしたり、敷地の中を散歩したり。ビーチに出かけるくらいでほかにはさほど何もないのでホテルはできればよいところを選びたい。
周辺でよく知られているのは4つ。クリスタルコーブ州立公園を挟んで北側にペリカンヒル(Pelican Hill、写真4-6)、南側にモンタージュ(Montage)、更に南にリッツカールトン(RitzCarlton)とセントレジス(St. Regis)。
僕はゴージャスなロビーとか大型のビルディング形式のホテルより住宅的なビラやバンガローが好きなので、そうなるとペリカンヒルとモンタージュが双壁。両方泊まって同じ料金帯で較べたところ部屋の広さ、レストランなど施設のハード面ではペリカンヒルが上。部屋には暖炉もあってテラスもよい。建築とインテリアがやや男性的という感じもするが、これはゴルフコースと一緒になっているリゾートの特色かもしれない。
一方モンタージュのバンガローは全体的に自然観が強く優雅。どちらかといえば女性的。何といっても目の前にラグナビーチが広がっているというのが強み。ホテルの敷地と海岸線が一体となったナチュラルな花畑もかわいく個人的にはこちらがお薦め。

ヨセミテ国立公園

世界最大、巨大な一枚岩

ヨセミテ国立公園はアメリカ西部、カリフォルニア州の中東部、シエラネバダ山脈の中央部に位置し面積は3081平方km(1190平方マイル)、1890年にアメリカ国立公園、1984年にユネスコ世界遺産に登録された。イエローストーンと並びアメリカを代表する国立公園。
世界最大の樹木ジャイアントセコイヤ、アメリカ最高の落差を持つ739mのヨセミテ滝など、とにかくスケールの大きさが特色。
そのヨセミテを象徴するダイナミックな風景がハーフドームだ(写真1-2)。真ん中からバサッと削り落とされたような垂直の絶壁。標高は2682m。1957年にロイヤル・ロビンスが最初の登頂に成功。ロビンスは埋め込みボルトやアンカーで岩場を傷つけることを嫌うクリーンクライミング倫理の提唱者で今日のスポーツ登山界に大きな影響を与えた。
ヨセミテには巨大岩山の宝庫で、ハーフドームの西側にあるエルキャピタンは一枚岩としては世界最大。
ヨセミテの先住民の歴史は紀元前6000年から始まり、19世紀にはアワニチ族(Ah-wah-ne-chee)の居住地だった。しかし1848年にカリフォルニアで金鉱脈が発見され、インディアンの土地にも金鉱を求める採掘者が侵入し争いが多発した。
ヨセミテのインディアン制圧のためにカリフォルニアのマリポサ軍隊が侵攻、1851年のマリポサ戦争である。勇猛で知られたテナヤ酋長(Chief Tenaya)率いるアワニチ族は抵抗したが最後は敗退した。
しかし幸いなことにヨセミテは森林伐採や採掘、ダム建設から免れることができた。開発が最優先される時代にヨセミテの貴重な大自然が守られたのはジョン・ミューアやセオドア・ルーズベルトなど自然主義者の運動によるもので、その後のアメリカ国立公園法の草案に繋がってゆく。

モンテズマキャッスル国立モニュメント

美術工芸に長けた古代人、シナグア族

モンテズマキャッスル国立モニュメントはアメリカ南西部、アリゾナ州の中央部にある。石灰岩の小高いキャニオンの岩壁20mに築かれた先住民シナグア(Sinagua)族の住居遺跡で、その10マイル北東にあるモンテズマウエルと共に1906年国立モニュメントに指定された。
農耕民族シナグアは6世紀頃から当地に住み12世紀には数千名の集落を形成し台地にアドビ煉瓦の家を建てた。岩壁に石造された5層、20部屋の遺跡は50人ほどを収容できるが、出入りには梯子を複雑に組み合わせる必要があり住居の使用目的は不明である。
遺跡周辺は清々しく何とも言えない軽やかな空気感に包まれている。よく調べてみると遺跡は少し変わった地形のなかにある。まず遺跡を中心に小川がヘビのようにぐるりと丸く取り囲み、それは城に対する直径1kmの濠のようでもある。正確にいうとモンテズマウエルから発する水がビーバークリークとなり10マイル南西に下り、遺跡を円弧で巻いてまた南西に下りベルデ川に合流している。
モンテズマウエルは地下からの湧水池。この池をシナグア族が聖地として水の流れが渦巻く真ん中に部屋を石造したのだと考えれば、この岩壁住居は彼らの信仰とも深いかかわりがあると想像できる。
当地を2回訪れた印象ではこの辺りは現在でも強いワースポットの地であることは間違いない。シナグア族は1425年頃を境に当地を去った。何が起きたのかはわからないが同じ時代にコロラドやユタ、アリゾナのアナサジ族も姿を消している。
シナグア族は高度な装飾品の加工技術を持っていたと考えられているが、それが災いして遺跡は激しい略奪に遭っている。遺跡内部へのアクセスは1951年以来凍結されていて見学できないが、ビジターセンターには復元された工芸品が展示されていた。

モニュメントバレー

1万年の歴史をもつ先住民の聖地

モニュメントバレーはアメリカ西部ユタ、アメリカ南西部アリゾナ州に跨るおおよそ70000平方Km(2700平方マイル)に及ぶ広大な地域。
迫力溢れる景観、歴史的価値からいえば文句なしにアメリカ国立公園のレベルにあるが、当地はアメリカ政府の管轄外でナバホ族の居留地(Indian Reservations)なので、正式名称はMonument Valley Navajo Tribal Park。モニュメントバレー・ナバホ族立公園である。
当地では新石器時代にすでに人類の歴史があり紀元前にはアナサジが住み、その後パイユートの土地となり19世紀からナバホが居住するようになった。モニュメントバレーがあるユタ、コロラド、ニューメキシコ、アリゾナの4州が交わるフォーコーナーズ周辺は国立公園が集中するアメリカでもっとも魅力的な自然景観を有する地域であり、多くの先住民が住んでいた。
地殻変動により隆起した台地をメサ(Mesa)といい、ひび割れが雨や風で次第に広がり峡谷(Canyon)となる。削られた峡谷は数百万年を経てロックマウンテンの風景になり、さらに浸食が進んだ残丘部をビュート(Butte)という。現在のモニュメントバレーの平地部はかつての谷底。盛り上がった山のように見えるビュートの頂上部は浸食を逃れた台地、メサだったのだ。
僕たちはケイエンタを経てモニュメントバレーに入った。突然現れるビュートの迫力、大平原のスケールに圧倒される。しかしこのダイナミックな景観はどことなく見なれた感、既視感をともなう。よく考えてみると子供のころから何度も見てきた典型的な西部劇のビジュアルなのだ。現実離れしすぎてあまりにも映画的ともいえる。
モニュメントバレーの風景は「駅馬車」、「黄色いリボン」、「アパッチ砦」などジョン・フォード監督が好んで使ったロケ場所でもある。このロックマウンテンの全体を見渡せる場所は現在John Ford’s Pointと呼ばれている。
この大自然のその後の映画への登場は「2001年宇宙の旅」、「イージー・ライダー」、「Back to The Future」などなど、数えればきりがない。モニュメントバレーの風景に見なれた感を持つ人々は世界中に増え続けているのだ。

モービル

映画「フォレスト・ガンプ」の舞台

モービルはアメリカ南東部、アラバマ州の南端、メキシコ湾岸に位置し面積は413平方km(159平方マイル)。
樫の巨木が道路を覆う。「フォレスト・ガンプ」でトム・ハンクス親子が住む大きな家の庭にも、たしか大きな樫の木があった。まさにディープサウス。1995年公開でアカデミー作品賞を獲得、世界的なヒットとなった。ちなみに冒頭の羽が舞うシーンは東隣の州、ジョージアのサバンナで撮影された。
1702年にヨーロッパ人がオールドモービルに入植した当時、このあたりはチェロキー、アラバマ、チカソー、チョクトー、クリーク、コアサティ、モービルなど多くのインディアン部族の居住地だった。
1830年にアメリカ政府はインディアン移住法を発令、当地を追われたチェロキー族がオクラホマへ向かうその道は「涙のトレイル(Trail of Tears)」として歴史に残る。インディアンが去ったその土地にアフリカから奴隷を導入し、アラバマは綿花の巨大生産地として発展を遂げた。
僕たち夫婦がモービルを訪れたのはクリスマス・イブの夜。あまり深く考えずに、ウキウキした気分で当地で一番という伝統あるレストランに食事に出掛けた時のことは今でも忘れられない。19世紀以来、連綿と白人の支配者階級を顧客としてきたのだろう。客のすべてが白人。おそらく日本人の来店ははじめてなのだろう、どう待遇してよいかわからないのだ。僕たちが店に入っていった途端に支配人の顔色と店内の空気が一変したことを覚えている。
快適とはゆかなかったが、まずまずのサービスを得て食事は出来たが、支配人はもちろんヨーロッパ系白人、注文の係はヒスパニック系、片付けは黒人というまるで映画のなかのワンシーンのようでもあった。
奴隷解放宣言から150年、しかし身分制度の名残は今なお生きていて、それはアメリカ南部、奥地に行けばゆくほど重苦しく生々しいものだった。

メンフィス

黒人音楽ブルース発祥の地、そしてキング牧師最期の地

メンフィスはアメリカ南東部、テネシー州の西端に位置し面積は763平方km(298平方マイル)、最大標高は103m。メンフィスは音楽産業の町。
ミシシッピ川沿いにあるダウンタウンの東側ユニオンアベニューにあるサンスタジオはロックンロール生みの親サム・フィリップスが1950年に創設、アメリカ音楽を語る上で欠かせない伝説的な録音スタジオである。B.B.キング、ジョニー・キャッシュ、エルビス・プレスリーをはじめ多くのスターがこの小さなスタジオから世界へ羽ばたいた(写真3-4)。
そしてその1本南側にあるライブハウスが軒を連ねる通りがビールストリート(Beale Street)だ。この道路はUSA TODAY紙で「アメリカでのもっとも象徴的なストリート」にも選出された(写真1-2)。しかし何よりもメンフィスではまず見ておかなければならない歴史的スポットがある。ロレイン・モーテルだ(写真5-7)。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師暗殺の場所である。
メンフィスは南北戦争以前には奴隷売買の市場として栄え、20世紀以降も黒人労働力を背景にアメリカ最大の綿花集積地として発展を続けた。1960年代に公民権運動が活発となり、その功労者であるキング牧師が1968年4月4日、このモーテル、306号室で凶弾に倒れた。
実際目の当たりにして驚いたのは通路脇からベッドが見えるほどの簡易な部屋だった。1964年にすでにノーベル平和賞を受けている国際的なVIPが何故このようなダウンタウンはずれの寂しいモーテルに宿泊しなければならなかったのか。奴隷制度が廃止された100年後に法の外で起きていた黒人差別についてあらためて考えさせられた。
現在、このモーテルはアメリカ政府が買い取り、永久保存されモーテルを含む周辺は国立公民権博物館(The National Civil Rights Museum)として運営されている(写真4)。キング牧師は1929年1月15日生まれ。1月の第3月曜はキング牧師の日としてアメリカ国民の祝日となっている。

メサベルデ国立公園

忽然と消えた謎の古代民族アナサジの住居遺跡

メサベルデはアメリカ西部、コロラド州南西部に位置し面積は211平方km(81平方マイル)、最大標高は2600m。1906年に国立公園に指定、1978年ユネスコ世界文化遺産に登録された。
アメリカ先住民、いわゆるインディアンの起源をかんたんに記すと、ヨーロッパ、アジアに広がった人類は徐々に東に進みベーリング海峡を越えアラスカから南にロッキー山系を伝ってアメリカに達した。ベーリング海峡は氷河期には陸地化しており、それは3万年から1万3千年前の長期に渡る。
モンゴロイドの南アメリカ最南端への到達は1万年前と発表されているから、アメリカの人類史のスタートは今から2万年から1万3千年前頃からと考えられる。
メサベルデに居住したアナサジ(Anasazi)族は狩猟採集も行う農耕民族であった。紀元前500年頃には当地の丘陵などの台地で生活し、紀元700年代には統率された集団として集落を形成した。キバ(Kiva)という宗教儀式の施設をつくり、周辺を区画割りして木造を泥で固めたアドビの家を建てた。
12世紀になると建物は石造工法となり、数千人の住居は断崖絶壁に移った。これがメサベルデの遺跡群である。複数階建てで家族ごとに住居出来る集合住宅か団地のようにも見える。200部屋あるクリフパレス、バルコニーハウス等々多くあり、当地に点在する。
しかし1425年頃に彼らは当地からいっせいに姿を消した。コロラド州のメサベルデにとどまらずユタ、アリゾナ、ニューメキシコ州の広大な地域に住む30万人の先住民もほぼ同じ時期に消えていなくなった。
この年にいったい何が起きたのか。不思議なことに遺跡には遺骨は無く、抗争や疫病の跡は見当たらないというから僕の好奇心はますます高まるのである。

マンチェスタービレッジ

バーモントのメープル街道

マンチェスタービレッジはアメリカ北東部、ニューイングランド地方バーモント州南部にあり面積は109平方km(42平方マイル)、標高は281m。東にグリーンマウンテン国立森林公園、西にタコニックマウンテンに囲まれた静かで美しいリゾート地。
バーモント州はかつてアベキナ族、モヒカン族やイロコイ族などインディアンが住む土地だった。17世紀に入るとフランス人による植民地化が進み、その後フランス領カナダ、1763年にイギリス支配化となった。1777年に反乱が勃発しバーモント共和国として独立を宣言したが、結局1791年にアメリカに併合された。
ニューヨークから車で当地に向かった。ハドソン川に沿ってくねくねと北に。ニューヨークの州都オルバニーまでトータル6時間。ニューヨーク州はカナダのオンタリオ州、ケベック州と国境を接するところまで北に大きく広がっている。エリー湖、オンタリオ湖もニューヨークなのだ。
オルバニーからマンチェスタービレッジまでは更に2時間、思いのほか時間がかかった。アメリカ北東部は西部とは違い大平原や砂漠をを地平線までまっしぐらという訳にはゆかない。日本の道路事情と一緒で渋滞もあるし料金所も多い。
僕たち夫婦は町から少し離れたタコニックホテル(Taconic Hotel、写真1-2)に宿泊した。雰囲気のある部屋に加えて洗練されたダイニングも素晴らしい。ニューイングランド地方特有の深みのあるメープルの森に囲まれた静かな場所だ。
メープルの日本名はサトウカエデ。その名の通り煮詰めた樹液は甘く香りもよい。メープルシロップはカナダのケベック産が知られているがアメリカでは当地バーモント州が最大生産地となっている。バーモント州のもうひとつの特産品はリンゴ。かつて西城秀樹が歌ったリンゴとハチミツで有名な「ハウスバーモントカレー」はバーモント州では全然知られていない。


マッキニー

過去と未来が共存する町

マッキニーはアメリカ南西部、テキサス州北部に位置し、面積は152平方km(63平方マイル)。1836年にテキサス共和国として独立国家となった当地は1845年にアメリカに併合、1849年にマッキニーの町が創設された。当地の名称はテキサス独立宣言を起草したコリン・マッキニーに因み命名された。
アメリカ4大メディアのひとつであるCNNマネー誌(CNN Money Magazine)では毎年アメリカで「もっとも住みやすい町(Best Place to Live in America)」を発表している。マッキニーは2010年に5位、2012年に2位そして2014年にはついに1位となった。アメリカには2万の自治体(市町村)があり、そのトップなので価値はひじょうに高い。
1849年にたった35人でスタートした町は約100年を経た1952年に人口1万人を超過、2014年には14万人に達した。アメリカのすべての町のなかで人口急増率ベスト5にランクされたこともあるという驚異的な成長を続ける町なのである。
優れた安全性、社会保険制度、税制、教育環境は当然のこと、マッキニーには風力や太陽光を使ったグリーンエネルギーの開発、雨水の再利用、廃油暖房など持続可能な社会を実現するためのシステムがあり、行政当局による先進的な町づくりが当地の価値を高めていることは間違いない。
一方、旧市街では古い建物はひじょうにたいせつに保護され修復して再利用されている。両極のバランスが素晴らしい。僕たちは旧裁判所周辺の歴史的な町並みをゆっくりと散策した。アンティークストアやレストランが立ち並ぶ景観はとりわけ19世紀末の古き良き時代のテキサスを彷彿とさせ、とても魅力的だ。
未来と過去がバランス良く共存する町。こういう町に住んでいる人はさぞかし快適だろうと思う。


マウントレーニア国立公園

標高4329mの高峰、聖なる山、ティースワーク

マウントレーニア国立公園はアメリカ西海岸、ワシントン州の北西部、シアトルから60マイルの距離に位置し、面積は953平方km(368平方マイル)。1899年にアメリカ5番目の国立公園に指定された。
太平洋から吹きつける湿度を含んだ風がレーニアの山岳に衝突し猛烈な雪を降らせる。この雪が数十ものダイナミックな氷河を形成した。エドモンズ氷河はアメリカ本土で最大面積、カーボン氷河はアメリカ本土で最大体積である。
レーニアの南斜面、パラダイスは夏季には高山植物が咲き乱れる景観地区(写真2-4)。しかし冬になると様相は一変、地球上でもっとも降雪量の多い地域となる。1971年冬、28.5mの世界最高積雪を記録した。
マウントレーニアは地球内部から吹き上がる火と水から出来た勇壮な独立峯。大地のエネルギーを脈々とたたえ、麓は強いパワースポットで満たされる。神々しいレーニアは数千年以上前からインディアンと霊的世界観で結ばれていた。
マウントレーニアの東側を流れるホワイト川流域には、かつてピュヤラップ(Puyallup)族、マックルシュート(Muckleshoot)族、ニスクォーリ(Nisqually族)、ヤカマ(Yakama)族などが居住し、彼らは聖なる山をティースワーク(Ti ‘ Swaq)と呼んだ。
20世紀後半からマウントレーニアをインディアンの言葉に戻す運動が起きている。2010年、ワシントン州知事はピュヤラップ族と調印し名称変更を具体化する可能性を示唆した。
国立公園内のロッジ、パラダイスイン(Paradise Inn)は1917年開業。マウントレーニア国立公園を象徴する歴史的木造建築物である。石造暖炉を設えたロビー、ウッディで温かみのあるダイニングの内装、料理も素晴らしい(写真6)。2008年にリノベーションされ耐震化工事などが施された。

マウントラシュモア国立メモリアル公園

聖地に刻まれたふたつの文化

マウントラシュモアはアメリカ西部、サウスダコタ州ブラックヒルズ国立森林公園にあり、1925年に国立メモリアルに指定された。標高1745mのラシュモア山の花崗岩にアメリカ建国と発展を象徴する4人の大統領の顔が彫られている(写真1-2)。
ワシントンは独立戦争を指揮しイギリス軍に勝利、初代大統領となった。ジェファーソンはフランスからルイジアナを買収しアメリカの領土を倍増させ、リンカーンは南北戦争で南軍を破り、ルーズベルトはノーベル平和賞を受賞した。このモニュメントはアメリカ政府の主導により彫刻家ガットズン・ボーグラムが1927年から14年間かけて建造した。
ただしラシュモア山は古くからインディアンの聖地とされており設立以来スー族による抗議活動が頻繁に起きている。一方当地から10マイル西方の岩壁にアメリカ政府に抵抗したスー族の英雄クレイジー・ホース・モニュメントの彫像づくりがコルチャック・ジオルコウスキーにより1947年から進められている(写真3-4)。40年をかけ顔の部分がやっと出来あがったが、数十年後、馬に跨る全身像が完成すると世界最大の彫刻になるという。
このふたつの彫像にそれぞれの立場から異論を唱える人が多くいる。ラシュモアは当然のことクレイジー・ホース像にも反対するスー族の人もいる。美しい大自然を切り刻み、対立するふたつの文化の英雄を競い合わせることでこの地に住む人たちの未来は拓かれるとは思えない。
しかしこのプロジェクトはすでに始まっていて、今さら後戻りは出来ない。いっそのことクレイジー・ホース像の方にもアメリカ政府の予算をつぎ込んで一気に完成させるという案はどうだろうか。16世紀以来続くヨーロッパから入植者とインディアンとの軋轢、争い。今はもう相互理解、相互利益の道を探るしか他はない。
ケビン・コスナーは学生時代にクレイジー・ホース像を見て感動、のちに映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」を制作しスー族の独自文化を世界中に知らしめた。合わせてアメリカ経済にも貢献したのだから、それは両者にとって大いに価値があったのだと思う。

マウントシャスタ

気力漲る本物のパワースポット

マウントシャスタはアメリカ西海岸、カリフォルニア州中北部シャスタトリニティ森林公園(Shasta Trinity National Forest)の北側に聳える4312mの高峰。面積8946平方km(3457平方マイル)に渡る広大な森林公園には多くの河川や湖が点在する。
当地には今から1万年前頃から先住民インディアンが住みマウントシャスタは古来より霊峰として信仰されてきた。19世紀にはシャスタ族、ニューリバーシャスタ族はじめ4部族が居住し人口は6000人前後だったという。
しかし1848年にカリフォルニアの金脈発見が契機となりゴールドラッシュが到来。カリフォルニアを目指す数万人のヨーロッパ人大移動はインディアンの領土を武力で侵略しインディアンは徐々に衰退した。
シャスタが先史時代から信仰の土地であったことを当時の入植者が知ることはなかった。しかし19世紀末以降シャスタにまつわる伝説が次第に明らかになり、また地場エネルギーの研究など土地の力の存在が知られるようになってきた。
その頃、西海岸で著名となった自然主義者で地質学者でもあったジョン・ミューア(John Muir、1838-1914)の影響力も大きい。ミューアは人間と大自然との共生、土地固有の信仰の尊重を訴えた。
パワースポットといわれる土地には大地震や噴火がつきものだ。マウントシャスタもその例にもれずきわめて危険な火山のひとつで、ひとたび爆発が起きれば1980年のワシントン州セントへレンズ大噴火を凌ぐ脅威になるといわれている。マウントシャスタの一番最近の大噴火が1786年。爆発周期が600年に一度といわれているので今世紀はひとまず大丈夫ではないだろうか。
僕たち夫婦はSiskiyou 湖畔、森の中に建つマウントシャスタリゾート(Mount Shasta Resort)に滞在した。キッチン、リビングルームを併設した広いスペースの木造ビラだ。澄み渡る空気で気分は爽快。土地のパワーも存分に吸収して満足の数日間だった。

マウンテンレイク

消えた湖が復活した

マウンテンレイクはアメリカ南東部、バージニア州の西部に位置し面積は0.2平方km(0.08平方マイル)、水面標高は1181m。湖があるジャイルズ郡ペンブロークの面積は2.8平方km(1.1平方マイル)。
マウンテンレイクは6000年前に出来たバージニア州では数少ない自然湖。この湖に流れ込む水源はなく湖が形成された理由はわからないが地震による崩落と大雨の溜水だと考えられている。
しかし19世紀から20世紀を通じて30mあった水深が2002年に突然減りだし2008年に湖は完全に消えてなくなってしまった。雨の少なさと湖底からの水漏れが原因だが、不思議なことに2013年にはまた水が溜まりだし元の湖の姿に戻った。
この現在のマウンテンレイクを自然湖というならちょっと疑問だ。湖が復活した2013年は湖のほとりにある有名なマウンテンレイク・ロッジ(Mountain Lake Lodge)が休業し大規模なリノベーション工事を行っていた時期と重なる。
マウンテンレイクが無くなったマウンテンレイク・ロッジはサマにならない。という訳でホテル工事のついでに干上がった湖の底に細工を施したかもしれないが、当地は世界遺産でも国立公園でもないただの観光地なのでとくに問題ではない。
ともかく僕たち夫婦はリノベーションが終ったマウンテンレイク・ロッジに宿泊した。南北戦争前の1856年創業の歴史あるホテルだけあって重厚な雰囲気。本館は石と木造りでロビーには立派な暖炉がある。紅葉の季節ならソファにゆったりと座り窓外を眺めつつウイスキーを飲めば最高の気分だろう。
メインダイニングも格調高いが肝心の料理は大外れだった。バージニア州の場合、何故かこういう正式なダイニングで料理がよかったことは一度もない。かんたんなメニューを素早く出してくれるStone Creek Tavernというホテルの入り口付近にあるラウンジの方が感じもよく味もよかった。

マード

1880’s Town、西部開拓時代の町

マードはアメリカ西部、サウスダコタ州中部ジョーンズ郡最大の町、東方にミズーリ川が流れる。郡の面積は2517平方km(972平方マイル)。
山岳地帯ならともかく東京都より広いまっ平らなグレートプレーンズ(Great Plains)に人口はたった千人という気が遠くなるほど人口密度が低い過疎の地である。グレートプレーンズとは北アメリカ大陸の真ん中を北から南に広がる堆積平野のことで放牧やトウモロコシの栽培に適している。
サウスダコタ州はインディアンの州としても知られている。スー族の言葉「Dakota(仲間)」が州名となった。紀元前にはパレオ・インディアンが住み、1800年頃にスー族のインディアンリザベーション(Indian Reservation)となった。
インディアンリザベーションとは白人側が条約を提示し住むことを許可した先住民だけの居留地。その地にヨーロッパ入植者の侵入が相次ぎ、西部開拓時代には白人とインディアンの抗争が頻発した。
そんな時代の町並みを再現したのが1880’s Townである。アメリカ各地から西部開拓時代の古い建造物を集めて町をつくったという。ちなみに1880年は日本では明治13年、鹿鳴館が完成したのは1883年だから日本でいうと明治村ということになるだろうか。
主旨としては京都にある東映太秦映画村が近いかもしれない。実際に当地でケビン・コスナー監督の「ダンス・ウィズ・ウルブス(Dances with Wolves)」はじめ多くの映画撮影が行われている。
1880’s Townの創始者リチャード・ハリンガー( Richard Hullinger)は1969年に14エーカーの土地を購入、3年後に80エーカーを買い足し、町づくりを開始した。ダコタホテル(Dakota Hotel)はドラパー、教会はディクソン、ウエルスファーゴ銀行(Wells Fargo Bank)と電報局はゲティスバーグから移築された。
僕たち夫婦はマードの街中のホテルに宿泊し、そこから1880’s Townに出掛けた。インターステイツ90号を西に30マイル、30分の距離だ。当時の市長の執務室も再現されていてデスクの上には今まさに使用中という感じでレトロなペンや便箋が置かれていてその臨場感には感動。ほかに鉄道駅、保安官事務所、散髪屋、レストラン、バーなどもあり、本当に西部劇の現場にタイムトリップしたようでうれしい気分になった。
雨が降りそうな重苦しい空、風がピュ―ピュ―と吹き、舞い上がる砂埃。バーの扉がガタンガタンと開閉する。今にもガンマンが現れそうな不穏な気配。そんな荒天に遭遇出来たら西部劇ムードとしては満点だが、実際には朝からカラッと晴れて清々しい見学日和となった。

ホワイトマウンテン国立森林公園

森と渓谷のパワースポット

ホワイトマウンテン国立森林公園はアメリカ北東部、ニューイングランド地方ニューハンプシャー州北部からメイン州西部に跨り面積は3039平方km(1173平方マイル)。1918年に国立森林公園に指定された。メイン、ニューハンプシャー、バーモント、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカットの6州をニューイングランド地方と呼ぶ。
当森林公園を横断する全長100マイルのホワイトマウンテン・トレイルはナショナルシニック・バイウェイに指定されている。アメリカでは道路を学術や観光資源の側面から評価し格付けを行っている。
考古学、文化、歴史、自然、レクレーション、景観の6項目を審議し120か所がナショナルシニック・バイウェイに、更に30か所が最高ランクの道路としてオールアメリカンロードに指定されている。歴史街道「ルート66」、ミシシッピに沿って走る「グレートリバーロード」などが有名。
当森林公園で最高峰がワシントン山で標高1917m。かつて神聖な山として当地に住むインディアン部族の信仰の対象となっていて入山も固く禁じられていた。山頂近くには行っていないので感覚はつかめなかったがパワースポットの地であることは間違いない。川に沿ってトレイルを歩いたが吹き渡る風は爽快で気力に満ちていた。
ワシントン山は突然猛烈な風が吹く危険な山としても知られている。その風力は桁外れで103m(時速372km)という風速世界2位の記録もある。東西の風が山頂付近で衝突するという地理に加えて北方の冷たい風と南の暖気が交錯する特殊な気象条件が重なって起きる現象だという

ホワイトサンズ国立モニュメント

見渡す限り、真っ白な砂の雪景色

ホワイトサンズ国立モニュメントはアメリカ南西部、ニューメキシコ州南部、面積は710平方km(275平方マイル)、最大標高は1218m。東にサクラメント山脈、グアダルーペ山脈、西をサンアンドレアス山脈に囲まれたトウラロサ盆地にあり、1933年に国立モニュメントに指定された。メキシコ国境の町、エルパソから100マイルの距離にある。
白砂の海岸は世界各地にあるがこれは白褐色の石英砂が強い太陽に反射して白く見えるもの。しかしホワイトサンズでは手に取ってじっくり見ても正真正銘の純白の砂。この砂はアラバスター(雪花石膏)という結晶物で、数億年前に海洋だった当地域が大陸移動と土地隆起、太陽熱と複数回に渡る氷河期を経て石灰岩、石膏、塩分の堆積物が凝縮したという。
写真で見ると雪景色のようにも見えるがここはアメリカ最南端、全然寒くないし、真っ白な砂丘風景は美しいというより不思議世界という感が強い。
不思議つながりで、余談。ホワイトサンズの東にロズウェルという町がある。ロズウェル事件(Roswell UFO Incident)で一躍世界中に名が知られた町である。その事件とは空飛ぶ円盤が墜落し残がいをアメリカ空軍が回収したという前代未聞の騒ぎ。
出来事はいったん収束したが、のちの1978年にJesse Marcelという空軍少佐がテレビのインタビューで、円盤に搭乗していた異星人の遺体の存在について爆弾発言し再度大騒動となった。数多いUFOとの遭遇事件のなかで、もっとも信憑性が高い事例だと言われている。
元々当地ニューメキシコ州南部ではUFOの目撃談が多いという。ホワイトサンズにはアメリカ空軍の核ミサイルのテスト基地があり、それが関係しているという説もあるが、真偽は不明。期待はあったが、ともかく僕たち夫婦は空飛ぶ円盤を見ることは出来なかった。

ホットスプリングス国立公園

スパの始祖バスハウス、伝統的な温泉療養地

ホットスプリングス国立公園はアメリカ南東部、アーカンソー州中央部に位置し、面積22平方km(9平方マイル)は国立公園では最小。最大標高は317m。1921年に国立公園に指定された。
源泉地帯となるノースマウンテン、ウエストマウンテンおよびその谷間のバスハウス・ロウが公園エリアだが、商業施設やホテルが立ち並ぶ景観はアメリカ国立公園としてはきわめて異質。
当地は数千年に渡りインディアンが居住し温泉は身体保養に活用されていた。1541年にスペイン人によって発見され、17世紀にフランス人が入植した。
1875年に当地でははじめての高級ホテル、アーリントン(Arlington)が開業、歴代大統領をはじめマフィアの大親分アル・カポネも定宿にしていたという歴史的ホテル(写真4)、同年にホットスプリングス鉄道も開通し温泉観光地として徐々に発展してゆく。
しかしバスハウスの入湯者数は1946年の64万人をピークに徐々に減少しだす。長らく滞在し療養するバスハウスは現代生活には向かない。洗練されたデイスパやスパリゾートの普及、医学の進歩も遠因。そのせいか町全体の寂れた感じは否めない。
アーリントンに2泊したがさすがに老朽化がひどくホテルとしての基本機能は無いに等しかった。ホットスプリングスの南方のハミルトン湖周辺には近代的なリゾート施設が多くあり、滞在はこちらがお薦め(写真1)。
ホットスプリングス出身の有名人がいる。ビル・クリントン42代大統領だ。小学生から高校卒業まで育った家は国立公園エリアのバスハウス・ロウから車で5分のところにある(写真5)。少年期は決して恵まれた境遇ではなかったというが地元のホットスプリングス高校を卒業後、三つの大学を経て32歳の若さで州知事、その後の大出世は記すまでもない。
好奇心に負け生家をこっそり偵察に出かけた。気のせいかもしれないが小高い丘に建つ小さな家の周りにはスッキリした空気感が立ち込めパワースポットかと思えるほど強い気力に満ちていた。

ポートイザベル

幻のネコ、野生オセロットの棲家

ポートイザベルはメキシコと国境を接するアメリカ南西部、テキサス州最南端の小さな港町。面積は8平方km(3平方マイル)。当地はメキシコ革命後にアメリカ領となり18世紀から19世紀にかけて綿花積み出し港として活況を呈した。
メキシコ湾を望み、きりっと立つ灯台に僅かに往時の繁栄が偲ばれる(写真1)。イザベル灯台は1852年創設、南北戦争後の修復を経て長らく稼働したが1905年に消灯。1976年にテキサス州歴史遺跡に指定された。
ポートイザベルはパドレ島のゲートシティでもある。海岸線と並行して南北数百マイル、幅がたった2マイルという驚異的に細長い島で、その南端のサウスパドレアイランドはテキサス州を代表するビーチリゾート、別荘地として知られている。
僕たち夫婦は当地に4泊の予定で出かけたが延々と続くビーチはたしかに素晴らしいが、施設やレストランはどこも少し寂れた感があって期待外れというのが正直な感想。
ポートイザベルの北側がラグナ・アタスコサ野生動物保護区となっていて毎年11月には25万羽もの水鳥が訪れる。特記すべきは当地海岸沿いに棲む幻の野生ネコ「オセロット」(Ocelot、学名Leopardus Pardalis)の存在。抜群のスタイルとゴージャスな毛並みを持つオセロットの美しさはアメリカではネコ科最高と称賛されている。
ちなみにアメリカネコの代表格アメリカンショートヘアは先住民オセロットとは違いいわゆる入植者。イギリスから新天地を目指し1621年にマサチューセッツに着いたメイフラワー号に乗っていたネコの子孫であるとされている。オセロットに似たネコを作り出そうと交配されたのがオシキャット(Ocicat)。しかしオセロットの血は入っておらずアビシニアン、シャム、アメリカンショートヘアの混血だそうだ。
ともかくぱっちりとした丸く大きな目。梅花紋といわれる野生的な黒い斑点。負けん気の強そうなオセロットの可愛さはネコ好きにはたまらない。優美な毛皮がきわめて高額で取引され個体数が激減、現在は絶滅危惧種に指定されている。
ポートイザベルでは野生12匹が確認されていて、アメリカ全体の推定個体数は50匹。人になつきやすことでも知られていて野生以外に数十匹の飼育オセロットがいるという。海岸近くをウロウロしたが遭遇未体験、映像でしか見たことがない。

ポーツマス

川沿いの土手に野イチゴが実る

ポーツマスはアメリカ北東部、ニューイングランド地方ニューハンプシャー州の大西洋沿岸にある町で面積は44平方km(17平方マイル)。1603年にイギリスのブリストル出身の軍人マーティン・プリング(Martin Pring)が当地を探索。その後イギリス人によって開発され1653年にポーツマスの町となった。
当時、イギリスからの入植者の生活は苦難を極めとくに厳寒の季節には多くの死者を出した。ポーツマスにはワンパノアグ族、イロコイ族など多数のインディアン部族が住み、彼らは入植者に食料を提供しまた当地に合った農法を教えた。
収穫期の秋にイギリス人入植者たちが共同でインディアンを招き感謝の意を伝えたのがサンクスギビングデイの起源になったと伝えられている。11月の第3木曜日がアメリカ国民の祝日。翌日の金曜がいわゆるブラックフライデーで年末商戦の始まりの日となる。
初期には友好的だった入植者とインディアンの関係は次第に悪化する。急増したヨーロッパ人はインディアンに土地の提供を強要、争いが頻発する。1675年に起きたインディアン戦争(フィリップ王戦争、King Philip’s War)は凄惨を極め、4千人のインディアンが戦死したと記録されている。
僕たちは町の南側、ピスカタクア川河口近くにあるストロベリーバンケ・ミュージアム(Strawberry Banke Museum)を見学した。ストロベリーバンケの名はヨーロッパからの入植当時には川の土手(Banke)に野イチゴが群生していたことに由来する。
4万平方kmの屋外エリアで17世紀から19世紀の移民の生活文化や歴史的な建物を復元した生きた歴史博物館だ。屋内の家財道具もじっくり見たが素材は質実剛健ながらもデザインは格調高く困難な生活の中にも様式を重んじたイギリス開拓民のプライドが偲ばれる。
当地の名は日本ではポーツマス条約で知られている。日本とロシアは1900年に日露戦争に突入、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの調停で1905年9月5日、当地ポーツマス海軍造船所で停戦の興和条約を締結した。

ペピン

「大草原の小さな家」、ローラ・インガルスの生まれ故郷

ペピンはアメリカ中北部、ウィスコンシン州西部に位置し面積は645平方km(249平方マイル)、町の南端をミシシッピ川が流れる。
ミズーリ州セントルイスからぺピンを目指し一路北に向かった。500マイルの道のり。地平線まで続くトウモロコシ畑。輝くような濃い緑の葉が真っ青な空に映える。その風景はイリノイ州からアイオワ州、更に北上しウィスコンシン州に入ってもいっこうに変わらない。アメリカ中北部の大平原(Prairie)はどこまで行っても本当にまっ平らだ。
更に北上、まだまだ続くトウモロコシ畑の真ん中に小さな田舎町ぺピンはあった。南北戦争さなかの1863年にイングランド移民のチャールズ・インガルスとその妻キャロラインは当地ぺピンの森のなかに小さな丸太小屋(写真1)を建て4年後にローラが生まれた。後にアメリカを代表する女流作家となるローラ・インガルス・ワイルダー(Laura Ingalls Wilder)である。
西部開拓を夢見る両親と共にローラはアメリカ各地を転々とし、貧しさと数々の苦難の日々を過ごしながらもアメリカ大自然のなかでたくましく生きてゆく。晩年に娘の勧めで大自然の美しさや子供の頃の暮らしを綴った自伝記を書き始め、1932年に刊行された「大きな森の小さな家(Little house in the Big Woods)」が世界的なベストセラーとなる。
その後「大草原の小さな家(Little House on the Prairie)」をはじめ数々の名作を生みだした。映画で見る西部開拓はガンマンやカウボーイが頻繁に登場し実に男性的で勇ましい。しかし実際にはローラの家族のように素朴で堅実な開拓の歴史があったに違いない。
僕たち夫婦はローラが暮らしたアメリカ中北部の田舎町を訪ね歩き、ローラの足跡を辿り、その生活をじかに感じてみたいと思った。ウォルナットグローブ、デ・スメットについてはそれぞれの頁に記す。

ベアマウンテン州立公園

ニューヨーク州立公園の歴史的ロッジ

ベアマウンテン州立公園はアメリカ北東部、ニューヨーク州にあり面積は21平方km(8平方マイル)、標高は391m。大都市ニューヨーク・マンハッタンから北に50マイル。この公園のさらに西側がハリマン州立公園となっている。
ベアマウンテンは急峻なハドソン川の西岸に位置し崖とゴツゴツとした岩が多い森と湖の風景で1913年にニューヨーク州立公園に指定され、2年後に宿泊施設であるベアマウンテン・イン(Baer Mountain Inn)がオープンした。このホテルは歴史あるアメリカ遺産として2002年に国立公園局が管理するアメリカ歴史登録財(The National Register of Historic Place)に指定されている。
国立公園法の施行、公園局の設置はアメリカが世界に誇れる法律のひとつだ。それに伴い自然環境に馴染む素晴らしい外観、内装を持つ公園内ロッジが多く生まれてきた。その代表、イエローストーン国立公園のオールドフェイスフル(The Old Faithful)の開業は1904。クレーターレイクのロッジ(Crater Lake Lodge)は1915年、ヨセミテのアワ二―(Ahwahnee)は1927年の開業だ。
ベアマウンテン・インは公園ロッジ草創期の1915年というかなり早い時期にオープンした公園史に名を遺す歴史的ロッジであることは間違いない。6年間のリノベーション期間を経て2012年に再開業した。僕たち夫婦は改装後のロッジにそれなりに期待を持って滞在したが、大いに落胆。石と木で出来た建物外観は重厚感に溢れ格調は高いが中身がなかった。客室内装や人的サービスは情けない限り。
T型フォードの生産が始まったのが1908年。とはいえこのホテルが出来た1915年はモータリゼーションのまだまだ黎明期。今ではベアマウンテンはマンハッタンから車で1時間の距離。しかしのんびりと馬車に揺られて赴いただろう開業当初は滞在型リゾートホテルとしての価値は高かったと思う。
このロッジだけではなく都市近郊の歴史的ホテルは遠方からの旅行者より地域の会合やウエディングなど大口の団体客に重きを置くことが多い。そういう時にたまたま当たってしまうとロビーでワインを飲んだり、庭でゆっくり本を読んだりという旅のくつろぎ感は吹っ飛んでしまうのだ。


ペトログリフ国立モニュメント

謎の古代人アナサジのビジュアルメッセージ

ペトログリフ国立モニュメントはアメリカ南西部、ニューメキシコ州中央部に位置し、アルバカーキからリオグランデ川を挟み西に10マイルの距離、面積は29平方km(11平方マイル)。
当地には24,000点に上る世界最大数の先史時代のペトログリフと考古学上の重要な史跡、及び5箇所に渡る火山噴石孔があり、それらの文化、自然遺産を合わせて1990年に国立モニュメントに指定された。
ペトログリフとは岩石や洞窟内部に描かれた意匠や絵文字彫刻の総称。先住民アナサジ(Anasazi)族が紀元前1200年から紀元1400年頃に遺したものと考えられている。
僕たち夫婦はこの絵文字を順次見て回ったがテーマは擬人化した動物か、意味不明な幾何学的な図形が多い。
二足歩行のカメのような生き物はいったい何がモチーフになったのだろうか。アナサジ族は狩猟採集と農耕の双方を営み暮らしてきたが、いずれにしても感受性にすぐれた平和主義の民族だったのだろう。多くの絵文字をじかに見てあらためてそう感じた。
アナサジ族はユタ、コロラド、ニューメキシコ、アリゾナ州周辺に数多く居住していたが、15世紀のある時期にいっせいに姿を消した。その理由はいまも謎とされる。アメリカを移動しプエブロの先祖(Ancient Pueblo People)となったという説もあるが正確にはわからない。
現在プエブロ族は19の種族、3万5千人がアメリカ政府により公認されていて、アコマ、ズニ、タオス、ホピなどアドビ(Adobe)煉瓦で造られた集落に住む。
ちなみに先史以来アメリカには900以上のインディアン部族が確認されているが、彼らは一様に自尊心が高くそれぞれが固有の文化と言語を持ち他族をなかなか受け入れなかった。数千年に渡り部族間抗争を繰り返してきたというが、もしアメリカのインディアン部族が17世紀の時点で統一されていたらヨーロッパ入植者によるアメリカ開拓の歴史は変わっていただろう。

ブラックヒルズ国立森林公園

グレート・スー・ネイション、偉大なるスー族の聖地

ブラックヒルズはアメリカ西部、サウスダコタ州西部からワイオミング州北東部に跨る4850平方km(1875平方マイル)の広大な国立森林公園。最大標高はハーニー山の2206m。
明るい草色の丘陵地帯にポンデローサ松がくっきり黒く映える風景はまさにブラックヒルズと呼ぶにふさわしい。草原、美しい森と湖、バイソン、ビッグホーンシープなど多くの野生動物が棲む大自然の恵みに溢れた素晴らしい地域だ。
しかしブラックヒルズには複雑なアメリカの歴史がある。1800年以降、ヨーロッパからの入植者は西へ西へと領土を広げた。彼らの西部開拓、フロンティアに先住民インディアンは大いなる障害だった。アメリカ政府は指定地にインディアンを強制移住させる政策を推進した。インディアン・リザベーション(Indian Reservation)である。
政府はブラックヒルズを居留地と決め各地のインディアン・スー族に対し当地域への移住を強要した。その代わり「この土地については永遠にスー族のものであり白人の通過、居住を許さない、Great Sioux Nationである」と確約した。1868年のララミー砦条約である。
ハナシはこれで終わらない。条約締結僅か6年後の1874年、ブラックヒルズに莫大な金鉱脈が発見されこの条約は一方的に破棄された。折しも1873年の経済大恐慌の影響で職を失ったヨーロッパ系白人が大挙して宝の山目当てにブラックヒルズに押し寄せたのだ。法を侵す白人制圧の名目でアメリカ政府軍が当地に侵攻、結果としてスー族の排除と金鉱奪い合いの戦いに発展した。インディアン迫害史に残るブラックヒルズ戦争(Black Hills War)である。
その後もくすぶり続けたこの争いは百年以上を経た1980年、民主党のカーター大統領政権下の最高裁法廷でやっと決着。アメリカ政府によるブラックヒルズの没収は条約違反とする判決が下された。政府は賠償金として1億ドル余りを提示したが、スー族はこれを拒否、あくまでも聖地ブラックヒルズの自治権の復活を主張している。
驚いたことに当地の地下には5千トン、数千億ドル相当のウラン鉱石の埋蔵が判明し、すでに複数の巨大企業により開発は始まっている。経済的発展を願う人々、民族の伝統文化を尊ぶ人々。互いの価値観の溝はそう簡単には埋まらない。

ブラウンカウンティ

インディアナ、インディアンの土地という名の州

ブラウンカウンティ州立公園はアメリカ中西部、インディアナ州中央部に位置し面積は64平方km(25平方マイル)、最大標高は322m。1929年にインディアナ州立公園に指定された。州都インディアナポリスから南に30マイルの距離。
アベマーティン・ロッジ(Abe Martin Lodge)という公園内ロッジがあるが、僕たち夫婦は公園の北側にあるブラウンカウンティ・イン(Brown County Inn)に宿泊した。木造のカントリー風の建物でレストランの雰囲気もナチュラルで好みのスタイルだ。
ブラウンカウンティは厳寒の冬、蒸し暑い夏と四季のメリハリが明快。とりわけ秋の紅葉が素晴らしいという、日本に似た気候で丘陵と谷が連続する地形も日本によくある風景だ。
当地は1818年のセントマリー条約によりアメリカがインディアン、デラウェア族から取得した土地である。インディアナの語源は「インディアンの土地」で、その名の通りミシシッピ川流域でのインディアンの歴史は古く、紀元前8000年頃に遡る。
アジアから氷河伝いにベーリング海峡を渡り北アメリカ大陸に到達したインディアンの祖先となるモンゴロイドは元々移動を繰り返す狩猟民族であり、そのため彼らはアメリカ各地に広がっていった。紀元前1000年頃からは農耕系インディアンが当地に定着した。小さな集落を形成し土器を作りトウモロコシを栽培するアデナ文化、ホープウェル文化である。
そして9世紀からインディアンによるミシシッピ文化が花開く。少数の権力者が多くの民を治める首長制国家で、彼らはマウンド(Mound)と呼ばれるピラミッドに似た巨大構造物をミシシッピ流域に数多く建設した。
しかし統率されたミシシッピ文化は16世紀に衰退した。数多くのインディアン部族が対立し抗争を繰り返していた17世紀はアメリカの植民地化が始まったヨーロッパ人にとって都合のよい状況だった。

フォートワース

カウボーイ発祥の地

フォートワースはアメリカ南東部、テキサス州の北東部にあり、面積は774平方km(299平方マイル)、標高237m。
19世紀、カウボーイの町として知られた当地には各地から牛が集まり取引された。当時の面影を残すストックヤード国立歴史地区はダウンタウンから5マイルほど北にある。ストックヤードの家畜取引は1876年の鉄道開通をきっかけに大発展。しかし20世紀に入り自動車の出現に伴いアメリカの物流政策は転換し当地は衰退する。
鉄道登場から100年後の1976年に当地の由緒ある建物が復元され国立歴史地区に制定された。当地区の最大の見ものはテキサス人が誇るロングホーンの行進、キャトルドライブだ(写真4)。
乗馬したカウボーイたちが数千頭のロングホーンを伴い東に向かう旅を昔はCattle Driveと呼んだ。ロングホーンは長旅に耐える強靭な体力を持つ牛なのだ。
テキサス出身のプロレスラー、スタン・ハンセンが右手で角の形にする決めポーズもロングホーン。Stockyards Station、Cowtown Coliseum、Texas Cowboy Hall of Fameなど当地区には歴史的な建物も多くある。
19世紀の町並みの中、直感頼りでステーキハウスに入った。店名はキャトルメンズ(Cattle Men’s、写真1)。年季の入ったオーク材の内装でちょっと格式が高そうだ。まずはガラスケースにずらっと展示してあるステーキ肉を観察する。
かなり悩みつつ選んだのは定番のポーターハウスではなくニューヨークストリップ。サーロインより脂はさらに多めで少しだけ硬めの肉質。もちろん数週間寝かせたドライエイジド・ビーフだ。結果は大当たり、炭火で表面だけを焦がすように焼くアメリカにはよくある香ばしいタイプのステーキだが肉質が抜群。
元々アメリカのステーキレベルはひじょうに高い。今まではニューヨークのピータールーガー(Peter Luger)、ちょっと落ちてウルフガング(Wolfgang’s)、ベンジャミン(Benjamin)あたりが最高ランクと思っていたが、さすがにCowtownフォートワース、本場の味と雰囲気に大満足した。

ヒルカントリー

野草の楽園、テキサス最高のワイナリー

ヒルカントリーはアメリカ南東部、テキサス中央部に広がる美しい丘陵地帯。春にはブルーボネットが咲き乱れ、秋には葡萄がたわわに実る。北アメリカ大陸の中央部を細長く縦断するグレートプレーンズの南端部にあたり面積は36300平方km(14000平方マイル)、最大標高は750m。
グレートプレーンズはロッキー山脈から流れる河川により形成された堆積平野地帯で砂質及び石灰質土壌は大草原の自然景観をつくる。
テキサスの抜けの良い風景のなか真っすぐの道路を走る爽快感は格別。とにかく広い。テキサスの1州だけで日本全土とほぼ同じ面積がある。
事実アメリカに併合される前のテキサスはテキサス共和国(Republic of Texas)として独立国だった。町の各所で見られる旗は星条旗ではなくローンスター(Lone Star)と呼ばれる星がひとつのテキサス州旗。他の州とは一味違った独自の文化性とプライドの高さを醸し出している土地柄である。
ヒルカントリーの中心地がフレデリックスバーグ(Frederickburg)。その名からも窺える通りドイツ人入植者により19世紀半ばに創設された、まさにドイツ的な町である。フレデリックス(フリードリヒ大王)は18世紀のプロイセンの専制君主。
町なかのレストランにもドイツの伝統が感じられる。ビール醸造所とパブが一体化したビアレストランが多くあり楽しい。ビールでソーセージと子牛のカツレツを食べるのが定番。メインストリートにあるSilver Creekには2度、Crossroad Salon & Steak Houseにも行ったが、どちらにも大満足、味、雰囲気共にひじょうに高レベルだった。
当地にはワイン醸造所も多くあり、ちなみにテキサスはカリフォルニア、オレゴン、ワシントン、ニューヨークに次ぐ5番手のワイン生産州でもある。郊外のいくつかのワイナリーを巡ったが、ベッカーヴィンヤード(Becker Vineyards)が当地では一級品のようだ。

ビッグベンド国立公園

大迫力の砂漠と山岳。アメリカ最大の辺境の地

ビッグベンド国立公園はアメリカ南東部、テキサスとメキシコとの州境を流れるリオグランデ川の北側、面積3242平方km(1251平方マイル)は東京都の1.5倍。最大標高はチソス山脈にあるエモリー岳で2387m。1944年に国立公園に指定された。
同じくテキサスの南にあるグアダルーペマウンテンをアメリカの大秘境と書いたが、こちらは更に辺鄙。テキサスのヒューストン、ダラスのどちらからでも直線距離で650マイル、車で延々片道11時間かかる。ここまで奥地になると余程の動機が無ければ誰もここまでは来ないだろう。
事実、統計によると来園者の殆どがテキサス在住者なのだという。しかし辿り着いた時のうれしさは格段。よくこんなところまで来たものだと我ながら感動する。
ヨセミテやイエローストーンと違って観光的なポイントがない分、余計に空漠とした風景に迫力を感じる。地平線まで続く平原と尖った山々の荒々しい風景はまさにアメリカ大自然と形容するにふさわしい。
ビッグベンドの殆どの面積をチワワ砂漠が占め、中央部にチソス山脈が走る。高温の砂漠から冷涼な山岳地帯と多様性に富んだ気候は多種の動植物を育み、生態系の宝庫となっている。また土地を掘り返すと白亜紀、第三紀の生物の化石が大量に出土するという。当地は地質学上における重要な地域でもあると考えられている。
ビッグベンドの宿泊施設及びレストランはチソス・マウンテンロッジ(Cisos Mountain Lodge)1軒のみ。ただし公園から20マイルほど離れた田舎町ターリングア(Tarlingua)とアルパイン(Alpain)にはモーテルがいくつかあり、その点では周辺にまったく何も無いグアダルーペマウンテンの秘境感には及ばない。
この地域には、かつて遊牧民といわれた古代狩猟民族チソス・インディアン(Chisos Indian)、その後メスカレロ・アパッチ(Mescalero Apache)族、更に18世紀にはコマンチェ(Comanche)族が居住したが、ヨーロッパ入植者の移住が進んだ19世紀以降に衰退した。

ビッグサー

クジラ飛ぶ絶景

ビッグサーはアメリカ西海岸、カリフォルニア州セントラルコーストに位置し、モントレー岬カーメルから南に90マイルほどの断崖絶壁の海岸線地域。
1769年、後にカリフォルニア初代総督になるスペイン軍人ガスパル・デ・ポルトラ(Gaspar de Portola)率いる軍船が当地に接岸、ビッグサーに上陸した最初のヨーロッパ人となった。ビッグサーはスペイン語で「大きな南」の意味。
翌年、スペインはカリフォルニアを植民地とすることを世界に宣言した。先住民であるインディアン、オローニ族、エセレン族、サリナン族はスペインの抑圧政策で衰退した。しかし当地は1821年にメキシコ支配下となった。米墨戦争(Mexican-American War)でメキシコはアメリカに敗退し、1848年からは当地を含むカリフォルニア一帯がアメリカ領となった。
カーメルからスタートしてカリフォルニア州道1号線を海岸線に沿い一路南下。まさにカリフォルニアの青い空、ドカーンと広がる太平洋、空間の大きさに圧倒される。
しかし崖の下は海、道路の反対側は急傾斜の岩壁、大きなカーブが交互に連続して風景を見ている余裕は中々ない。アメリカを代表するシニックドライブであるというが、高所から見下ろす系の大自然はリラックスした気分にはなれない。
この高低差のきつい壮観な風景をつくっているのがサンタルシア山脈だ。山が海底から急角度でせり上がり海から3マイルの距離で1571mの山頂に達する。海岸線上にある山としてはアメリカ最高峰である。
ドライブに少し疲れたので道路沿いのカフェでしばしの休憩。海側の景色の良いテラス席に。大海原の向こうを眺めていたら突然クジラが飛びあがり僕たち夫婦は大感動。その店の名前はホエールウォッチングカフェ(Whale Watching Cafe)だったので、それほど偶然ではなかったのかも知れない。

ハンニバル

「トム・ソーヤの冒険」の作者マーク・トウェインの故郷

ハンニバルはアメリカ南東部、ミズーリ州北東部に位置し、面積は42平方km(16平方マイル)。アメリカを南北に縦断するミシシッピ川に面した当地はかつてニューオーリンズやセントルイスとの海上交易で賑わった。
その繁栄の時代にこの地で少年時代を過ごしたマーク・トウェイン。彼はハンニバルを舞台に町で出会った人々やさまざまな出来事を「トム・ソーヤの冒険」、「ハックルベリー・フィンの冒険」をはじめとした数々の冒険小説のなかに生き生きと描いた。
「ベッキー・サッチャーの家」は「トム・ソーヤの冒険」の主人公ベッキーの住居で彼女はマーク・トウェイン初恋の人(写真6)。Mark Twain’s Boyhood Homeにはトムがポリーおばさんに叱られてペンキ塗りをさせられた板塀が今もある(写真4)。
町なかはどこに行ってもマーク・トウェイン一色、蒸気船が往来する19世紀末のミシシッピ河畔の美しい小さな商業港の雰囲気が今も残されている。船運の衰退がその後の町の開発をピッタリ止めてしまったことがかえって幸いしたのだ。
マーク・トウェインは19世紀末から20世紀初頭における最高ランクの文筆家と評され、フィクション、ノンフィクションから歴史小説、紀行文学、文芸評論までこなし、1910年に74歳で死去。
文豪アーネスト・ヘミングウェイは、「あらゆるアメリカ現代文学はマーク・トウェインのハックルベリー・フィンに由来する」と賛辞を送った。トウェインが晩年に移り住んだ東部コネチカット州の旧邸宅も見学したが、そのことはハートフォードの頁に記す。
気に入って二日連続で訪ねた町中にあるトスカーナレストランThe Brick Ovenの料理には正直いって驚いた(写真2)。ニューヨークのミートパッキングあたりにありそうなカジュアルかつ都会的で行き届いたお店。南部の田舎町らしくない雰囲気に少し不思議な感じがしたが、よく考えてみれば当地は瀟洒な暮らしぶりで知られたマーク・トウェインを生んだ町。かつての洗練と賑わいの面影はしっかりと食文化に生きていた。

バトンルージュ

19世紀の南部繁栄を物語るプランテーション

バトンルージュはアメリカ南東部、ルイジアナ州の南東部にあり面積は205平方km(79平方マイル)、標高21m。1699年、インディアンが住む当地にフランス人が入植し町の開発が始まった。バトンルージュはフランス語で「赤い杖」の意味。
1803年アメリカはバトンルージュを含むルイジアナ全域をフランスから1500万ドルで買収した。当時のフランス領ルイジアナとは現在のアメリカの真ん中を縦断するミシシッピ川流域の15州。現在の感覚では到底想像もつかないがフランス皇帝ナポレオンはアメリカ15州の売却益をイギリスとの戦費にあてた。
アメリカ領となったバトンルージュは1849年にルイジアナ州の州都となり町の発展がはじまった。19世紀に建造されたゴシック・リバイバル様式の旧州会議事堂(写真5)の1マイル北側に1932年に建設された高層の州会議事堂がそびえたつ(写真4)。
当地の南50マイルにあるオークアレイ・プランテーションを訪ねた。かつて栄えた大農園の邸宅跡だ。オークアレイとはフランス語で「樫の小路」の意味。何といっても樹齢300年以上という樫の大樹が見事だ(写真1)。
煉瓦と漆喰によるこのグリーク・リバイバル様式の邸宅は砂糖王と呼ばれたサトウキビ農園主バルカー・エメが1837年に建てた。設計はジョセフ・ピリ。所有者は時代ごとに変わり1925年には建築家リチャード・コッホにより大規模な修復が行われた。
いくらアメリカでもこれだけの歴史遺産を個人資産で維持してゆくのは難しいのだろう。最後の所有者ジョセフィン・スチュワートが土地と邸宅を寄付しオークアレイ財団となり、現在はアメリカ歴史的建造物(National Historic Landmark)に指定されている。
いくつかのプランテーションを見学したが一様に19世紀の南部貴族の驕りと奴隷史を物語る重々しい空気感が漂っていた。栄華を極めた大農園主は南北戦争を境に没落した。

パドレアイランド国立海浜公園

海岸草原、コースタル・プレーリー

パドレアイランド国立海浜公園はアメリカ南西部、テキサス州南部にあり、面積は528平方km(203平方マイル)。パドレ島はテキサス海岸線から2マイルほどの沖合に並行する幅2マイル、長さ数百マイルに及ぶ細長い島。
コーパスクリスティから町の東端に架かる3マイルの橋を渡れば、あっけないほどかんたんにパドレ島に到着する。しかし着いてみて感じたのはこの島は陸と海の境界がきわめて曖昧だということだ。これはコースタル・プレーリー(海岸草原、Coastal Prairie)と呼ばれ、まさに草むらと海が混ぜ合わさったような不思議な風景だ。
メキシコ湾岸では陸地と水域の中間にあたる湿原や沼沢地、干潟が豊富でこれらを総称してウェットランドと呼んでいる。水鳥の生息地になるだけではなくウェットランドは地球規模で水系を調節する働き、つまり河川の氾濫や高波、津波などの自然災害を最小限に食いとめる役割も担っているのだそうだ。
当地はウミガメの産卵地としても知られ、加えて280種の渡り鳥が世界各国から飛来するというアメリカでも有数の海浜保護区となっている。
フロリダからメキシコ湾岸地域には稀に桁違いに巨大なハリケーンが襲来する。1554年、スペイン艦隊サンエステバン(San Esteban)はパドレ島海域で暴風雨に遭い難破。巨額の金銀財宝が海中に沈み300人が死亡するという歴史上の海難事故が起きた。
16世紀のスペインといえば無敵艦隊(Spanish Armada)を率いた世界の覇者。1521年にアステカ文明、その後マヤ文明を滅ぼし1532年にはインカを全滅させ、南北アメリカを制圧。東南アジアを含む世界制覇に邁進中のスペイン黄金の世紀(Siglo de Oro)と呼ばれた絶頂期の出来事だった。
それから410年を経た1964年にサンエステバンは当地沖合で発見された。年月をかけ修復を終えた難破船は現在コーパスクリスティ科学歴史博物館に展示されている。

ハドソンバレー

ニューヨーク郊外の田舎町

ハドソンバレーはアメリカ北東部、ニューヨーク州マンハッタンから北に延びるハドソン川流域地帯。ウエストチェスター郡の面積は1295平方km(500平方マイル)。ハドソン川は五大湖のひとつであるエリー湖から運河でつながれ、南下して大西洋まで流れる。
1609年、オランダの東インド会社(the Dutch East India Company)に雇われた探検家ヘンリー・ハドソンがこの地域を調査しこの名称となった。オランダにとって黄金の世紀と呼ばれた17世紀は貿易、軍事、科学、芸術などすべての分野で世界に君臨する先進国だった。
1625年、当地にオランダ人が入植、マンハッタン島はニューアムステルダムと名付けられた。当地はビーバーが多く棲む大自然に恵まれた湿地帯だったが、オランダ人は入植当時からこの地の将来性、世界一級の大都市に変貌する姿を見出していたという。
すぐれた貿易港の特質をもった地形、ハドソン川による交易、大型建築を可能にする硬い地盤の当地はやがてニューヨークと町の名を変え、1788年の合衆国憲法発令に伴いアメリカ最初の首都となった。
マンハッタンからハドソン川に沿って北上、タリ―タウンにキャッスルホテルという上品な施設がある。この建物は1897年ヘンリー・キルバンにより城として設計され、1981年には歴史的建造物(National Historic Landmark)に指定されている(写真5-7)。
周辺にはしっとりとした森と渓谷、そして田園風景が広がる。当地にはロックフェラー、ルーズベルトなど富豪の旧邸宅も多くあり、とても地理風水がよいのだろう、凛と澄んだ空気感が心地よい。
ロックフェラー旧所有地を活用したブルーヒル・ストーンバーンズは体験型教育農場。牛、豚、鶏が放し飼いにされ果物や野菜の農園もあり、これらは併設されるオーガニックレストランの食材となる(写真3-4)。もっとも予約がとりにくい店としても話題。
世界一の大都会ニューヨーク・マンハッタンからたった1時間。これほどゆたかな自然があるとは驚きだ。

バッドランズ国立公園

映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」の舞台

バッドランズ国立公園はアメリカ西部、サウスダコタ州南西部にあり面積は924平方km(357平方マイル)、最大標高は1018m、1978年に国立公園に指定された。
アメリカ大陸の真ん中特有の大平原地帯を走行していると突然切り立った白褐色のロックマウンテンンの風景が出現する。なだらかな緑の草原と寂寥とした岩山の対比は実にダイナミック。
バッドランズの地質はアメリカ大自然のなかでも比較的新しく、地殻変動で隆起したメサ(台地)が数十万年前に当地の方向に流れ込んだシャイアン川に削られ現在のような特異な風景が出来あがった。この先数十万年で岩山はすべて浸食され、やがて平地になるという。
グランドキャニオンの最古の地層は20億年前なので、バッドランズの景観が生まれて消え去るまでの百万年は地球の歴史から考えるとほんの一瞬の儚い出来事だといえるかも知れない。
当地は元々インディアンの居住地だった。バッドランズのシーダーパス(Cedar Pass)にあるピナクルと呼ばれる奇妙な形の岩山はケビン・コスナー監督・主演映画「ダンス・ウィズ・ウルブス(Dances with Wolves)」の撮影が行われた場所。
南北戦争を舞台にインディアン・スー族と北軍少尉の心の交流を描いた作品で1991年にアカデミー賞を受賞した。過去の西部劇とは異なりインディアン迫害やバッファロー殺戮などアメリカ白人社会への批判色が強い作品のため映画化を妨げる動きもあったという。
1889年にアメリカ政府により禁じられた「ゴースト・ダンス」は最近になって復活が許可された。死者の魂を蘇らせるス―族独自の伝統的儀式である。
インディアンが崇める神聖な土地、そしてその地下に眠る金やウランの鉱脈。尖がった奇怪な山々。バッドランズは文句なしのパワースポットである。
僕たち夫婦はCedar PassにあるCedar Pass Lodgeに宿泊した。キャビンのテラスにはウッドチェアがあり眺望は抜群、ピナクルから吹く風がとても爽快だ。白木材をふんだんに使用した内装は簡素ながらも清潔感があり快適だった。

パームスプリングス

砂漠のオアシス

パームスプリングスはアメリカ西海岸、カリフォルニア州にあり、面積は246平方km(95平方マイル)。東に3554mのサンジャシント山、北にリトルサンベルナルディノ山脈、南をサンタロサ山脈に囲まれた盆地。
アメリカ最高の晴天率と年間平均気温21度の気候。水源となる湖もあり、地理風水に恵まれた実に素晴らしい土地柄だ。
数千年に渡り、高峰サンジャシント山を信仰してきたインディアン、カウイヤ(Cahuilla)族は、その麓にあるパームスプリングスを聖地と考えていた。たしかに当地には人をリラックスさせる緩やかな雰囲気が漂っている。この心地よい空気感はかなり広範囲なものでパームスプリング市の東南のパームデザート、ラキンタ地区にまで及んでいる。
パームスプリングスは19世紀末から開発が進み、現在はゴルフリゾート、高級別荘地として人気が高い。夏は暑いが、湿度が低く爽やか。冬に日本から訪ねるバケーション用の避寒地としてはおそらくアメリカ本土ではもっとも安定して暖かいと思う。
僕はエレベーターを使うビルディング形式のリゾートは苦手。できれば平屋でベランダから出入りできるような施設に泊まりたいといつも思っている。
当地にはウェスティン・ミッションヒルズ(Westin Mission Hills Resort and Villas)やラキンタ(La Quinta Resort and Club)など低層のビラがたくさんある。前者は近代的でクリーン、後者は1926年創業の古い建物(写真2-3)。ラキンタはナチュラルな庭や建物だけでなくレストランのメニューも気に入っている。
なおパームスプリングスでは風力発電の風車が目立ち、こうした場所をウインドファーム(Wind Farm)と呼んでいる(写真4)。
アメリカは1980年代から風力発電に力を注いでいて、パームスプリングスはその代表格。世界の風力発電の総量は年間540ギガワット。中国は188ギガ、アメリカは89ギガ。日本とほぼ同じ面積のドイツの発電量が56ギガなのに対しわが国の3ギガはあまりにも寂しい数字。
SDGsが叫ばれる今日、風力発電に限らず太陽光、バイオマスなどグリーンエネルギー比を高める努力は先進国の義務であると思う。

ハーパスフェリー

南北戦争の激戦地

ハーパスフェリーはアメリカ南東部、ウエストバージニア州ジェファーソン郡にある歴史遺産の町、面積は1.6平方km(0.6平方マイル)、標高は149m。
1970年代の大ヒット曲、ウエストバージニアの州歌でもあるジョン・デンバーのカントリーロード(Take Me Home, Country Road) に当地から眺めるブルーリッジマウンテンやシェナンドーリバーの風景が歌われている。
大西洋チェサピーク湾に注ぐポトマック川とシェナンドー川が鋭角で合流する三角地帯の内側に位置し、ウエストバージニア、バージニア、メリーランドの3州の境界地域でもある。
1733年にポトマック川を越えて西側に渡るフェリーが建造され、バージニア州議会からその権利を取得したペンシルバニア州フィラデルフィア出身のロバート・ハーパー(Robert Harper)の名にちなんでハーパスフェリーと命名された。
植民地時代にはチェサピーク湾とオハイオ運河を結ぶ重要な河川交通を担い、19世紀に入りハーパスフェリーはポトマック鉄道の要衝となった。初代大統領となったジョージ・ワシントンは兵器の製造地を模索し、当地が工場地として決まり開発が進んだ。
1859年に奴隷の開放を主張するジョン・ブラウンがこの兵器工場を襲撃し、逮捕され即刻処刑となった。この事件が1861年にはじまった南北戦争の引き金になったと言われている。
南軍の最北端地としてハーパスフェリーは激戦地となり、1862年9月12日から3日間のハーパスフェリーの戦いは壮絶さを極めた。1944年に当地は戦争遺跡として国立歴史公園(Harpers Ferry Historical Park)に指定されている。
歴史公園には多くの観光客がいたが、いつもは明るいアメリカ人もさすがに神妙な面持ちだった。

ハートフォード

「トム・ソーヤの冒険」、マーク・トウェイン晩年の住まい

ハートフォードはアメリカ北東部、コネチカット州の州都で面積は47平方km(18平方マイル)、標高は18m。1614年にインディアンが居住する当地にオランダ人が入植、砦を築きニューネーデルランドに属するオランダ領となった。
コネチカット川沿いのハートフォードはオランダ本国との貿易拠点となった。しかし1630年代に入りイギリス人が進出、結局オランダは1654年には砦から撤退した。
コネチカットの州名は「quinatucquet、長い川に沿った」を意味するインディアン(アルゴキン語)の言葉。長い川とはカナダ、ケベック州を上流とし大西洋岸に流れるコネチカット川をさす。
現代のハートフォードは保険会社の町として知られている。人口12万足らずの小さな町に30社以上の保険企業が本社を構える。
町の中心部にあるマーク・トウェイン(1835-1910)の旧邸宅を視察した(写真1-3)。トウェインは19世紀末から20世紀初頭におけるアメリカ最高の文筆家と称えられている。子供の頃を過ごし「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」の舞台となったミズーリ州時代の様子はハンニバルの頁に記した。
南北戦争に従軍後、サンフランシスコで新聞記者となり1870年に結婚、翌年ハートフォードに移り住み作家活動に専念し数々の名作を発表。大人気作家となったマーク・トウェインは1873年にニューヨークの建築家エドワード・ポッターに依頼し当地1万4千平米の広大な庭に個性的な構えの邸宅を建設した。
しかし浪費に加えて投資の失敗などが重なり1894年、58歳であえなく破産。その後、文筆業に精を出し3年間で借金を完済、再び裕福な暮らしを復活させ1910年に74歳で死去と記録にある。トウェインは超一級の作家だったと伝えられているが報酬も破格だったのだろう。

バーズタウン

ケンタッキー・バーボントレイル

バーズタウンはアメリカ南東部、ケンタッキー州のほぼ真ん中、ネルソン郡にある町で面積19平方km(7平方マイル)、標高197m。町名の由来は1785年にバージニアから入植したデイビッド(David Bard)とウイリアム(William Bard)のバード兄弟による。
バーズタウンはバーボンウィスキーの町。バーボンの95%がケンタッキー州で生産されるという。スコッチは大麦が原料、バーボンはトウモロコシ、とにかく百聞は一見に如かず、僕たち夫婦はルイビルからからスタートしてバーズタウンを経てレキシントンに向かう100マイルの道のりを2日間で巡ることにした。ケンタッキー・バーボントレイルだ。
実際行ってみるとワイナリーとはだいぶ様子が異なる。ディスティラリーというのは全体的に男性的だと思った。広大な敷地に点在する施設は巨大なのでひとつの蒸留所を見学するだけで物凄い運動量になる。
ワイナリーはアメリカだけで1万か所あり、世界だと数10万に及ぶ少量多品種ビジネス。ひきかえバーボンはケンタッキー州のたった10数社で世界市場の95%を占めている。1か所から生産される量が全然違うのだ。
ヘブンヒルのテイスティング設備には感心した。グラスをぐるぐる回す優雅なワインとは流儀が違う。トランペットのような形のラッパが壁面に並んでいてスイッチを押すと液状のバーボンが顔に向けて噴出、全身全霊で香りを体感する何とも強引な仕掛けだ。ほとんどの人がスイッチを押すので、おかげで館内にはバーボン臭が立ち込めそれはそれで気分が上がる。
メーカーズマーク、フォアローゼズ、ジムビームなどそれぞれ見応えがあったが、何といってもワイルドターキーは素晴らしかった。ディスティラリーとしての設備も抜群なので見学をして回っていて快適だがミュージアムの展示デザインも素晴らしい。
ワイルドターキーのシンボルは七面鳥。かなり大型の鳥でアメリカ南部の森には多くの野生七面鳥が棲んでいるらしい。何しろルックスが凄いのだ。黒光りする羽毛で全身が覆われ首から上は無毛、イボだらけの顔にハゲアタマ。鋭い目つきでこわもて感は半端ない。
人気が出るキャラクターとは思えないのだが、何しろ当地はケンタッキー。日本に溢れるゆるキャラちゃんではバーボンのマスコットは務まらないのだ。しかしあまりにもドスが効きすぎたか、正面向きの顔は1999年に横顔にリニューアルされ最近はおとなしくなった。

ニューオーリンズ

フレンチ・クォーター、クレオールの町

ニューオーリンズはアメリカ南東部、ルイジアナ州、面積は907平方km(350平方マイル)。ミシシッピ川流域にあり東にメキシコ湾、北にポンチャートレイン湖とボーン湖、南にカダウアッチ湖と川と海と湖に囲まれた湿地の町。周辺にはバイユーソーベージ、サルバドール、ピロクシーなど貴重なウエットランドの生態系資源がある。
16世紀にスペイン人が当地を発見、17世紀にはフランス人が入植し1722年にはフランス領ルイジアナの首府となった。1763年に締結されたパリ条約で一時スペインに統括されたが、1801年に再びフランス領となった。
1803年、アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンがフランスのナポレオンからニューオーリンズを含むルイジアナ全州を破格の1500万ドルで買収した歴史的出来事は広く知られている。
ニューオーリンズはフレンチ・クォーターの名でも知られる通り、ダウンタウンにはフランス植民地時代を彷彿とさせる建物が多く残されている。ジャズの発祥地、美食の町でもあり、とりわけケイジャン料理、クレオール料理には僕たち夫婦も大いに満足した。
ふたつの料理は似ているが歴史背景はやや異なる。ケイジャンはカナダ東部のフランス領アケ―ディア(Acadia、訛ってCajun)から当地に来たフランス系住民の庶民的な料理。ジャンバラやガンボはピリッと辛口でとりわけ日本人には人気が高い。
クレオールとは当地では混血のフランス人、とくに西アフリカから来た奴隷子孫とフランス人の混血を指すことが多く、クレオール料理はケイジャン料理よりヨーロッパの香りが強い。
ニューオーリンズではクレオール料理にインターナショナルな要素を加味した創作系レストランが隆盛で、これらをヌーベル・クレオールという。

ナッシュビル

カントリー音楽の町、そしてブルーグラスの発祥の地

ナッシュビルはアメリカ南東部、テネシー州の州都。ケンタッキー州カンバーランド高原からテネシー州に流れるカンバーランド川沿いに位置し、面積は1363平方km(526平方マイル)、最大標高は350m。
18世紀末にヨーロッパ人が入植し1843年にはテネシーの州都となった。1862年、南北戦争さなかにアメリカ合衆国軍グラント将軍はカンバーラント川とテネシー川を掌握、ナッシュビルは南部連合国のなかで最初に北軍に陥落した。1864年、ナッシュビルの南側の町フランクリンの戦いでは1万人が戦死したと伝えられている。
南北戦争が終結した19世紀後半以降、ナッシュビルは綿花とタバコの生産で急速に経済を回復させ、また製造業と水上交易、南部における鉄道輸送の拠点として重要な地位を占めるようになった。
歴史地区に指定されているカンバーラント川沿いの倉庫街は、往時の町並みの雰囲気が残されている。またダウンタウン周辺には19世紀の繁栄期を物語るプランテーションが数多く残されている。
ナッシュビルを象徴するカントリーミュージックはアイルランドやスコットランドなどケルト人をはじめとしたヨーロッパ入植者の民謡が源流となりブルーグラスが生まれ、黒人音楽などと融合を繰り返し大衆化した。ダウンタウンにあるミュージックロウ(Music Row)には多くの音楽スタジオ、ライブハウスがある。驚いたことに朝からライブをやっている店もある。
最近、アメリカの地方都市のバーで酒を飲む人をあまり見かけない。しかし飲むのはノンアルコールビールなので酒自体は嫌いではなさそうだ。公共交通機関がほとんどないというのもある。このあたりは日本の事情とは少し違うかも知れない。

ナチェズ

南部の歴史街道、ナチェズ・トレース・パークウェイ

ナチェズはアメリカ南東部、ミシシッピ州南西部、ミシシッピ川流域にあり面積は36平方km(14平方マイル)、標高は66m。町の名前は紀元前から当地に居住していたナチェズ族に由来する。古代ミシシッピ文化圏の一角を成したインディアン部族である。
1716年にフランス人が入植、1729年に土地の支配権を巡る紛争がやがてナチェズ戦争に発展。ナチェズ族が敗北し、1731年にフランスが当地を掌握した。ミシシッピの州都となったナチェズはアフリカ人奴隷を導入、大農園経営で繁栄した。綿花は当地から積み出され、ニューオーリンズを経てヨーロッパに運搬された。
しかし1822年に州都がジャクソンに移りナチェズは徐々に衰退する。ミシシッピ河川交易の衰退、鉄道の出現に加えて、317人の死者を出した1840年のグレート・ナチェズ竜巻も大きな痛手となった。
ナチェズ・トレース・パークウェイ(Natchez Trace Parkway)は南北戦争以前の南部の面影を残す全長444マイル(710km)に渡る歴史街道(写真2-5)。当地を起点としてアラバマ州を経てテネシー州ナッシュビルまで続き、沿道には18世紀の古びた建物や綿花畑が残っている。
僕たち夫婦はナチェズからトレース・パークウェイを北に向かった。前夜とは打って変わり森を抜ける道は嘘のように静かで穏やかだった。
前夜とは竜巻事件のこと。ミシシッピ川流域を走行中に突然車のナビと携帯電話が同時にピーピーと鳴り出した。今までに聞いたことがない警告音だ。そのうち空が真っ暗闇になりもの凄い勢いの暴風雨が襲来。視界はゼロとなり車は走行不能。何とトルネードにはまってしまったのだ。
翌朝わかったことだが竜巻に吹っ飛ばされた車もあって、悲しいことに死者も出たという。本当に恐ろしい体験となった。旅の知識はあると思っていても不意の出来事への対応は中々難しい。アメリカ大自然を甘く見てはいけないということを痛感した。

デルマー

エネルギー溢れる静かな町

デルマーはアメリカ西海岸、カリフォルニア州南部に位置し面積は5平方km(2平方マイル)。ロスアンジェルスから海岸線沿いを南に120マイル。サンディエゴ空港から北に20マイルの距離。この地域は16世紀にスペイン人によって開拓されメキシコ領となり、1850年に敗戦したメキシコからアメリカに割譲されカリフォルニア州に併合された。
デルマーの夏は乾燥して涼しく、冬は湿潤。四季を通じて穏やかな気候に恵まれている。当地南側にはトーリーパインズ州立保護区が広がり、更にその南にラホヤ(La Jolla)の町がある。共にサンディエゴ都市圏の高級リゾート地として知られるが、ピーンと張りつめた静謐なデルマーに較べ、観光地化が進んだラホヤの雑然感は否めない。
デルマーの東隣にランチョ・サンタフェという小さな町がある。ひと気も少なくどこにでもありそうな田舎町に見えるが、実は知る人ぞ知る凄い住宅街。世帯平均年収がアメリカトップ。しかし華やかな高級住宅地感はどこにもない。ビル・ゲイツやアーノルド・シュワルツネガーなど高額納税者がひっそりと住むというが、当地を車で走ってもそれらしき住宅はどこにも見当たらない。富豪の敷地には森や谷があり空からでないと建物は見えないという桁外れのスケールなのだ。
デルマーは海沿いの綺麗な景観をもった抜けのよい明るい町。対象的に内陸側にあるランチョ・サンタフェは深い緑に囲まれた町。しかし共通するのはどちらの町もとても強い土地のオーラを発していて、静かな中にも溌剌としたエネルギーを感じる。
ランチョ・サンタフェではバレンシア(The Villas at Rancho Valencia)という広い敷地に建つビラ・リゾートに一度滞在したことがある(写真6)。内装は伝統的なスペイン風でやや古臭く感じたが、近所の人が食事に訪れるダイニングの雰囲気はさすがにエレガントだった。

デビルスタワー国立モニュメント

未知との遭遇、いったい何だ!この山は

デビルスタワーはアメリカ西部、ワイオミング州北東部に位置し、面積は5.5平方km(2.1平方マイル)、最大標高は1558m。1906年に国立モニュメントに指定された。
デビルスタワーといえばスティーブン・スピルバーグ監督「未知との遭遇」 のインパクトがあまりにも強烈。映画のラストシーンで山頂に円盤が舞い降りる。宇宙人が人類とコンタクトする謎の場所、それはデビルスタワーだった。
映画のイメージとどうしても重なるけれど、実際にデビルスタワーの麓に立つと今にも何かが起きそうな不思議な感覚に見舞われる。ワイオミングの穏やかな草原地帯の風景と、何の脈絡もなしにドンと突き出た独立峰の組み合わせはあまりにもミスマッチ、とにかくSF的な眺めなのだ。
デビルスタワーは古代より当地に住むインディアン・スー族、カイオア族、アラパホ族をはじめ20を超える部族の崇拝の対象となってきた。観光客増大とロッククライマーの出現により先住民は信仰のための祭祀が困難になったが、1994年にクリントン大統領が制定したインディアン聖地保護政策により伝統文化が復活しつつある。
実は山のように見えるかたまりは巨岩、ひとつの石だそうである。2億年前、中生代三畳紀の火山活動で噴火したマグマが厚い堆積岩層を突き破って垂直に吹きあがり、そのまま冷えて現在のデビルスタワーの形をした硬質の溶岩塊(響岩質斑岩)が地中に出来あがった。その後数千万年かけて周辺の堆積岩層が浸食されデビルスタワーが地上に出現したという。
デビルスタワー周辺の草原はプレーリードッグの一大生息地帯でもある。傍に近寄る人間にはお構いなし。小さな体を背伸びさせ、ひたすら遠くだけを眺める姿は何ともほほえましい(写真4)。悪魔の塔に圧倒された僕たち夫婦の緊張感はすっかり緩んでしまうのだった。

デッドウッド

西部劇、伝説のヒーローが集う死の森

デッドウッドはアメリカ西部、サウスダコタ州ラピッドシティから北西に40マイル、標高1382m、人口1300人余り。小さな田舎町だが、西部開拓時代には金鉱掘り、ガンマン、ギャンブラーなど数万人がたむろしたアウトローの町であった。
デッドウッドは古くからインディアンが住むブラックヒルズの北東部に位置する。当地はアメリカ各地から強制移住させられたスー族の居留地として、白人の居住どころかこの地を通過することさえ禁じられていた。しかし1874年に金鉱脈が発見され、法を守らないヨーロッパ入植者が続々押し寄せてきた。このことはブラックヒルズの頁に詳しく書いた。
いずにしても百数十年前、当地では日常的に争いが起きていた。保安官ワイアット・アープ、女流拳銃使いカラミティー・ジェーン、騎兵隊カスター将軍、インディアンの英雄クレイジー・ホースなど西部劇映画のレジェンドがオールキャストで入り交じり、結果的にバタバタと多くの人が死んでいった。
正義の殺し屋ワイルド・ビル・ヒコック(Wild Bill Hickok)は運悪く出入り口に背を向けて座った酒場Saloon No.10で後ろから撃たれて死んだ(写真1-2)。その時、手に持っていたポーカーの札はAceと8のツーペア。この手役は以来Dead Man’s Handと呼ばれている。
1989年、賭博は合法化され町は健全に再生されたが無法時代の面影が今も残る。町なかのミッドナイトスター(Mid Night Star)で食事をした。ケビン・コスナーが兄弟で経営しているサロンだ。映画「ダンス・ウィズ・ウルブス(Dance with Wolves)」で使用された衣装や小道具が展示されていて中々楽しめる(写真4-5)。
チェロキー族の血統を引くケビン・コスナーは町の北側にバイソンの博物館Tatankaを設立し、インディアン文化の啓蒙に多額の私財を投じている(写真6-7)。


デスバレー国立公園

荒々しい大地。灼熱の太陽

デスバレー国立公園はアメリカ西海岸、カリフォルニア州とネバダ州に跨るアメリカ本土最大の国立公園。公園面積13158平方km(5078平方マイル)は東京都の6倍。最大標高はテレスコープ峠で3368m、最低地点はバッドウォーターでマイナス86m。1994年に国立公園に指定された。
空気が極度に乾燥しているため、少々雨が降っても地上まで届かないという過酷な環境。摂氏35度以上の気温が年間8か月続き、真夏の最高気温は56.7度を記録したという、デスバレーはまさに死の谷なのだ
僕はアメリカで摂氏45度を体験したが日本の夏の暑さとはかなり違う感覚だった。汗を全然かかないのでそれほど不快感はない。しかし高温乾燥下では体からみるみる水分が奪われてゆく感覚がありそれに応じてどんどん水を補給しなければならない。そして気を付けるべきは帯電した車や金属のドアノブだ。不用意に触ると痛い目に遭う。バチっと静電気の火柱が飛び、相当恐ろしい。
これほど気温が高くなるとレストランやホテルは猛烈にエアコンを効かすのでたいていの日本人は暑さそのものより温度差と乾燥で体調がおかしくなる。しかしヨーロッパ系の白人はこういう環境下でもいたって平気、すこぶる元気である。
つけ加えるとアメリカの風邪薬や鎮痛薬は少し危険。成分が強いので日本人は四分の1に割って飲むと良いとよくいわれる。彼らは酒にも強くほとんど酔わないので驚いたこともある。西部開拓時代、この過酷な死の谷を越え更に西へ西へと進んだ人々が現実にいたかと思うと、その体力と精神力にあらためて驚く。
ファーニスクリーク(Furnace Creek)にビジターセンターがあり博物館もある。西部劇に出てくるようなFurnace Creek Innのビラとレストランは簡素だがたいへん雰囲気がよい。
なおデスバレーのレーストラック・プラヤ(Racetrack Playa)という地域で夜中に岩石が数十m移動する不思議な現象が度々目撃されている。1年に数十km移動したという報告もある。これはセーリングストーン(Sailing Stone)と呼ばれていて、今までに多くの科学者やNASAも調査
したそうだがはっきりとした理由はまだわかっていない。
2014年にアメリカの機関Scripps Institution of Oceanographyが2年がかりの研究により、セーリングストーンは岩石が氷に押されて動く現象という発表を行い一件落着したかに見えたがその後に新説が出てくるなど謎が完全に解明されたわけではなさそうだ。

デ・スメット

「大草原の小さな家」、ウォルナットグローブの続編

デ・スメットはアメリカ西部サウスダコタ州東部キングスバリー郡にあり、面積は3.0平方km(1.2平方マイル)、最大標高は526m、人口2010人の小さな町。
ローラ・インガルス・ワイルダー(Loura Ingalls Wilder)は1867年にウィスコンシン州ぺピンに生まれ、1874年にミネソタ州ウォルナットグローブ、1879年にデ・スメットに移住した。
1885年、18際になったローラはアルマンゾ(Almanzo James Wilder)と結婚。しかし夫はジフテリアに感染し脚が不自由となる。また1889年には長男フレディが死亡、同年火災のため住居を失い、旱魃により農場の権利も失った。
1年間ミネソタの農場に暮らし、1891年にアルマンゾの療養のためフロリダに移住するが翌年再びデ・スメットに戻りローラは裁縫、アルマンゾは鉄道人夫として働くこととなった。
ローラが住んだ開拓農地(写真3-4)、ローラ記念館(写真5-6)などを見て回ったが、ローラ・インガルスに纏わる施設以外にこれといって見るべきものは何もない閑散とした田舎町だった。
デ・スメットは「大草原の小さな家」、「長い冬」「シルバーレイクの岸辺で」、「この楽しき日々」、「はじめの4年間」に頻繁に登場するのでローラにとってもっとも思い出深い町だったのだろう。
当地での生活も困窮をきわめ1894年にミズーリ州マンスフィールドに最後の移住を決断。なけなしの全財産をはたいて買った小さな農地を少しずつ増やし、20年もの努力を積み重ね果樹園、牧場、養鶏場をつくり0.8平方km(24万坪)まで所有地を広げた。
インガルス一家の西部開拓の夢はようやく実を結びつつあった。このときローラは50歳。世界的ヒット「大草原の小さな家」刊行まであと十数年を費やすこととなる。

ツーソン

スペイン統治時代の面影を残す町

ツーソンはアメリカ南西部、アリゾナ州の南東、総面積は505平方km(195平方マイル)、最大標高は727m。
同じ南アリゾナでもフェニックスは砂漠地帯、ツーソンは山と川に囲まれた緑ゆたかな町。ツーソンには銀と銅の鉱脈があり、さまざまな輝石も産出する地下資源の町でもある。
当地は数千年来、インディアンの居住地だったが1539年にスペイン人による入植がはじまり、アメリカ・メキシコ戦争が終結する1848年まで300年以上に渡りスペイン統治下にあった。現在でもスペイン文化の影響がきわめて大きい町として知られている。
西部開拓時代のツーソン周辺では鉱山、牧場の利権を巡ってならず者が往来し数々の西部
劇の舞台となった。「OK牧場の決斗(Gunfight at the OK Corral)」は有名。1957年公開のパラマウント映画ではワイアット・アープをバート・ランカスターが、ドク・ホリディをカーク・ダグラスが演じ、監督ジョン・スタージェスの代表作品となった。
これは1881年、ツーソンから南西80kmにあるツームストン(Tombstone)で実際に起きた事件。ワイアットは1848年生まれで幕末の志士と同世代。アメリカには日本ほど歴史好きはいないが、それでも日本の坂本龍馬に匹敵するほど保安官ワイアット・アープの人気は絶大。20世紀以降の数々の小説や映画に登場する。
1994年公開の映画「ワイアットア―プ(Wyatt Earp)」ではケビン・コスナーが主役を演じ、また2001年にはロバート・B・パーカーが「ガンマンの伝説(Gunman’s Rhapsody)」というタイトルで小説にした。
ツーソンへは何度も訪ねたがホテルはLoews Ventana Canyon ResortとWestin La Palomaの印象が良かった。ツーソンの少し北にMiraval という素晴らしいスパリゾートがあり、このホテルを設計したクローダ・オーブリー(Clodagh Aubry)さんは僕の30年来のニューヨークの友人。環境主義者であり現代アメリカを代表する女流建築家である。

チャールストン

18世紀、アメリカ最大の貿易港

チャールストンはサウスカロライナ州東部沿岸、複雑に蛇行したアシュレー川とクーパー川に挟まれた半島に位置し、河口は深く大きな入江となっていて港湾都市として発展する素地を備えている。面積は348平方km(147平方マイル)。大自然と生態系の多様性に恵まれ、町の北側にはフランシスマリオン国立森林公園が広がり、さらに北にはモートリー湖、マリオン湖があり野生動物保護区となっている。
1670年、イギリス入植者により集落がつくられイギリス国王チャールズ2世にちなみチャールズタウンと命名された。領有権を主張するスペインやフランス、そして先住民との幾多の争いを経て次第にカロライナ植民地の中心地として発展してゆく。
18世紀に入り当地は大西洋貿易港として繁栄をきわめた。当時のヨーロッパでは鹿皮は馬具や書籍装丁用として大量の需要があり、文明化五部族の先住民から供給される鹿革を輸出、アフリカから奴隷を輸入した。
文明化五部族(Five Civilized Tribes)とはヨーロッパ入植者の生活文化を受け入れたチェロキー、クリーク、チカソー、チョクトー、セミノールのインディアン5部族を指し、彼らは独立戦争、南北戦争の徴兵にも応じた。
チャールストンは戦争、大火事、ハリケーン、洪水など度重なる災害に見舞われた土地でもある。1886年のチャールストン大地震では多くの建物が倒壊、1989年のハリケーン・ユーゴーの被災は記憶に新しい。しかし輝かしい過去の歴史を持つチャールストンの人々にとって町並み保存は最大の課題であり、莫大な財政投入により現在の美しい町が維持されている。碁盤の目のように区画された歴史地区はイギリス人が入植した1670年にすでに計画されていたという。

タオスプエブロ

今もなおプエブロ族が住むアメリカ最古の木造集合住宅

タオスはアメリカ南西部、ニューメキシコ州中北部タオス(Taos)の北側3マイルに位置し、面積は0.08平方km(0.03平方マイル)、標高は2130m。サンタフェから北に70マイルの距離にある。
タオスプエブロは13世紀に築かれた赤褐色のアドビ(Adobe)煉瓦で建てられたインディアン、プエブロ(Pueblo)族の住居遺跡。そして現在も百人前後のプエブロ族が実際に生活を続けている。1978年、ユネスコ世界文化遺産に登録された。
アドビとは日干し煉瓦のこと。粘土にわらや砂などを混ぜ、型に入れ天日にさらして乾燥させた建築材料。アドビを積み上げ表面を泥で塗り固めて建物を強固に保つ。吸収した太陽熱をゆっくり放出するため夏は涼しく冬は暖かい。防音性、耐久性にも優れていると考えられている。
アドビは南北アメリカ、中東、北アフリカ、スペインでも利用されているが、タオスプエブロの土の家はとりわけ素晴らしい。やわらかい曲線と面で構成された建築造形はニューメキシコ州の乾いた大地、澄み切った真っ青な空と見事に調和して美しい。
タオスプエブロは16世紀にスペイン人による侵攻、その後のメキシコ支配、1847にはアメリカ軍の包囲攻撃を受け最後には陥落した。しかし1970年、リチャード・ニクソン大統領は当地をアメリカ領から除外しプエブロ族に返還した。
タオスプエブロは北に山脈(写真4)が聳え、西にリオグランデ川(写真6)、南に土地が開けた地理風水に優れた土地柄。集落の中を流れる小さな川(Red Willow Creek、写真5)は、古来プエブロ族に聖地として崇められてきたブルー湖(Blue Lake)から流れ出る。澄みきった空気感が清々しく強いパワースポットの土地である。
当地はアメリカ政府に保証された先住民居留区(Indian Reservations)であり観光目的での土地開発はできない。またブルー湖に無許可で訪れることも禁止されている。

ダイアースビル

映画「フィールド・オブ・ドリームス」撮影地

ダイアースビルはアメリカ中西部、アイオワ州北東部にあり面積は14.6平方km(5.6平方マイル)。アメリカは世界有数の農業大国。アイダホといえばポテト、アイオワはコーン。見渡す限りのトウモロコシ畑。その景色は海原に似て、風になびく繁った葉は押し寄せる波のようで生命力に溢れる。
そのトウモロコシ畑を抜け出たところに小さな野球場はあった。「フィールド・オブ・ドリームス」はW.P.キンセラの小説「シューレス・ジョー」の映画化。
レイ・キンセラはトウモロコシ畑で不思議な声を聞く。そのインスピレーションをきっかけに畑を切り拓き、野球場をつくったことからファンタジーがはじまる。ケビン・コスナー主演、1989年公開でアカデミー作品賞を受賞した。撮影場所は元通りの畑となったが、映画を懐かしむ人の声が集まり再び野球場に戻されたという。
明るいグラウンドは弾けるようなエネルギーに満ちていた。まさにパワースポットともいえる高揚感。何もない広大な畑の真ん中なのでそんなはずはないと思うが元々特別な土地だったのかも知れない。あるいは映画撮影という創造を通じて土地の気力が高まったのか。いずれにしてもカラダがスッと軽くなるような気持ちよい空気感に包まれたフィールドだった。
ちなみにアメリカのトウモロコシ生産量は世界トップ、その最大生産地がアイオワ州。そして莫大な量のトウモロコシの30%が再生可能エネルギー、バイオマス・エタノールに変わる。
ガソリンにエタノールを混合するのはアメリカでは常識。「E10」というのはエタノール10%で、これが標準。アメリカ最高峰のモーターレース、インディで使用される燃料は「E85」、つまりバイオエタノール85%と規定されている。

セントルイス

栄光と挫折が交錯する町

セントルイスはアメリカ南東部、ミズーリ州東部にあり面積は171平方km(66平方マイル)。北部の氷河湖を源とするミシシッピ川が蛇行して南下、流域に肥沃な土壌をもたらした。自然に恵まれた当地は9世紀ころから先住民によるミシシッピ文化の中心地として栄えた。
かつて当地にはマウンド(Mound)というピラミッドと日本の古墳の中間にあたる断面台形の巨大なインディアン遺跡が数多く見られ当地はマウンドシティとも呼ばれた。しかし数百に渡るその多くは都市開発により失われた。
17世紀にはフランス領ルイジアナの中心地として繁栄し、1811年に開発された蒸気船はアメリカ北部とニューオーリンズ、そしてヨーロッパを結ぶ当地の河川交易をますます活発にさせた。セントルイスはアメリカを南北に縦断するミシシッピ川のちょうど中ほどに位置する。
鉄道の登場でミシシッピ水運は下火となるが、運よく1926年にシカゴとカリフォルニアを結ぶ産業道路ルート66が開通。セントルイスは再び交通の要衝としてアメリカ産業経済で重要な地位を占めるようになる。
1904年に万国博覧会、そしてアメリカ初となるオリンピックも開催され、セントルイスは光り輝く黄金期を迎えた。当地を象徴するゲートウェイ・アーチはフィンランドの建築家、エーロ・サーリネンの設計。ミシシッピ河畔に建つ高さ192m、幅192mの半円形はセントルイスで最も高い建築物だ(写真3-4)。
皮肉なことにこのアーチが完成した1965年頃からセントルイスの大凋落がはじまった。その後の町の空洞化はおびただしく、犯罪発生率が急増。中心部の人口は半分になってしまい、今やアメリカでもっとも危険な都市となった。
19世紀はミシシッピの水運、20世紀はルート66の陸運に恵まれた栄光のセントルイス。21世紀の100年間、この地はどんな町に変わってゆくのだろうか。

セドナ

古くは先住民の聖地、現在はヒーリング・リゾート

セドナはアメリカ南西部、アリゾナ州北部、面積は48平方km(19平方マイル)、最大標高は1319m。アリゾナ州は南北に645kmありサボテンが林立する南部の砂漠地帯は暑く、反対に北部の森林地帯は冷涼、冬には降雪もある。セドナは典型的な北部アリゾナの気候。
樹林を縫うように流れるクリークは初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々に姿を変え美しい。また凛と澄むセドナ特有の空気感、赤から紫、深い青のグラデーションに染まるロックマウンテンの夕景はまさにアメリカ大自然のハイライトともいえる。この魅力的な景観に加え、この土地特有のスピリチャルな霊力がセドナの名を世界中に広めることとなった。
かつてセドナは千年以上に渡りインディアンの信仰の中心地として崇められた土地であった。数多くの岩山、とりわけエアポートメサ、カセドラルロック、ベルロックなど7箇所の地中には巨大な磁場エネルギーがあり、これが天空に向けて渦巻状に放出されている。これをアメリカではボルテックス(Vortex)と呼び、メンタルヘルスや運気に影響をもたらすという。
セドナはコロラド台地という火山地帯の活断層上にあり今も地殻活動が続いている。また地中には鉄分とクリスタルが多く含まれ、またターコイズ、ラピスラズリなどの輝石も埋蔵されている。
実際にセドナでは心身がとても自由に感じられ、曇りのときでも風景がキラキラと輝くように思え、独特の高揚感が得られる。
セドナには何度も訪れたがとりわけ初夏と晩秋の空気感は格別。最近はパワースポットの側面だけが強調されることが多いが、それよりもこの土地ならではの季節の移り変わりや綺麗な風景を純粋に楽しむのがよいと思う。

スプリングフィールド

ランド・オブ・リンカーン

スプリングフィールドはアメリカ中西部、イリノイ州のほぼ真ん中に位置し面積は156平方km(60平方マイル)、シカゴから南西に200マイル距離。町の中心地には旧議事堂があり、いかにも州都らしい威厳のある町の佇まい。
その北側にリンカーン図書館、南側には国立公園局が管理するLincoln Home National Historical Siteがある。リンカーンの家はグリークリバイバル(Greek Revival)様式で1839年建築。ほかにもリンカーンに因んだ施設がひしめき、当地はまさしくリンカーンの町である。
リンカーン(Abraham Lincoln)は弁護士、イリノイ州議員、上院議員時代の25年間を当地で過ごし1861年に第16代大統領に選出された。
共和党始まって以来の大統領リンカーンは南部の諸州とことごとく対立。南北戦争の勃発に繋がった。しかしリンカーンは北部州連合軍を勝利に導きアメリカの南北分裂は回避されたが、終戦6日後の1865年4月15日、ワシントンで観劇中に暗殺された。
リンカーンは黒人奴隷開放を推進した人道主義者とも評されるが一方では先住民インディアンの迫害、殲滅政策をもっとも強硬に進めた大統領としても知られている。リンカーンによる1862年のインディアン・スー族酋長等38人の一斉絞首刑はアメリカ死刑史に残る記録となっている。
リンカーンホーム(Lincoln Home)の西側にあるビール醸造所Obed & Isaac’s Microbreweryで食事をした(写真4-6)。僕は食事と共に飲むビールはアンバーエールが好み。やや赤みがかった琥珀色で程よい酸味があり、少し焦げたような香りが食欲をそそる。ピルスナーは下面発酵なので冷やして飲むとうまいが、エールは発酵温度の15度から20度くらいが適温。
いずれにしてもアメリカやヨーロッパには、その時の気分や好みに応じた嗜好のバリエーションが多くあり楽しみも多いが、日本のレストランのビールは選択肢が少なくその点ではつまらない。

ストウ

「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ家ロッジ

ストウはアメリカ北東部、ニューイングランド地方内陸部バーモント州にあり、なだらかな丘陵が連続する草原と森林に囲まれた緑深い町。面積は188平方km(73平方マイル)、標高は295m。
西のマンスフィールド山、東側のパットナム州立森林公園に挟まれたバレー地帯で、町の中心をリトルリバーが流れる。トラップファミリーにとって故郷オーストリア・ザルツブルグに似ていた気候風土だったのかも知れない。第二次世界大戦さなかの1941年、彼らはアメリアへの亡命を決意、無事東海岸にたどり着きトラップファミリー合唱団として生計を立て、そしてストウの小高い丘にある農場を購入した。
トラップ大佐と7人の子供、修道女マリアが祖国を脱出しアルプスを越えて逃れる映画シーンはあまりにも有名。1959年に初演されたミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」を原作として1965年には映画化され世界的なヒット作となった。「ドレミの歌」、「エーデルワイス」はじめ音楽は「王様と私」などで知られるミュージカルの巨匠、オスカー・ハマースタイン2世が作詞し、リチャード・ロジャースが作曲した。
一躍有名になった家族は1968年にストウの農場のなかにロッジを建設、敷地は9.7平方km(300万坪)に及ぶ。映画「サウンド・オブ・ミュージック」でジュリー・アンドリュースが演じたマリアの三男ヨハネスが現在このロッジを経営している(写真1-6)。
ロッジには3泊の滞在だったがとても快適、正直なところ1か月くらい滞在したいと思った。ダイニングも素晴らしい。オーストリア料理の子牛のカツレツ、ヴィエーナ・シュニッツエル(WienerSchnitel)、デザートのザッハトルテ(Sacher Torte)も抜群だった。とくにロッジの正面玄関あたりに清々しい気力が満ちていて、この場所がパワースポットではないだろうか。トラップ大佐とマリアの眼力はさすがである。

スコッツデール

インディアンアートとイマジネーションの町

スコッツデ―ルはアメリカ南西部、アリゾナ州南部にあり面積は478平方km(184平方マイル)、最大標高は380m。北に小高く、南にソノラ砂漠が広がり、東にソルト川、西には大都市フェニックスを控える。
当地には紀元前800年から紀元1400年頃まで栄えたインディアン、ホホカム(Hohokam)族の文化遺跡がある。15世紀以降はピマ(Pima)族が居住した。
スコッツデールのランドマーク、キャメルバックマウンテンはその名の通りラクダの背の形をしていて奇妙。今にも動き出しそうにも見える。スコッツデ―ルの木々や雲、山々など自然界の造形はさまざまに人間のイマジネーションを刺激する。
同じくアリゾナ州にあるセドナのボルテックスといわれるパワースポット感とは顕かに違っていて創造心を掻き立てるエネルギーのようなものだ。建築家フランクロイド・ライトは1937年にスコッツデールの砂漠の真ん中に建築学校タリアセンウエストを創設し、20世紀のアメリカ建築に多大な影響を与えた(写真2)。
スコッツデールの土地柄に惹かれたスペインの建築家パオロ・ソレリは1970年にア-コサンティ(Arcosanti)の建設を開始した。エコロジーコンシャスとゼロエミッションを標榜した未来都市の創造である(写真3-4)。1980年代にはじめて建設途上のアーコサンティを視察したが、それから30年以上たった現在でもまだまだ進行中。完成まであと数百年かかるとのこと。
とにかく僕にとってアリゾナはもっとも好きな州、ゲートシティともいえるスコッツデールは度々訪れる場所。真冬でもプールサイドで過ごせる気候、レストラン、ショッピングモールも数多くあるし便利。ダイナミックな自然景観、林立するサワロサボテン、インディアンアートギャラリーなどなどいろんな意味で魅力にあふれている。
スコッツデールはホテルもアメリカ最高レベル。サービス、料金のバランスもよく粒ぞろいだ。僕が好きな平屋のビラタイプのリゾートもたくさんある。宿泊したなかではボールダーズ(Boulders Resort)、サンクチュアリ(Sanctuary)、ウエスティン・キアランド(Westin Kierland Villas)、フェニシアン(Phoenician)、プリンセス(Scottsdale Princess)が印象に残っている。どこもがそれぞれの地形や個性を活かしていてサービスも洗練されている。
フェニックス・エリアになるが有名なアリゾナ・ビルトモア(Arizona Biltmore)にも泊まってみたがはっきりいってがっかりした。フランクロイド・ライト設計という建物は立派だがそれ以外は平均点にも届かない。

ジョシュア・ツリー国立公園

奇妙な植物と巨石奇岩がつくる不思議な風景

ジョシュアツリー国立公園はアメリカ西海岸、カリフォルニア州南東部に位置し、面積3196平方km(1233平方マイル)は東京都の1.5倍。1994年に国立公園に指定された。
ジョシュアツリー(Yucca brevifolia)とは多肉植物リューゼツラン科ユッカ属の1種。トゲだらけの堅牢な葉と幹を持ち最大樹高15m、春に花が咲く。
この国立公園は僕が好きなアメリカ大自然の典型パターン。地殻の大変動で形成されたダイナミックな地層や巨石、そしてサボテンや多肉植物。こういう土地ではパワースポットに出会えるチャンスも多い。そして必ずといってよいほどインディアン文化繁栄の形跡が残されており、そして彼らが信仰の対象とした聖地がある。
調べてみると1855年には先住民チェマウェベイ(Chemehuev)族とカウイヤ(Cahuilla)族の住居があった。しかし1913年には当地から去ったという。彼らが独自に土地を捨てたのか、ヨーロッパ入植者の迫害があったのかどうかはわからないが、もしかしたら気候変動や水脈の変化など土地の環境に陰りが出たのかもしれない。
巨石の風景はアリゾナ州ケアフリーに近い。カタチが象徴的ないくつかの岩山に登ってみたが、ケアフリーで感じられる風が体を通り抜けるような独特の清々しさは感じられなかった。条件はそろっているが当地にはパワースポットは無いかもしれない。
現在、ジョシュアツリーはロッククライマーの人気スポットになっている。公園の北側にカリフォルニア州道62号、南側にインターステイツ10号があり、公園へのアプローチは3か所。
62号西側からジョシュア・ツリービジターセンター(Joshua Tree Visitor Center)、62号東側からオアシスビジターセンター(Oasis Visitor Center)、南側の10号からコットンウッドビジターセンター(Cottonwood Visitor Center)にそれぞれ入ることができる。見所は北西部に多いので62号の西から入り東に抜ける、あるいはその逆というのがお薦めのコース。

シェナンドー国立公園

温帯湿潤、標準的な大自然

シェナンドー国立公園はアメリカ南東部、バージニア州中部に位置し、面積は805平方km(311平方マイル)、最大標高はホークスビル・マウンテンの1235m。1935年に国立公園に指定された。首都ワシントンD.C.から西に70マイルの距離なのでもっとも大都会に近いアメリカ国立公園といえる。
細長い国立公園の北端にあるフロントローヤルという町から南のウエインズボロまで105マイルに渡るスカイラインドライブがあり、この曲がりくねった眺めのよい道路がシェナンドーの観光価値のかなりの部分を占めている。
僕たち夫婦はスカイラインドライブの中程にあるスカイランドリゾート(Skyland Resort)という国立公園内ロッジに宿泊した。国立公園に指定される40年前に出来たというので相当古い。素朴な平屋の木造は味わい深く僕が好きなタイプのロッジなのだ。シェナンドー渓谷が眼下に一望できるレストランも雰囲気がある。
シェナンドーの景観はカシ、カエデ、スズカケなど落葉樹が主体で、夏休みよりもう少し遅い時期に訪れていたら赤から茶色に染まる紅葉のグラデーションを見ることができた。なだらかな山脈と渓谷。しかしこの風景はどちらかといえば日本的ともいえる。
ただしアメリカ東部では、断崖絶壁のグランドキャニオンや巨大バイソンと出会うイエローストーンのような大迫力のシーン体験は期待できない。シェナンドーの緯度は日本本州の真ん中と同じ38度で、冬寒く、夏は蒸し暑くなる気候も日本と似ている。平均的温帯湿潤気候、つまりカシやカエデの植物相だけでなくシカやキツネが住む森の動物相も同じなのである。
圧倒的な景観がない分、気張ることなく、日本に居るかのようにゆったりと過ごせる大自然といえるが、何のためにわざわざ日本から来たかという疑問は残る。

シャーロット

かつての金鉱山、現在は世界有数の金融センターの町

シャーロットはアメリカ南東部、ノースカロライナ州南西部に位置し面積は771平方km(298平方マイル)、最大標高は229m。
インディアンのカトーバ族の居住地であった当地に、18世紀中頃スコットランド、アイルランド系のヨーロッパ人が入植した。シャーロットの地名は当時のイギリス国王ジョージ3世の王妃シャーロットから名づけられた。
1779年、シャーロットの北東部リトルメドウ・クリークで12歳の少年コンラッド・リードが金色の石を発見。それをきっかけに次々と金鉱脈が見つかり50以上に渡る金山が開発され、シャーロットはゴールドラッシュの町として大繁栄をする。1837年にはシャーロットに造幣局の支局が設置され金貨が鋳造された。ゴールドラッシュは徐々に西へ移動したが、南北戦争以降、綿織物産業の町として再び活況を呈する。
1874年に当地で開業した地方銀行はその後アメリカを代表する銀行バンクオブ・アメリカ(写真4)となり、ワコビア(Wachovia, Wells Fargo)の本社もシャーロットだ。
20世紀後半、シャーロットはニューヨークに次ぐアメリカ第2の金融都市となった。アメリカ史上はじめて「金鉱脈」が発見され、現在「金融センター」として発展を続けるマネーと「金」に縁深いゴールデンパワースポットの町なのである。
とにかく町中いたるところ大手銀行だらけ。それと関連付けられたようにメジャー系列のホテルが数多くある。しかし金融の町だけあって何となくそわそわとして落着かない。僕たち夫婦は郊外にあるバランタイン(The Ballantyne)を選択、このホテルの外観は普通のように見えて一歩中に踏み込むとかなり上質(写真4)。控えめで上品。とくに客室のインテリアは洗練の極み。カーテン素材や色柄など細かいところへの心配りも素晴らしい。さすが歴史あるシャーロット、キンキラの成金ではないのである。

サンタモニカ

歴史街道ルート66の終着点

サンタモニカはアメリカ西海岸、カリフォルニア州ロスアンジェルスの西端、サンタモニカ・ベイに面し面積は21平方km(8平方マイル)。
ロスアンジェルスの名称の由来はキリスト教における天使(The Angel)のスペイン語、サンタモニカは紀元4世紀におけるキリスト教の聖人、聖モニカ(Santa Monica)にちなんで命名された。
サンタモニカから海岸沿いに南に向かって順にベニスビーチ、マンハッタンビーチ、レドンドビーチ、ロングビーチ、シールビーチ、ハンテントンビーチ、ニューポートビーチ、ラグナビーチと続く。個人的な好みでいえばビーチの雰囲気ではマンハッタンビーチ、リゾート施設ならラグナビーチ。しかしビーチ、施設、利便性、レストランの4点を総合するとサンタモニカの圧倒的勝利。加えて近年は商業施設の発展も目覚ましく、すべてが揃う素晴らしい土地柄だ。
いいことずくめの場所ながらサンタモニカのホテルに宿泊するかといえばそこは難しい。ロスアンジェルス滞在で時間にゆとりがあり優雅に過ごしたい人たちはビバリーヒルズを選ぶことが多いからだ。僅か6マイル、車で20分の距離なので、あえてサンタモニカに滞在するなら海が見える部屋ということになる。
となるとシャッターズ・オンザビーチ、カサ・デルマール、ミラマーが候補となるが、残念なことに海側の部屋数は限られている。独特の雰囲気をもつシャッターズがやはり一番。しかしこのホテルの海岸に面した部屋に泊ったことがあるが、料金の割に部屋は狭いしコンパクト過ぎるクローゼットは荷物の多い海外ツーリストには向いていないと思った。
どうしてもビーチに面した眺めのよいホテルということならラグナビーチなど南に脚を伸ばせばよいし、ラグジュアリーなホテルはビバリーヒルズなど陸側に行けばいくらでもあるので、魅力盛りだくさんのエリアのホテル選びは案外たいへんだということである。

サンタフェ

プエブロインディアン・アートの町

サンタフェはアメリカ南西部、ニューメキシコ州の州都。面積は97平方km(37平方マイル)、2130mの標高はアメリカ州都では最高。
サンタフェは僕のもっとも好きな町。春夏秋冬すべての季節に何度も訪れたが、とりわけ初秋は素晴らしい。キャニオンロードに赤い野生リンゴが実り、サンタフェ山のハコヤナギが鮮やかな黄金に色づく。真っ青な空、乾いた風とキラキラと輝く日差しはサンタフェ特有の魅力である。
人口たった6万人の田舎町に10以上の美術館、そして数百のアートギャラリーがあり、洗練された料理を出すレストランがたくさんあり、Inn of Anasaziという上質なホテルもある。その文化度の高さは神秘的ですらある。
サンタフェには1万2千年前から人類が居住していた。11世紀にはインディアン、プエブロ(Pueblo)族が集落を形成し、当地は古来より先住民からパワースポットとして崇められてきた神聖な土地なのだ。
15世紀に入植したスペイン人がプエブロ族を制圧し1607年にサンタフェの町が創設された。1824年、メキシコ独立にともないメキシコ領となり、1846年にアメリカ支配下となった。
1958年、徐々に寂れつつあったサンタフェに景観条例が施行された。建築スタイルを2種に限定して独特の町並みをつくろうという町興しの試みである。アドビ(Adobe)煉瓦によるプエブロリバイバル(Pueblo Revival)とスパニッシュコロニアル(Spanish Colonial)である
景観条例は日本にもあるがそれは建築のデザイン様式や色彩まで規定するものではない。例えば京都の祇園花見小路の古くからある町並みにコンクリートのビルがひとつ出来ただけでも町の風景は一変する。ともかくサンタフェの厳しい条例は成功を収めた。
デザイン規制がサンタフェ・スタイルという貴重な文化価値を創出したのである。

サンタバーバラ

地震復興で生まれ変わった町

サンタバーバラはアメリカ西海岸、カリフォルニア州中部にあり面積は107平方km(41平方マイル)、ロスアンジェルスから西に30マイル。町の真南に太平洋、北側に森林が広がる地形で一年を通じて快適な気候を持つ、人が住むには理想的な土地柄だ。
この自然環境は先住民にとっても望ましい土地だったに違いない。事実、1959年に当地で1万3000年前の人骨が発見された。アーリントン・スプリングスマン(Arlington Springs Man)と名付けられたアメリカ最古の人骨である。
この人骨の子孫といわれるインディアンのチュマシ族に当地ではじめて出会ったヨーロッパ人はスペイン船の航海士フアン・ロドリゲス・カブリリョ(Juan Rodriquez Cabrillo)で1542年と記録にある。きわめて個性的な発音で言葉を話す民族だったという。
1769年にスペイン人のガスパル・デ・ポルトラ(Gaspar de Portola)もアメリカ探索中にチュマシ族に遭遇、音楽や贈り物で丁重にもてなされたという。当時チュマシ族の人口は1万人を超えていたが、その後の開発に伴い当地から追われた。
スペイン人により建設されたサンタバーバラは1812年の大地震と津波で崩壊、メキシコ領を経て1848年にアメリカ領となった。
1925年、当地は再び大震災に見舞われ町の大部分が倒壊した。行政と市民グループはあらたな町づくりを提唱し、結果としてサンタバーバラは独特のスペイン植民地時代の雰囲気を持った美しい町並みに変わった。スパニッシュコロニアル・リバイバル(Spanish Colonial Revival)という昔なつかしい様式に絞る建築規制が町に統一感を生み出したのだ。
災い転じて福と成す。建築とデザインが町に活力をもたらしサンタバーバラは現代アメリカを代表する洗練されたリゾート都市に発展したのだ。

サンアントニオ

温暖で適度に雨が降り緑ゆたかな美しい町

サンアントニオはアメリカ南西部、テキサス州内陸部の中程にあり、面積は1067平方km(412平方マイル)、最大標高は198m。アメリカのベネティアと例えられるリバー・ウォーク(River Walk)とアラモ(Alamo)が観光的な目玉。
アラモはテキサスに入植したスペイン人によりキリスト教の布教を目的として1718年に建築された伝道所。正式名称はMission San Antonio de Valero。1960年にNational Historic Landmarkに指定された(写真2-3)。
アラモの名を有名にしたのは1836年に起きたアラモ砦の13日間戦争。スペイン統治下にあったテキサス独立派百数十名が反乱を起こし、鎮圧に当たったメキシコ軍数千名と戦い、結局、全員が戦死した。後にテキサス独立の引き金となったが兵士の勇気は後々まで語り伝えられ、アラモ砦はテキサス魂を称える象徴的な史跡となった。
アラモの兵士は多くの映画でも描かれている。1960年公開のジョン・ウェイン監督「アラモ(The Alamo)」がその代表。監督自身がデイビット・クロケット役を演じた。テキサス兵のウイリアム・トラビス大佐をローレンス・ハーベイが、ジェームズ・ボウイ隊長役はリチャード・ウィドマークという豪華な顔ぶれだった。
この超大作は大ヒットしアカデミーの最有力候補となったが惜しくも賞は取れなかった。戦争が美化され過ぎている、ストーリーが史実と違うのではないかという意見が投票権を持ったジャーナリストから出たという。政界意向や大衆に迎合しないアメリカジャーナリズムの尊敬すべき一面でもある。
いずれにしてもベトナム戦争前夜の社会風潮と相まってジョン・ウェインの右寄りの政治信条が強く反映された映画であった。彼はこの映画でかなりの財産を失ったと言われている。

サワロ国立公園

砂漠に林立する大迫力の柱サボテン

サワロ国立公園はアメリカ南西部、アリゾナ州にあり面積は370平方km(142平方マイル)、最大標高はMica Mountainで2641m。1994年に国立公園に指定された。
サワロ(Saguaro Cactus)はもっとも巨大に成長する柱サボテンの1種で直径60cm、最大高は20mにもなる。正式にはサボテン科カルネギエア属、Cereus Giganteus。砂漠で発芽して10年で3mに成長しやっと片手が出てくる。
育つにつれ姿かたちは千差万別、ユーモラスな形に育つサワロも多い。片手を上げてハロー!、両手で万歳!、赤塚不二夫のシェー!もあるのだ。テンガロンハットをかぶったサワロサボテンはアリゾナの看板でよく見かける古典的キャラクターだ。
小中学生時代にサボテンに夢中になり100種類くらいを育てていた。図鑑や専門書を読んでいろいろ勉強するうちにサボテン科だけで5000種以上、なかでも好きなサボテンの殆どがアリゾナ州原産であることが判明。僕のアメリカ大自然への憧れの原点はサボテンなのだ。
アリゾナで見事なサボテンは何度も、もしかしたら何十回も見たけれど、その度にとてもうれしい気分になる。サボテンは種を蒔いて育てることもできる。普通の植物と同じように芽が出てふた葉が開く。しばらくすると葉の間から丸い小さなサボテンが出てくる。サボテンは不思議な植物で密集して植えたほうが生育がよい。競争心を刺激して土中の成分の奪い合いをするからだ。
日本にはオランダ貿易により16世紀に渡来したという。民家の軒先などでもよく見かける短毛丸(Echinopsis属Eyriwsii)という球形サボテンは日本の環境によく馴染み、10cmほどの月下美人に似た、驚くほど美しく、そして芳香性のある真っ白な花を咲かせる。
サワロ国立公園はツーソンから東のRincon Mountains側と西のTucson Mountains側のふたつのエリアに分かれている。東西では雨量と気候が少し異なり、また山から下りてくる伏流水の関係もあって巨大なサワロは東エリア、群生を見るなら西エリアがよい。付け加えるに国立公園外ではツーソンとフェニックスを結ぶ87号線沿いでサワロが林立する雄大な景色を見ることが出来る。

サバンナ

樫の大樹とスパニッシュモスが茂る

サバンナはアメリカ南東部、ジョージア州東端、大西洋に面し面積は202平方km(78平方マイル)。町なかに蛇行した川が入り交じりヨーロッパ人に植民地化される以前は湿地帯だった。18世紀にイギリス、スペイン、ポルトガルの入植者により町の基盤がつくられ、3カ国の文化が交錯したサバンナ独特の文化が形成された。
綿工業の集積地、そして港湾都市としても栄えた。サバンナはサウスカロライナ州チャールストンと並ぶ奴隷市場の中心地でもあった。1810年代の黄熱病の流行、1860年代の南北戦争の影響を受けサバンナの経済は一時停滞する。しかし1872年に綿花取引所(写真2)が設立され経済は活況を取り戻した。
チッペア・スクエアの4km四方が歴史地区に指定されていて、アンドリューロウハウス(Andrew Low House)、ダベンポートハウス(Davenport House)メルドリムハウス、(Green Meldrim House)など19世紀の政財界人の豪奢な暮らし偲ばせるコロニアル様式の素晴らしい煉瓦建築物が目を惹く。
歴史地区のほぼ真ん中にあるジュリエットゴードン・ロウハウス(Juliette Gordon Low House)は1820年築造、Juliette Gordon Low(1860-1927)はサバンナの裕福な家に生まれイギリスからガールスカウトの制度を導入した。その家の前でトム・ハンクス主演の映画フォレスト・ガンプの冒頭のタイトルバック、羽が空を舞うシーンが撮影された。この映画はウインストン・グルームの小説の映画化。
サバンナの町を歩いていてまず目につくのが樫の大樹から垂れ下がるスパニッシュモス。カリブ諸島からハリケーンに飛ばされてアメリカに渡来したという。正式にはチランジア・ウスネオイデス(Tillandsia Usneoides)といい、空気中の水分を吸収して育つエアープランツの1種で可愛い花も咲く。
ふわふわと風に乗ってどこに行こうと自由自在。寄生は樹木だけにとどまらず電線などにぶら下がって旺盛に成長する姿を見ると、そのたくましさに驚く。

ザイオン国立公園

砂漠と森林が交錯する渓谷風景

ザイオン国立公園はアメリカ西部、ユタ州南西部に位置し、面積は593平方km(229平方マイル)、最大標高は2050m。1919年に国立公園に指定された。
ラスベガスから170マイル、景色を見ながらゆっくり走って3時間。日帰りもできるためグランドサークルのなかではグランドキャニオンと並ぶ観光客の多い国立公園。ロスアンジェルスからは車で7時間くらいかかる。
数千万年前、浅い海底であった当地域に3000m以上地層が隆起する地殻変動が起き、現在のコロラド平原が出来あがった。その後コロラド川の支流ノースフォーク・バージン川の水流は砂岩を削り、長さ15マイル、深さ800mに渡る現在のザイオン渓谷が出来あがった。
ザイオンには巨大な単石が多くあり、なかでもグレート・ホワイトストーンの高さ720mはオーストラリアのエアーズロックの倍。ヨセミテのエルキャピタンに次ぐ世界二位の大きさをもつ一枚岩である。
グランドサークルの国立公園群では異なった色相の砂岩が層になっている地形をよく見る。サーモン色がエントラーダ砂岩層(Entrada Sandstone)、黄色く見えるのがナバホ砂岩層(Navajo Sandstone)と呼ばれている。ザイオンの岩肌はエントラーダ砂岩層なので風景が全体的に赤っぽく見える。
アメリカの国立公園にはふたつのパターンがあり、それは砂漠とロックマウンテンの乾いた景色。もうひとつは緑ゆたかなみずみずしい山岳森林風景がある。ザイオンはそのミックス。乾いたモハベ砂漠と湿潤なコロラド平原の境目にあり、ふたつの要素が見事に共存するアメリカでは稀有な国立公園だ。赤く染まるロックマウンテンと緑の木々が交じりあった風景がザイオンの魅力なのである。
当地における人類の登場はおよそ8000年から1万年前。今から600年前までは神秘の人々アナサジ(Anasazi)族が平地に、山岳には古代狩猟民族フレモント(Fremont)族が住んだ。ヨーロッパ入植者によるザイオン渓谷の発見は1858年と記録されている。


コンガリー国立公園

原始から今に続く湿地帯

コンガリー国立公園はアメリカ南東部、サウスカロライナ州中部に位置し、面積は88平方km(34平方マイル)、1976年にコンガリー沼国立モニュメントに、2003年に国立公園に指定された。
サウスカロライナの州都コロンビアから20マイル。東海岸のチャールストン、あるいはマスターズ開催で有名なジョージア州オーガスタから、それぞれ150マイルの距離にある。
当地域にはかってカウタバ、チェロキー、チカソー、コンガリーなど20数部族のインディアンが居住していたが政府の強制移住政策により当地を追われた。
公園を緩やかに流れるコンガリー川の度々の氾濫は沼地化を更に促進し、豊富な栄養素を流域に供給しコンガリーの生物多様性を育んでいる。沼地のヌマスギは最大50m近くまで生育し、これはアメリカ東部では最大級なのだそうだ。沼底から樹木の根がタケノコのように地面に付き出す光景は何とも不思議。
公園内には遊歩道やキャンプ地もあるが、おおむね水たまりとも川とも判別できない湿地帯となっていて爬虫類、両生類はじめ生物多様性の宝庫。いかにもヘビの大群がたくさんいそうな環境だがボードウォークは地面から2mほどの高さがあるのでまずは安心。
しかしこの公園は明るい日差しの中ではともかく、うす暗くなるとかなり気味悪い。アメリカの国立公園ではカラダがスッと軽くなるような、ああ、ここがパワースポットだ、という心地よい地点に度々出会うが、この公園はそういう傾向の土地柄ではなさそうだ。世界中から湿地帯とジャングルが消えゆくなか、コンガリー国立公園は貴重な地球資源のひとつということなのである。

クレオール・ネイチャートレイル

ワニ横断注意の自然道

クレオール・ネイチャートレイルはアメリカ南東部、ルイジアナ州南西部にあり全長180マイル(288km)。このトレイルの起点となるレイクチャールズはアメリカ東西を結ぶインターステイツ10号線上にあり大自然とはいうものの交通アクセスはきわめてよい。
ルイジアナ州道14号、82号、27号、384号がネイチャートレイルの対象となっているが1本の道に繋がっている訳ではなく、車で走っていて時々道に迷いそうになる。周辺は小川や湿原、湖が入り混じるウェットランドで自然感満載。巨大なアメリカアリゲーターをはじめ野生動物の宝庫となっている。
クレオール・ネイチャートレイルは2002年にオールアメリカンロードに指定された。1989年にシニックバイウェイ法が成立し、考古学、文化、歴史、自然、レクレーション、景観の6項目を審議し120の道路が「ナショナルシニック・バイウェイ」に、30か所が最高峰の「オールアメリカンロード」に認定されている。
オールアメリカンロードのすべてを走行したわけではないが、好きな道はと聞かれれば、まずフロリダキーズ・オーバーシーズ・ハイウェイ(Florida Keys Overseas Highway)。マイアミから最南端キーウエストまで島伝いに海上を一直線に突っ走る、その爽快感は言葉にはできない。
次いで大河ミシシッピに沿って走る全長2069マイル(3329km)のグレート・リバーロード(Great River Road)。ミシシッピ川は氷河湖イカタスを源流とし10州を南下してニューオーリンズ湾に注ぐ。三番目はルート66(Route 66)。シカゴからサンタモニカを結ぶ全長2347マイル(3755km)の旧国道。古き良き時代を象徴する歴史街道だ。
こう考えてみるとアメリカの旅の魅力は「点」ではなく「線」、町と町をつなぐその線上に面白みがあると思う。もうひとつは「面」だろうか。例えば国立公園などにじっくり滞在し広大なエリアをぐるぐると巡るのもたいへん楽しい。

グレート・リバーロード


アメリカ縦断、大河ミシシッピの旅

グレート・リバーロードは蒸気船が往来した19世紀のミシシッピ河川交易を象徴する道路。全長2069マイル(3329km)でミシシッピ川に沿ってアメリカを南北に縦断する。
ミシシッピ川は開拓時代における農産物、綿花や砂糖など重要な河川交易のルートとなっていた。そのミシシッピに並走する道路がグレート・リバーロードでありアメリカを東西に繋いだルート66と共にアメリカの経済発展を彩った歴史街道となっている。
僕たち夫婦は同じ年の夏と冬の2回に分けてこの道を走行した。もちろん夏に北部、冬に南部。南北に移動する縦の旅は日ごとに気候が変化し植物相の移り変わりも大きくメリハリがある。
ミシシッピ川はミネソタ州北部にある氷河湖イタカスを源流とし、南下してウィスコンシン、アイオワ、イリノイ、ケンタッキー、テネシー、アーカンソー、ミズーリ、ミシシッピ、ルイジアナの10州を経てニューオーリンズ港があるメキシコ湾に注ぐ。
ミシシッピの語源は先住民オジブワ族の言葉で「大きな川」。アマゾン、ナイルと並ぶ世界三大河川のひとつで総延長は3731マイル(5971km)。直線に換算すると北海道から沖縄の倍の距離という途方もない長さなのである。流域には紀元前から多部族の先住民が住んだが、17世紀中ごろからフランス人による入植がはじまりフランス領となった。
1803年にアメリカはミシシッピ川以西のルイジアナをフランスから購入。2500万ドルという世紀の大買収によりミシシッピ川の東西流域はアメリカ支配下となった。蒸気船での航行は1811年から始まり、南北戦争が勃発した1860年代に最盛期を迎え、その後鉄道の登場に伴い急速に衰退する。
ウインスコンシン州ラクロス(La Crosse)は川に面した静かな町(写真4)。河口から北に1500マイル(2400km)も遡った内陸にありながら川幅は何と5000m。川岸からの眺めはまさに大海原。アメリカのスケールを見せつけられた思いである。

グレートスモーキーマウンテン国立公園

連なる山脈が青く霞む

グレートスモーキーマウンテン国立公園はアメリカ南東部、ノースカロライナ州、テネシー州に跨る国立公園で面積は2110平方km(814平方マイル)、最大標高はアパラチア山脈にあるクリングマンズ・ドームで2025m。1934年に国立公園に指定、1983年ユネスコ世界遺産登録された。北西50マイルにノックスビル、南東80マイルにアッシュビルの町がある。
国立公園となったグレートスモーキーマウンテンのエリアには数千年来に渡り先住民族インディアンチェロキー族が居住していた。18世紀後半からヨーロッパ人の入植に伴い森林の伐採が活発化し、更に1830年にアメリカ政府が制定したインディアン強制移住法により先住民族は当地から姿を消した。
この国立公園の、雨が多く湿潤な気候とクマとサンショウウオが棲む大自然はどこか日本の山林風景とイメージが重なる。山間部の降雨量は年間で2200mm。高知県の年間降雨量とほぼ同じ、ちなみに日本の平均は1700mm。モニュメントバレーなどアメリカ大自然の典型像である砂漠の大平原風景とは真逆、湿潤な気候と広葉樹の原生林は日本の山間部の環境と近い。
グレートスモーキーマウンテンのもうひとつの特徴は1本しかない州道が大渋滞するということ。入園者数はアメリカ国立公園最大で年間1千万人に達する。とくに秋の紅葉シーズンの混雑は想像を絶する。公園北側にピジョンフォージというファミリー層や若い人向けのアトラクションやテーマパーク等々が州道沿いに延々連続する騒々しい町があってこれが混雑の原因。
公園には東のチェロキーから入って北のガットリンバーグに抜けるというのが渋滞に巻き込まれない方法だと思う。青い山脈、若い人。陽のあたる坂道。何かにつけて日本的な国立公園なのである。


クレーターレイク国立公園

大地にドカーンと巨大な穴

クレーターレイク国立公園はアメリカ西部、オレゴン州南部にあり面積741平方km(286平方マイル)。1902年に国立公園に指定された。
好きな州でオレゴンを筆頭にあげる人は多い。ピノノワールとクラフトビール、料理、果物、美しい丘陵と森林など魅力は尽きない。クレーターレイクはそのオレゴン州で唯一の国立公園だ。国立公園は現在アメリカには59か所あり、クレーターレイクは1872年のイエローストーンから数えて5番目の指定となった。
日本から利便性のよい西海岸。とはいっても国際線が発着する大きな都市でいうとオレゴン州シアトルとカリフォルニア州サンフランシスコの中間地点なので、どちらから行ってもそれなりに遠い。サンフランシスコからだと北に450マイル、車で8時間の距離だ。
北にアンブクア(Umpqua National Forest)、南にウインマ(Winema National Forest)という森林地帯のはざま、標高2000m近い高地を走行中に突然まん丸の巨大な湖が現れる。圧巻なのは湖面の色。不自然なほど濃く青い。呆気に取られるとはこのこと。アメリカに数ある大自然のなかでも文句なしの絶景といえる。
ただし秋から春は降雪で道路閉鎖が多くクレーターレイクを訪れるのは夏に限定される。湖面の標高は1883m、水深は597m。アメリカでももっとも深い湖でもある。この湖は1853年にジョン、ヘンリー、アイザックという三人組の鉱山師により発見されたと記録にある。その後クレーターレイクと名付けられた。
クレーターとは天体の衝突によって作られる地形で、たしかに巨大な隕石がぶつかったように見えるが、この命名は間違っていて実際には火山活動により形成されたカルデラ湖なのだ。湖は地下水や河川とは繋がらない雨の溜水だけのため透明度は高く、またお椀状に深くえぐれた地形が独特の濃く青い湖面風景をつくっているのだという。

グレーシャー国立公園

アメリカでもっとも美しい森と湖をもつ山岳国立公園

グレーシャー国立公園はアメリカ西部、モンタナ州にあり面積4102平方km(1583平方マイル)。1910年に国立公園に指定された。アメリカ本土の北端に位置し、カナダ側のウォータートンレイク国立公園と接している。
グレーシャーは「氷河」の意味。氷河に削られた急峻な山岳と数百に及ぶ湖は1万年前につくられ、今もなお25の氷河が公園内に残されている。
アメリカ大自然を大きくふたつのパターンに分けると砂漠とロックマウンテンによる赤褐色の風景。もうひとつには森と湖に囲まれた緑と青の山岳森林風景がある。グレーシャー、グランドティトンは後者を代表する国立公園である。
グレーシャーとグランドティトンに敢えて順位をつけるとすれば、息をのむ絶景と感動的な大自然という点ではグレーシャー。パワースポット感の強さという点ではグランドティトンが上というのが僕の感想。
森と湖に恵まれたグレーシャーは野生動物の宝庫でもあり、マウンテンライオン、マウンテンゴート、ビッグホーン、ムース、エルク、ディアなどが生息する。しかし何と言ってもグレーシャーのハイライトは巨大な灰色熊グリズリーだろう。体重は最大で450kg、立ち上がった時の高さは3mもあるという。
幸運にもスウィフトカレント湖(写真4)に面した山の斜面を車で走行中に悠然とハックルベリーを食べるグリズリーの親子を見ることができた。ハックルベリーとはモンタナの山岳に自生する低木ベリーの1種でグリズリーの大好物。巨漢なので1日でいったい何粒くらい食べるのだろう。
果実はブルーベリーよりさらに濃い青色でジャムにするとたいへん美味。グレーシャーではハックルベリーの瓶詰めがどこにでも売られているが他では買えない希少食品。お土産にと思いひとつだけにしたが、もっと買っておけばよかったと後悔しきりなのである。

グランドティトン国立公園

アメリカ山岳最高のパワースポットの地

グランドティトン国立公園はアメリカ西部、ワイオミング州にあり面積は1255平方km(484平方マイル)。1929年に国立公園に指定された。公園北端はイエローストーンと道路で繋がっている。
標高4197mのグランドティトンを中心に3600m超の12の山によるティトン連峰は壮大。公園は南北に細長く山脈と並行してスネークリバーが流れ、多くの湖が点在する。
いかにも神々しく壮大で美しいティトン山脈。気持ちのよい空気感、佇むだけで体が軽くなるような清涼感が足元から伝わってくる。マウントシャスタ、マウントレーニア、グレーシャーと並ぶ素晴らしい山岳系のパワースポットである。
アメリカ大自然の典型例としてグランドキャニオンに象徴される砂漠のロックマウンテン風景、そしてもう一方ではゆたかな森と湖に囲まれた清々しい山岳森林風景がある。グランドティトンは後者を代表する国立公園といえる。
宿泊施設は園内にいくつかあるがジャクソンレイク・ロッジ(Jackson Lake Lodge)はティトン山脈を一望でき、またダイニングのメニュー、設備も国立公園内ロッジとしては超一級。
しかし公園外のジャクソンに滞在するのも楽しいと思う。タウンスクエアには大量のエルクの角を積み上げてつくったゲートがあり、工芸品のショップやギャラリーが軒を連ねる。カウボーイの州、ワイオミングの伝統が今に生きる歴史の町だ。
ティトン連峰の大迫力は映画や広告撮影のロケーションとなることもしばしば。ティトン山脈を背景に、少年が叫ぶ「シェーン、カムバック!」は映画史に残る名シーンとなった。「シェーン(Shane)」は1953年公開、ジョージ・スティーブンス監督、アラン・ラッド主演のパラマウント映画。

グランドキャニオン国立公園

大峡谷に地球創生の過程を垣間見る

グランドキャニオン国立公園はアメリカ南西部、アリゾナ州北西部に位置し、公園面積4931平方km(1903平方マイル)はアメリカ本土では4番目の広さ。1919年に国立公園に指定、1979年にはユネスコ世界遺産に登録された。フラッグスタッフから100マイル、ラスベガス、フェニックスから250マイル、公園には空港もあり利便性がよい。
グランドキャニオンはまさに地球の地割れ。アメリカ国内線を移動中の航空機からでもくっきり見える峡谷は全長280マイルに渡る。この長さは東京から京都までの距離に匹敵する。深さは1600m。
もともと海底だった当地域が標高8000mまで隆起し、その台地が氷河期の水量ゆたかなコロラド川に掘削され数百万年を経てこのような景観が出来あがった。岩壁を上から眺めるとあきらかに質の異なる地層の重なりが明瞭に見える。
先カンブリア時代の海底地層から始まり過去20億年間の地層を岩壁の下から順に見ることができる。地層1センチは約1万年分に相当する。それぞれの時代の化石も見られ、恐竜がいた中生代は現代に近く、上から50m程度の浅い場所だという。まさに地層の歴史博物館なのである。
公園へのアプローチはサウスリムとノ―スリムの2か所。北側は標高が高く、夏は冷涼、広葉樹の森もあって南側とは異なる風景。11月から4月末は雪のためクローズされる。
公園内ウエストリムにはHopi Point、Powell Point、Pima Pointなど壮大な景色を眼下に眺める場所がいくつかあり、とくに2007年に出来たスカイウォークのインパクトは強烈。その名の通り、空を歩く道。絶壁から空中に張り出した透明ガラスの道を歩くという仕掛けらしいが、高所恐怖症の僕にとっては気絶ものである。

グアダルーペマウンテン国立公園

テキサスの大秘境、砂漠の真ん中の山岳国立公園

グアダルーペマウンテン国立公園はアメリカ南東部、テキサス州西部に位置し、面積は350平方km(135平方マイル)、最高標高は2667m。1966年に国立公園に指定された。当地にはかつてカランカワ、キカプー、コマンチ、トンカワ、リパン・アパッチなど多数のインディアン部族が住んでいた。
公園はテキサス州の3大都市であるヒューストンから580マイル、サンアントニオから410マイル。ダラスからだと440マイル。どこから行っても車で片道7時間くらいかかる。もちろん公園内や周辺に宿泊設備はない。文句なしのアメリカ大奥地である。
年間入園者数が17万人前後。東京23区の半分以上の広さに1日当たり500人しか来ないのだから広い公園内でも人に会うことなど殆ど無い。その分、野生動物との出会いは期待できるのだ。
実際、森とキャニオンの切れ目あたりを走行中に突然ネコ科の大型動物が車の前を横切った。色は周辺のキャニオンとまったく同じ黄土色、尻尾がとても大きく長くて特徴的。初めて見る本物のマウンテンライオンだ。これには大感激、ひと気の少ない過疎の国立公園だからこその幸運だった。
当地に生息するマウンテンライオンはネコ亜科最大の大型肉食獣。アメリカではピューマ、クーガーとも呼ばれ、オスの尾を除いた最大体長は1.8m、体重は100kgになるという。
グアダルーペマウンテンは概ね荒涼とした山岳とロックキャニオンがメインで見どころとしてはMc Kittrick Canyon、Manzanita Springs、Smith Springsなど。ほかに歴史資産としてバターフィールド・オーバーランドメール駅馬車の廃墟がある(写真4)。この地域は19世紀の西部開拓時代にはセントルイスからサンフランシスコを繋いだ郵便駅馬車の通過点だった。

キャッツキル

森と渓谷のニューヨークリゾート

キャッツキルはアメリカ北東部、ニューヨーク州南部にありステートパークの面積は2800平方km(1081平方マイル)、最高標高はスライド山の1274m。
マンハッタンから北に90マイル、東京に例えるなら都心から高尾山の距離感。大都会から2時間ほどの距離だが緑は深く、標高が高いせいもあり真夏でも夜になると肌寒かった。
ニューヨーク州はエリー族、デラウェア族など多くの狩猟系インディアンが住む土地だった。16世紀以降、農耕系のイロコイ族やタスカローラ族がノースカロライナ州から流れ込み、これにニューヨーク州の領土化を狙うヨーロッパ勢が加わり土地の所有権をめぐる争いが頻発した。
インディアンは言語も文化もそれぞれに異なり民族ごとの独立心がひじょうに高く、複数の部族が結束して白人に立ち向かうという発想はなかったようだ。入植者による侵略が繰り広げられるさなかに先住民族それぞれが個々に戦うという状況だった。
キャッツキル山地の先住民はモヒカン族である。髪の真ん中を残して両サイドを剃り上げるヘアスタイルで知られるが17世紀に衰退したといわれている。オランダのニューヨーク侵攻のころと重なるがモホーク族との戦いで敗れたというのがモヒカン族凋落の真相である。
ロバート・B・パーカー(Robert Brown Parker)の探偵小説「キャッツキルの鷲(A Catskill Eagle)」は当地が舞台だった。タフでロマンチックなスペンサー、料理がヘタな女医スーザン、ジャガーに乗る格闘家ホーク、拳銃使いヴィニー・モリス、クワーク警部補、フランク・ベルソン巡査部長、ギャングのトニー・マーカス、リタ・フィオーレ弁護士などなど、クセの強い人物満載のスペンサーシリーズは全部で多分40冊くらいだろうか。長年の愛読書としてアメリカを旅行する時には1冊を選んでじっくり読み直すことを楽しみにしている。

キーウエスト

楽園系パワースポット

キーウエストはアメリカ南東部、フロリダ州フロリダ半島から南西に伸びるフロリダキーズ諸島の西端に位置し、アメリカ本土最南端の小島。面積は19平方km(7平方マイル)。マイアミから160マイル。オーバーシーズハイウェイの名称にふさわしく島々を繋ぐ国道1号のドライブは爽快そのもの。
1521年先住民カルーサ族が住んでいた当地をスペイン人探検家ファン・ポンセ・デ・レオン(Juan Ponce de Leon)が発見、スペインが領有権を主張した。300年後の1821年に実業家ジョン・W・サイモントン(John W. Simonton)が島を丸ごと2千ドルで購入、しかし翌1822年、航海中のマシュー・ペリー(Matthew Perry)が当地にアメリカ国旗を掲げ最終的にはアメリカ領となった。
あまり知られていないが31年後の1853年(嘉永6年)、黒船艦隊を編成し浦賀に現れたアメリカ海軍ペリー提督と同一人物である。
キーウエストといえばまずトレジャーハンティングが有名。大航海時代、ハリケーンで難破する船が後を絶たずキーウエストには多くの金銀財宝が今も沈んだままになっている。そしては大物狙いのスポーツフィッシング。そして文豪アーネスト・へミングウェイ。キーウエストはアメリカ人の冒険魂を次々と刺激する。
数々の女性遍歴、酒豪で知られるヘミングウェイはアメリカ男性憧れの的であり、デュバルストリートのバー、スラッピージョー(Sloppy Joe’s Bar)には大勢のひげ自慢のヘミングウェイもどきが毎夜集い、酒を飲み、パパ・ヘミングウェイを語る。
まったりした空気感が漂うキーウエストは癒しのパラダイス。マロニースクエアでは夕方になると海に沈む夕陽を見る人でごった返す。太陽が半分になったところでスクエアにはロマンチックな空気が充満し、太陽が海に消え入る直前に皆いっせいに奇声をあげる。そして誰彼なしに声を掛け合う。何とも能天気でハッピーな土地柄なのだ。

ガルベストン

栄光の海賊、ジャン・ラフィットを偲ぶ

ガルベストンはアメリカ南東部、テキサス州の南東部メキシコ湾岸にあり面積は540平方km(208平方マイル)。19世紀にはテキサスを代表する貿易港として栄えたが、1900年の巨大ハリケーンで町は壊滅、経済の中心はヒューストンに移った。
落ちぶれたとはいえ町のメイン通りには、今も往時の繁栄を物語る豪壮な住宅がいくつも残されている。ビクトリア様式のBishop’s Palaceは建築家ニコラス・J・クレイトンの代表作。権威あるアメリカ建築家協会(AIA)の「アメリカでもっと重要な建築100選」に指定されている(写真1)。
ガルベストンにはもうひとつ見たい史跡があった。大海原を舞台に活躍した海賊、パイレーツ・ジャン・ラフィットの旧邸宅だ。波乱万丈に富んだその生涯は謎に満ちている。ラフィットは1782年、フランス・ボルドーに生まれ新大陸に移民。米英戦争ではアメリカに協力、1千人以上の子分と共にイギリス軍と戦った。
1812年に当地にラフィット王国をつくり、海を臨む邸宅の2階には大砲を備えメゾン・ルージュと名付けた。その後テキサス独立戦争への協力を拒否、アメリカ商船への海賊攻撃を繰り返したため政府と対立。
1821年にメゾン・ルージュを焼き払い当地を撤退した。1822年、キューバの Puerto Principeから脱獄し、翌年からカリブ海パイレーツとして暴れまわったといわれているが諸説あり不明。
メゾン・ルージュ史跡を見たくて、だいたいの目星を付けてあたりを歩き廻った。近所の人に聞いたがラフィットのことは知っていても跡地まではわからないようだ。
やっと見つけたその場所は草木に埋もれた廃墟となり、僅かに残された建物の基礎部分にはゾッとするような冷たい空気に包まれていた(写真4-6)。アメリカ政府に背いたとはいえ19世紀当時の英雄には違いない。手厚く保存されることを祈りたい。

カスター州立公園

美しい森と湖、バイソンが群れる大自然

カスター州立公園はアメリカ西部、サウスダコタ州西部に位置し面積は110平方km(43平方マイル)、最大標高は1439m、1912年にサウスダコタ州立公園に指定された。公園はブラックヒルズ国立森林公園のなかにあり、19世紀後半にアメリカ軍とインディアンが激戦を繰りひろげた地としても知られている。
カスターの名称は当時のアメリカ陸軍第7騎兵隊で知られるカスター将軍(George Armstrong Custer)に因む。彼は南北戦争で活躍し、その後インディアン・シャイアン族の討伐で功績を挙げた。1876年に始まったブラックヒルズ戦争でサウスダコタのインディアンを攻撃し、クレイジーホース率いるスー族に敗れ戦死した。
壮絶をきわめたリトルビッグホーンの戦いである。20世紀になりカスター将軍は英雄として映画では数十の西部劇に登場したが、1970年代以降は風向きが変わりこの手の映画は放映されなくなった。白人が善人、先住民が悪役という構図はあまりにも歴史を歪め過ぎているからだ。
公園には大自然の風景と多くの野生動物が観察できる長さ29kmのWildlife Loopがある。とりわけバイソンの群れは迫力満点、車や人間には目もくれず悠々と道路を横断する。公園内に1400頭が棲むという(写真4-5)。
僕たち夫婦はシルバン湖の畔にあるSylvan Lake Lodgeに4泊した。このロッジにはフランクロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)設計の本館と湖畔の林間に点在するキャビンがある。本館レストランの内装は素晴らしいし高台の窓からの眺望も最高(写真6)。しかし僕たち夫婦はキャビンを選択。すきま風が吹く老朽化した山小屋だが、森の風景に溶け込み中々よい雰囲気だ。
ロッジには戸外に木製のテーブルと焚火のアウトサイドファイヤーピットと呼ばれる設備があって、何だか森のなかで暮らしているような気分になれた。薪をくべ、キラキラと輝く無数の星を眺めながらワインを飲む、この時間が格別なのだ。

カーメル

断崖絶壁の海底峡谷

カーメルはアメリカ西海岸、カリフォルニア中部の海岸沿いの町。市の正式名称はカーメル・バイ・ザ・シー(City of Carmel-by-the-Sea)。面積は3平方km(1平方マイル)、標高68m。
17世紀まではインディアンのオローニ族が住み、スペイン統治時代を経て1848年にメキシコ領からアメリカ領となった。
サンフランシスコからカリフォルニア州道1号線を南に120マイル、モントレー半島の西端にSeventeen Mile Driveという、その名の通り17マイル(25km)の曲がりくねった有料道路がある。途上に世界的に有名なペブルビーチゴルフ場(Pebble Beach Golf Links)やリゾートホテルもある優雅なドライブコースでその南側がカーメルだ。
自然景観が美しく手入れが行き届いた町並み。20世紀以降に写真家のアンセル・アダムス、作家のジョン・スタインベックはじめ多くの芸術家や文化人が当地に移り住んだ。クリントイーストウッドが市長を務めたことでも話題になった。
海岸風景はおだやかで素晴らしい。しかし一歩海の中は恐怖の絶景だ。海岸からいきなり急傾斜で3600mの深海に達し、実際には見えないのだが海底を見下ろす景色はグランドキャニオンの倍の落差がある断崖絶壁だという。モントレー・キャニオンと呼ばれる世界有数の海底峡谷である。
ラッセン・ボルカニックの頁の繰り返しになるが、カリフォルニアにはサンアンドレアス断層という南北800マイルに渡る危険な地震帯がある。海底峡谷は過去の大地震による地割れかもしれない。活力ある土地、パワー漲るパワースポットと火山や活断層は関係深いようだ。
カーメルの宿泊施設のレベルは抜群に高い。実際に宿泊した経験ではビラスタイルのカーメルバレーランチ(写真3)、ハイランズインのふたつがとくに素晴らしかった。

オルガンパイプ・カクタス国立モニュメント


アメリカ、メキシコに跨るソノラ砂漠固有のサボテン

オルガンパイプ・カクタス国立モニュメントはアメリカ南西部、アリゾナ州南部に位置し、面積は1330平方km(514平方マイル)、最大標高は509m。1937年にナショナルモニュメントに指定された。
オルガンパイプ・カクタスは柱サボテンの一種。単幹から枝が林立する形状が楽器のパイプオルガンに似ていることから名付けられた俗称で正式にはStenocereus Thurberiという。成長は遅く、最大高の8m、幅4mになるまでに150年かかる。4月から6月にかけて白い花が夜に咲き、コウモリにより受粉され、テニスボールほどの大きさのスイカに似た風味の果実はスイカよりはるかに美味だというが僕はまだ食べたことがない。
ゲートシティはアホ(Ajo)。発音は日本語の阿呆と同じ。当地はアホ連山(Ajo Range)、アホ山(Ajo Mountain)、そして公園内を周回するアホ道(Ajo mountain Drive)などアホのオンパレードであるが、その意味は「絵を描く」こと。当地に住むインディアン、パパゴ族の言葉である。ちなみにアホ・バカ・スープ(Sopa de Ajo y Vaca)という頓珍漢な名前のメキシコ料理があるがスペイン語でAjoはニンニク、Vacaは牛肉。
アホはアリゾナ州ピーマ郡に属する面積73平方km(28方マイル)、インディアン3000人を含む人口4万人の田舎町である。19世紀に銅鉱脈が発見され20世紀前半にはアホ鉱山は大繁栄したが1983年に閉山した。
当地はメキシコ国境に接し、南に僅か3マイルの距離にメキシコ、ソノラ州ソノイタ(Sonoita)の町がある。僕はカリフォルニアやアリゾナ州滞在中にレンタカーで何度も国境を越えメキシコ側に入ったがパスポートの提示を求められた記憶もなくとても簡単だった。
ただし実はこれには大きなリスクがある。メキシコはジュネーブ条約に加盟していないのでアメリカのハーツやエイビスなどレンタカーの保険は効かないそうで、もし事故や車両盗難などに遭ったら大変なのだ。

オリンピック国立公園


アメリカ最高湿度と最高雨量、鬱蒼と茂る温帯雨林

オリンピック国立公園はアメリカ西海岸、ワシントン州にあり面積は3734平方km(1441平方マイル)、最大標高はオリンポス山で2427m。1938年に国立公園に指定、公園内のホー・レインフォレストは1981年にユネスコ世界遺産に指定された(写真1-2)。
シアトルからは直線ではたった30マイルの距離だが海峡を挟んだ反対側のオリンピック半島北端にあるので車でいったん南に迂回しタコマ、そしてオリンピアを経由する必要がある。
オリンピック国立公園はまったく異なった景観を持つ三つのエリアをひとつに統合して成り立っている。太平洋岸の海岸線、オリンピック山脈地帯、温帯雨林である。
太平洋岸の海岸線は森と砂浜が一体化され寒流が打ち寄せる壮大な眺め。海岸には巨大な動物が白骨化したかのようなゴツゴツした流木が散乱し不思議な風景をつくっている。
氷河に覆われたオリンピック山脈地帯は清涼感があり壮大。夏季には高山植物が咲き乱れ一面のお花畑となる(写真3)。西側のオリンポス山は太平洋の湿った空気の影響を受け降雪が多く氷河が見える(写真4)。反対に東側のデセプション山は乾燥した岩肌がむき出しの山岳であり際立った対比を成す。
そしてオリンピック国立公園の最大の見どころともいうべき温帯雨林。ここはまさに異界。山脈地帯の爽快感とは一転、どんより重く湿った空気が垂れこめる。昼でも薄暗い。地面はシダ類で覆われ、樹木からは苔が垂れ下がり異様な雰囲気。負のパワースポットとでも表現しようか、魔物がひっそりこちらを窺っているかのようにも感じる。とても長くは居られない。
このエリアの雨量、年間3700mmはアメリカ本土最高、湿度でもアメリカ最高を記録している。

オクラホマシティ


ゆたかな町並みの背景に先住民の末路が見える

オクラホマシティはアメリカ南西部、オクラホマ州の州都。面積は1608平方km(621平方マイル)、最大標高は396m。
1830年、アメリカ政府はインディアン移住法を制定。風が強く時には竜巻が襲いかかる痩せた不毛の土地、オクラホマをアメリカ各地のインディアンの強制移住先とした。
オクラホマは赤い(Okla)人々(Homma)、つまりのインディアンを意味する。先祖代々数千年に渡り住みなれた土地を追われた数万人のインディアンが東部から南部オクラホマに向かったその道は「涙のトレイル(Trail of Tears)」と呼ばれ今も歴史に残っている。途上、多くの死者を出したという。
その50数年後の1889年、オクラホマは突然ヨーロッパ入植者に提供されることとなった。同年4月22日、1万人以上がどっとこの地に押し掛け、我先にと土地の所有権を主張した。あっという間に白人の町と化した当地はスーナーステイト(Sooner State、早い者勝ちの州)と呼ばれた。
1928年、オクラホマで油田が発見されオイルブームが沸騰する。人々はオイルマネーを原資に川を堰き止めダムと人造湖を造り、広い土地に豪壮な住宅を建設。オクラホマは経済に恵まれた美しい町に変貌した。オクラホマ州のインディアンの人口比は減り続け、現在55部族30万人が住む。
当地出身のウィル・ロジャース(1979-1935)はインディアン、チェロキー族の末裔。映画俳優であり社会評論家としても尊敬されている。彼の名前を冠した学校はオクラホマだけで13校、ロジャース・パーク(写真2-3)、カリフォルニアのウィル・ロジャース歴史公園、テキサスのウィル・ロジャース記念センターをはじめアメリカには彼の名に因んだ施設が多くある。
オクラホマシティにあるウィル・ロジャース国際空港のターミナル正面には馬に跨ったウィル・ロジャースの彫像が飾られている(写真1)。

オークブルック

ミシガン湖畔、知性に囲まれた町

オークブルックはアメリカ中西部、イリノイ州ミシガン湖畔にある町で面積は21平方km(8平方マイル)。シカゴのダウンタウンから西に30マイルにあるこの町はポール・バトラー(Paul Butler)という20世紀初めの有名なポロ選手が開発した。
アイルランド移民の子孫であるバトラーは選手としてだけではなく、実業家として資産を築いた。バトラー・ジュニアハイスクール、バトラー・ナショナルカントリークラブなど当地にはバトラーの名前が多くみられる。
そのカントリークラブに隣接したハイアット・マクドナルド・キャンパス(The Hyatt Lodge at McDonald’s Campus)という不思議な名前のホテルに宿泊した。マクドナルドが運営するハンバーガー大学(Hamburger University)という広大なキャンパスの中にあるホテルだ。この大学は1961年創設の企業大学でマクドナルドに働く管理職が学ぶという。
ホテルは低層で天井高のあるロッジは森と湖に面し、素朴な佇まい(写真3-4)。ミッドセンチュリーのインテリア、家具にも独特のムードがある。驚いたことにこのホテルの設計は巨匠フランクロイド・ライトだった。草原様式と日本語に訳されるライトの代表的な建築手法、プレイリースタイルは地平線を強調した伸びやかな建物で平原が多いアメリカ中西部の空気感に実にピッタと合っている。
ホテルから20分ほどの距離にあるモートン樹木園(Morton Arboretum)に出かけた。草原環境の修復プロジェクトとして計画された6.9平方km(2.7平方マイル)に渡る庭園(写真1-2)。園内にあるハリー・ウィース設計の図書館にはランドスケープや植物学の蔵書が多くあり、ビジターセンターは園内の樹木や石材を再利用し建築の持続可能を追求したという。さすがにオークブルック、樹木園にもインテリジェンスが漂う。

エルパソ

国境の町

エルパソはアメリカ南西部、テキサス州最西端に位置し面積は664平方km(255平方マイル)、最大標高は1140m。ロッキー最南端であるフランクリン山脈が町を東西に二分し一帯は州立公園となっている。
アステカを征服したスペインは1659年、当地にエルパソ・デルノルテの町を創設。1821年、メキシコの独立革命によりメキシコ支配下に置かれる。しかし1848年、アメリカに敗戦したメキシコは当地を二分し北側をアメリカに割譲しエルパソとなった。
エルパソのすぐ南側にある町、メキシコ領シウダード・ファレスは治安最悪の町として名高いが最近その地位をホンジュラスのサンペドロ・スーラに譲り世界ワースト2位に落ちたという。とはいうものの僕はアメリカでは国境を越えていくつかのメキシコの町に出掛けたが、どの町も思いのほか穏やかだった。もちろん用心は必要だけれど旅の基本はチャレンジなのである。
エルパソ人口の80%がメキシコ系アメリカン人ということもあり、町の印象は80%メキシコ。タコス、エンチラーダはうまいしテキーラ、コロナビールは最高だ。コロナはカットしたライムを瓶の中に無理やり突っ込んで瓶ごと飲む。この飲み方スタイルの広告宣伝は大ヒットとなったが、それが災いして同社は瓶のリサイクルにアタマを悩ませているという。
更に気の毒なことに、コロナ禍の風評被害をモロに受け2020年から売り上げが激減している。たしかに「コロナビール(CORONA Beer)」と「コロナウィルス(CORONA Virus)」の発音はよく似ている。
エルパソの町なかをアメリカ大陸横断鉄道が走る(写真1)。現在は貨物輸送がメインだがエルパソ駅にも停まるアムトラック・サンセットリミテッド号はニューオーリンズとロスアンジェルス間を片道48時間で結ぶ。
開通間もない1872年(明治5年)には不平等条約改正交渉に渡米した木戸孝允、大久保利通、伊藤博文はじめ総勢100名の岩倉使節団が乗車した。この年、汽笛一声、新橋から横浜に日本最初の鉄道が開通した。

エバーグレーズ国立公園

大湿原に幅150km水深30cmの川が流れる

エバーグレーズ国立公園はアメリカ南東部、フロリダ半島の南端に位置し面積は13158平方km(5078平方マイル)。これは東京都の3倍にあたりデスバレー、イエローストーンに次ぐアメリカ本土で3番目に広い国立公園。1947年に国立公園に指定、1979年ユネスコ世界遺産に登録された。
エバーグレーズは生態系の多様性に富み400種の鳥類、100種の魚類が生息し、多くの珍しい植物が自生する。ワシントン条約で輸出入が規制されている希少樹木であるマホガニーの大木(写真3)も見られる。
マイアミからインターステイツ1号線を南に30マイル進むと公園のゲートシティとなるホームステッド(Homestead)の町がある。道中、車を降り幅2、3mほどの小川をそっと覗き込むとワニが浮かんでいるので吃驚仰天。何でこんなに車通りの多いしかも狭苦しいところに暮らしているかと思ったが、よく考えてみるとワニは道路が出来るずっと昔からこの川に棲む先住者なのだ。
これは序の口、国立公園エリアに入ると巨大なワニが湿地や草むらでごろごろ昼寝をしている。ワニ好きの僕としては何時間でも見ていたい幸せな光景なのだ。アメリカ7番目の大都市マイアミからたった1時間。これほど自然に恵まれた環境が地球上に残っていることに感動。
この地域のワニはおもに2種類。アリゲーター(Alligator)は最大で5mほどで口が扁平なのが特徴。恐ろしい顔に似合わず性格は温和で攻撃性はない。クロコダイル(Crocodile)は最大で6m以上になり口が尖って細長い。こちらは比較的危険といわれている。
しかしどちらのワニも僕がロソロと近づいても全然動じず無関心。何故ならワニはフロリダでは食物連鎖の頂点にいて怖がるものは何もないからだそうだ。

ウォルナットグローブ

「大草原の小さな家」ローラの足跡を辿る、ペピンの続編

ウォルナットグローブはアメリカ中北部、ミネソタ州南西部にあり面積は2.8平方km(0.6平方マイル)、人口900人に満たない小さな町。
1867年に生まれたローラ・インガルスは7歳までウィスコンシン州ペピンの大きな森の小さな家(Little house in the Big Woods)で暮らし1874年に当地に移住してきた。この時代の生活は「プラム・クリークの土手で(On the Banks of Plum Creek)」に描かれている。
収穫前の小麦がイナゴの被害に遭い、全滅。借金も増え、父親は金の工面のため東部に出稼ぎに行く、という苦難の日々が続いた。僕たち夫婦はゴードン農場とLaura Ingalls Wilder Museumでローラの住居跡を見学(写真3-6)、大きな衝撃を受けた。
それは家というより、むしろ土手に掘られた穴倉だった。しかし横穴小屋(Dugout Depression)は開拓時代の当地では普通に見られた住居だったようだ。土の家は冬は暖かく夏は涼しいが、時には牛が屋根を踏み潰して崩落することもあったという。ヘビやクモにも悩まされたという。
ローラの父チャールズはイングランド系、母キャロラインはスコットランド系の移民だった。WASP(White Anglo-axon Protestant)といわれる彼ら夫婦は、デンマークやスウェーデン移民が多かった中北部アメリカのなかで正統的アメリカ人としての誇りを持っていたと後にローラは書き遺している。
同時代のイギリスはビクトリア王朝華々しい繁栄の時代。ひきかえ新大陸の開拓民の生活は貧窮をきわめた。しかし土の家で遊ぶ絵本のなかのローラは元気はつらつ、とても幸せそうに見える(写真6)。
数々の困難にもめげない彼らには西部開拓という大きな夢があったからだ。ゆたかさとは、幸せとは。土の家を見学しながら多くのことを考えさせられた。

ウイリアムズバーグ

アメリカ草創期の町並みが残る、生きた歴史博物館

ウイリアムズバーグはアメリカ南東部、バージニア州。バージニア半島に位置する独立市。面積は23平方km(9平方マイル)。
1607年4月26日、ヨーロッパから104名のイギリス人がアメリカ大陸にはじめて入植した地がジェームスタウン、そして隣接する町としてウイリアムズバーグをつくった。先住民インディアンであるワンパノアグ(Wampanoag)族が入植者を歓待し好意的に世話をしたものの9か月後の生存者は38名だったという。インディアンから教えられたトウモロコシの栽培は多くの入植者を救った。
11月の第4木曜日が祝日となるサンクスギビングデイは入植者がインディアンを招待して感謝の宴を催したのが始まりとされる。アメリカ開拓が進むにつれインディアンは入植者から迫害を受けることになるが少なくとも17世紀の最初の頃では両者は友好的な関係を結んでいたのだった。
ウイリアムズバーグは17世紀から18世紀、北部マサチューセッツと並びアメリカの文化、政治の中心地として発展し、南北戦争では南軍の本拠地となった。1699年から1780年まで英国領バージニアの首都であったが、南北戦争中に首都はリッチモンドに移りウイリアムズバーグは19世紀以降、次第に存在感を失ってゆく。
これらアメリカの歴史を今に残すエリアがコロニアル・ウイリアムズバーグ(Colonial Williamsburg)である。1920年から1930年代にかけてロックフェラー家の支援で町並みや多くの建築物は18世紀当時の姿に復元された。それだけではなく、この地域の人々は18世紀の服装で町を行き交い、当時の言葉遣いで会話をする。
僕たち夫婦は町なかの1軒のレストランで食事をした。当然のように電気は来ていないので夕方になるとあたり一帯は真っ暗、人影もまばら。道路もよく見えないほどで、店の階段を上るのも覚束ない。オイルランプと蝋燭だけの夜の暮らしは、さぞかし不便だったのだろう。
しかし暗闇のなか、鉄鍋ごと供された肉料理とコーンブレッドは素朴な中にも味わい深く、その温かさとおいしさに心から感動した。忘れ難い18世紀料理となった。

ウィラメットバレー

オレゴン・ワインカントリー

ウィラメットバレーはアメリカ西海岸、オレゴン州北西部にあり面積は13500平方km(5200平方マイル)、南北250km、東西100kmに渡る丘陵と渓谷に囲まれた広大なエリア。
ポートランドからスタートして一路南にユージンまでウィラメットバレーを4日間で巡った。途中、小さな田舎町のニューバーグで一泊だけしたホテルAllison Innは想像以上のレベルで驚いた(写真3)。葡萄畑の中に建つホテルの外観は格好よくレストラン、バーの内装もナチュラルな雰囲気ながら洗練されている。料理も素晴らしかった。
グルメ州で知られるオレゴンでもとりわけ当地は高品質な食材の宝庫で年中グルメフェスティバルが開催されているという。Oregon Truffle Festivalはウィラメットバレーに自生する黒トリュフの食の祭典だ。ホップ栽培も盛んで、醸造所が連なるユージーン・エールトレイル(Eugene Ale Trail)と名付けられた地ビール街道もある。
更にウィラメットリバー流域に広がる葡萄畑はオレゴンを代表するワインの一大生産地となっている。当地は同じ西海岸でもカリフォルニア州の気候とはだいぶ違う。年間を通して比較的湿度が高く加えてカリフォルニアより冷涼な気候がピノノワール(Pinot Noir)の生産に適している。
フランス・ピノノワールの聖地、ブルゴーニュのコートドール(黄金の丘)とほぼ同じ北緯45度で気候風土がよく似ている。多少趣が違うがウィラメットバレーのピノノワールは今や世界トップクラスの実力だ。しかしナパバレーのOpus OneやBeringerのように地域を引っ張る有名ワイナリーが見当たらず、その点は大損をしている。
想像だが200以上もあるワイナリーが多分どんぐりの背比べ的なレベルなのだろう。誰もが知るという飛びぬけた銘柄がない。瓶に貼られたラベルデザインもいまひとつ垢抜けせず記憶に残らない。しかしそこのところがかえって好感が持てるようにも思う。

イエローストーン国立公園

アメリカを代表する国立公園。圧倒的迫力の大自然

イエローストーン国立公園はアメリカ西部、ワイオミング州を中心としてモンタナ、アイダホ3州に跨る8980平方km(3470平方マイル)の広大な国立公園。1872年、世界で最初の国立公園に指定、1978年にはユネスコ世界遺産に登録された。
大地のオーラ、そして野生動物との出会い。まさに生きいきと活動する大自然の姿がそこにはある。バイソンの群れ(写真1)、灰色熊グリズリー、ビッグムース、ハクトウワシなどなど。運が良ければ草原を疾走する灰色オオカミを見ることもできるという。
大平原を緩やかに蛇行するYellowstone River(写真2)や4万リットルの熱水が一気に50mも吹きあがるダイナミックな間欠泉Upper Geyser Basin。この公園には本当にたくさんの見どころがある。
しかしここでは観光は程々にして何もしないでのんびりと過ごす時間がたいせつだ。朝と夕に散歩、日中は遠くの景色を眺めながら本を読む、夜はワインを飲む、という穏やかなスケジュールが理想的だ。
九つある公園内ロッジのレベルは高く、とりわけOld Faithful Inn(写真3-4)はイエローストーンを象徴するロッジ。1904年開業というのですでに100年以上が経過している。吹き抜けの大空間と天井まで伸びる流紋岩の暖炉には圧倒される。
ダイニングは伝統あるロッジに相応しい雰囲気を醸し出しているが、残念なことに料理やワインのセレクションは平凡だった。言葉は悪いが中途半端な高級感。この料理が数日続くと飽きてくることは間違いない。観光客が頻繁に出入りするので騒々しいというのもある。このロッジを1泊だけにして、素朴な造りのLake Lodge Cabins(写真5-7)などで残りの数日間を質素に過ごす、というのがよいプランだと思う。

アトランタ

公民権運動発祥の地

アトランタはアメリカ南東部、ジョージア州の北西部にある大都市。面積は343平方km(132平方マイル)。町の西北にはチャッタフーチー川が流れ、河川域には美しい南部大自然の名残がある。アトランタの東側に降った雨水は東に流れ大西洋に、西側の雨は南に下りメキシコ湾に注ぐのは町なかを東部分水嶺が縦断しているからである。
アトランタといえばまず、映画「風と共に去りぬ」が思い浮かぶ。原題「Gone with the Wind」のWindとは南北戦争のこと。アイルランド入植者の娘スカーレットを取り巻く人間模様と、凋落してゆく南部貴族社会を描いた大河ドラマだった。
当地ではアフリカ奴隷による綿花産業で多くの富豪が生まれた。僕たち夫婦はアトランタ郊外のプランテーションを訪ねたが、まさに「風と共に去りぬ」そのもの。豪壮な家屋敷は当時の贅沢な暮らしぶりを彷彿とさせるものだったが、広い庭の片隅にある今は使われなくなった粗末な奴隷小屋と錆びて朽ちた奴隷用足枷を見た時には心底、奴隷制度の怖さを感じた。
南北戦争は自由貿易主義の北部と奴隷酷使により農業大国を目指す南部の戦いだった。奴隷は解放されたが、そのことにより白人と黒人の対立がかえって鮮明化され差別というあらたな社会問題に発展した。とくにアトランタでは人種間抗争は熾烈をきわめた。
アトランタに生まれ公民権運動に身を投じたキング牧師は志半ばにして1968年テネシー州メンフィスで射殺された。キング牧師最後の地となったロレイン・モーテルも見学したがそのことはメンフィスの頁に記す。オーバン通りにあるキング牧師の生家、教会一帯は国立歴史地区となっている。
バックヘッドの住宅街には19世紀の反映を物語る白亜の家が立ち並び(写真1)、片や黒人街は町の片隅に追いやられている。ニューヨークやロスアンジェルスなど大都会では窺い知れない重い歴史がアトランタにはあった。

アッシュビル

「アメリカで住みたい場所」トップの優雅な邸宅地

アッシュビルはアメリカ南東部、ノースカロライナ州とテネシー州との州境を南北に流れるフレンチブロード川と東西に横断するスワナノア川が交差する東北側に位置し面積は107平方km(41平方マイル)、最大標高は650m。
アッシュビルでは驚くほど様式的な邸宅があちこちで見られる。アール・デコとネオゴシックの混在だがヨーロッパの伝統建築とは違い独特の雰囲気を持っておりアッシュビル・スタイルといってもよいのだと思う。
アッシュビルという地名は日本ではあまり知られていない。しかし2007年のRelocate-America.com でアッシュビルは「アメリカで住みたい場所ベスト100」のナンバーワンになった。その他フォーブス、アメリカンスタイルなど多くの雑誌で人気の住宅地、避暑地として頻繁に取り上げられるという。
なかでもビルトモア・ハウスは部屋数250室以上という途方もないスケールで、アメリカ最大の個人邸宅である。僕たちはグローブ・パークイン(写真1-4)という当地では歴史的ホテルに滞在した。1913年に創業された自然石をふんだんに使った豪壮な建物だ。アッシュビルという地域自体が地理風水に恵まれた穏やかな土地柄だが、見晴らしのよい丘の上に建つこのホテルのテラス周辺の空気感は格別。本当に心地よい。多分この場所が当地最高のパワースポットなのだろう。
それもそのはず。27代ウイリアム・タフトから44代バラク・オバマに至る歴代大統領がこのホテルを訪れたのだという。ロビーフロアには多くのアメリカ著名人の写真がズラリと飾られているが、僕はこういう権威主義的な雰囲気に満ちた空間は好きではない。部屋自体はさすがに昔のつくり、ふたつのダイニングとそのメニューにも落胆。もうひとつあった今風のカジュアルレストランEDISON(写真5)はとても感じ良かったが、かつての歴史的な栄光を継承しつつ現代にも対応してゆくということはとてもたいへんなことだと思った。