ロスオリボス

ワインとオリーブが育つ町

ロスオリボスはアメリカ西海岸、リフォルニア州南部にあり面積6.4平方km(2.5平方マイル)、標高80m、人口は1200人。ロスアンジェルスから北に100マイルの海岸沿いの町、サンタバーバラからだと州道154号で内陸に30マイルの距離。
地名のロスオリボスはスペイン語でザ・オリーブの意味だという。町並みにオリーブの樹々が青々と繁る。季節の花が咲き乱れ、地元産のワインが飲めるカジュアルで素朴なレストランがたくさんある。道に面したテラス席に地元の人々が集う。僕が好きなアメリカ田舎町の典型的なパターンだ。
静かな町なのに風景がキラキラしていて活力に漲っている。ロスオリボスはほぼ満点に近い。しかしサンタフェやタオス、大自然ではグレーシャー、マウントレーニアなどアメリカには桁外れに景色がよくパワー溢れる土地があるので満点は言い過ぎとして星は三つくらいかもしれない。
ロスオリボスはブドウの町でもある。当地を含む広いエリアがサンタバーバラ・ワインカントリーとなっていてサンタイネス・バレー、サンタマリア・バレー、ステリタヒルズ、バラードキャニオン、ハッピーキャニオンの五つAVA(American Viticultural Area)のワイン栽培地域に分類されている。
そのエリアの中でもとりわけ著名なAVAがロスオリボスの属するサンタイネス・バレーで、70のワイナリーが集中している。当地は夜になると太平洋から冷たい霧が流れ込みシャルドネ種、ピノノワール種のブドウがすくすくと育つという。
ロスオリボスの町中にあるテイスティングルームを巡ったが見たことのないラベルだらけ。ワインというのは世界各国、各地に本当に多くの銘柄があってそのバラエティの豊かさにいつも感動する。

レキシントン

ケンタッキー・ブルーグラスカントリー

レキシントンはアメリカ南東部、ケンタッキー州中北部にあり面積は737平方km(286平方マイル)で標高は298m。
レキシントンはフェイエット、フランクリン、ブルボンなど15の郡からなる広大なブルーグラス牧草地帯の中心地であり、ケンタッキーダービーをはじめ国際級のサラブレッド競走馬を生み出してきた土地柄でもある。
3億年前、当地は海だったという。その名残の貝やサンゴ礁の影響でレキシントン周辺の土壌はカルシウム分に富み、その土が栄養価の高い牧草を育て、連続するゆるやかな丘陵と相俟って頑丈な馬が育ってきた。
西から東に向けフランクフォートとレキシントンの間の17マイルのオールドフランクフォート・パイク(Old Frankfort Pike)と14マイルのパリス・パイク(Paris Pike)を走行した。景観道路、ケンタッキー・シニック・バイウェイ(Kentucky Scenic Byway)である。輝くようなブルーグラスが広がる牧草地帯にサラブレッドの姿が映える。ケンタッキーを象徴する何とも素晴らしい風景だ。
ケンタッキーの呼び方はインディアンに由来する。紀元前から当地に住んでいたイロコイ(Iroquois)族の言葉「草原の地」が州名になったといわれている。イロコイ族は数あるインディアン部族のなかでも異色である。
数百あったアメリカ先住民、インディアン部族はそれぞれに自尊心と独立性が強く17世紀以降にヨーロッパ人から攻撃を受けているさなかにも部族間同士で抗争を繰り返していた。しかしイロコイ族は18世紀前半にすでに他の部族や一部のヨーロッパ諸国と同盟を結ぶなど多くのインディアンのなかでは特異な存在だった。現在はニューヨーク州北部とカナダに跨る地でイロコイ連邦(Iroquois Confederacy)として存在する正式な国家である。
イロコイはオノンダーガ族、カユーガ族、オナイダ族、モホーク族、セネカ族、タスカローラ族の6部族により構成される先住民連合であるためシックスネーションズ(Six Nations)とも称される。当地以外に住むイロコイ族も含めた総人口は約125000人、1997年に正式に発行されたパスポートは世界各国でおおむね受け入れられている。
余談になるがサウスダコタ州に住むスー族(Sioux)もアメリカからの独立を模索しているが彼らの聖地ブラックヒルズの領有権を巡りアメリカ政府と対立を続けている。このことはブラックヒルズの頁に詳しく記す。

ランカスター

アーミッシュの暮らしが今も続く

ランカスターはアメリカ北東部、ペンシルベニア州南部にあり面積19平方km(7平方マイル)、標高112m。アメリカ東海岸でもっとも長い川、サスケハナリバー(Susquehanna River)が町の西方に流れる。川の名はインディアン、サスケハナ族に由来する。
メイフラワー号で最初のヨーロッパ人が入植した1620年当時に2000人ほどが当地に居住していたが、その後サスケハナ族は衰退し川の名だけが残った。
ランカスターの歴史は古く、1709年に最初の移民であるペンシルベニア・ダッチが入植し、1729年に正式な町となった。
ランカスターはアーミッシュの町としても知られている。アーミッシュはカトリックの教義に厳格に従い移民当初の生活スタイルを守り続けている人々のこと。アメリカに住むアーミッシュ30万人の15%がランカスター居住といわれている。
ランカスターの郊外ではアーミッシュの家族が乗る馬車に何度も出会った。男性はつばの広い黒い帽子にあごひげ、吊ズボン。女性は髪の毛を束ねボンネットをかぶる独特のスタイルだ。アーミッシュの人々は車を所有しない、自宅に電気を引かないなど厳格なルールを定め近代技術に頼らない生活を300年以上も守り続けている。
ランカスターといえば1985年のハリソン・フォード主演の「刑事ジョン・ブック目撃者(Witness)」の印象が強烈だった。その映画で描かれていたアーミッシュの禁欲的、宗教色の強い規律に縛られた生活が重々しくちょっと恐ろしい生活にも思えた。
しかしランカスターを訪れアーミッシュの人々の生活に少しだけだが触れてみると、実はそれどころかアメリカ開拓時代のシンプルな生き方を継承している普通の人たちだとわかり、僕としてはかなりほっとしたのである。

ラッセン・ボルカニック国立公園

世界最大の溶岩ドーム

ラッセン・ボルカニック(ラッセン火山)国立公園はアメリカ西部、カリフォルニア州中北部に位置し面積は429平方km(166平方マイル)。1914年に国立公園に指定された。
サンフランシスコから北に240マイル、車で4時間ほどの距離。マウントラッセンの標高は3187m。カナダからカリフォルニアに連なるカスケード山脈の南方に位置する。カスケード山脈はアメリカ最大の火山帯でもある。
アメリカの過去の大噴火はすべてこの火山帯から起きている。当地から北にあるオレゴンのセントへレンズ山は1980年の大噴火で山頂部分の500mが吹っ飛び、面積518平方kmの森林が消失し、200マイルに渡る高速道路が破壊された。富士山とそっくりだったセントへレンズの姿は爆発で真ん中がえぐり取られ阿蘇山に似たカルデラ山に変化した。火山噴火は恐ろしい。
ラッセン最期の巨大噴火は1630年から1670年の間だったと考えられている。現在、ラッセンの温泉は沸騰し激しく蒸気が噴出している。ラッセン大噴火から300年以上を経た現在、地下の噴火エネルギーは最大限まで高まっておりアメリカ地質研究所と国立公園局は当公園内の9か所に地震計を設置し常時火山性ガスと地殻変動の測定を行う最大の危機管理体制に入っているという。
カリフォルニアと日本は面積も近いが火山と地震災害の危険と隣り合わせという点でも似通っている。カリフォルニアにはサンアンドレアスという南北に走る断層があり度々巨大な地盤変化を起こしてきた。
1906年のサンフランシスコ大地震では3千人が死亡し22万5千人が家を失った。地震も火山噴火も一定周期をおいて繰り返す。サンフランシスコ周辺の地殻の歪みも限界に近付いており20年以内に巨大地震が発生する可能性は80%だと考えられている。

マウントシャスタ

気力漲る本物のパワースポット

マウントシャスタはアメリカ西海岸、カリフォルニア州中北部シャスタトリニティ森林公園(Shasta Trinity National Forest)の北側に聳える4312mの高峰。面積8946平方km(3457平方マイル)に渡る広大な森林公園には多くの河川や湖が点在する。
当地には今から1万年前頃から先住民インディアンが住みマウントシャスタは古来より霊峰として信仰されてきた。19世紀にはシャスタ族、ニューリバーシャスタ族はじめ4部族が居住し人口は6000人前後だったという。
しかし1848年にカリフォルニアの金脈発見が契機となりゴールドラッシュが到来。カリフォルニアを目指す数万人のヨーロッパ人大移動はインディアンの領土を武力で侵略しインディアンは徐々に衰退した。
シャスタが先史時代から信仰の土地であったことを当時の入植者が知ることはなかった。しかし19世紀末以降シャスタにまつわる伝説が次第に明らかになり、また地場エネルギーの研究など土地の力の存在が知られるようになってきた。
その頃、西海岸で著名となった自然主義者で地質学者でもあったジョン・ミューア(John Muir、1838-1914)の影響力も大きい。ミューアは人間と大自然との共生、土地固有の信仰の尊重を訴えた。
パワースポットといわれる土地には大地震や噴火がつきものだ。マウントシャスタもその例にもれずきわめて危険な火山のひとつで、ひとたび爆発が起きれば1980年のワシントン州セントへレンズ大噴火を凌ぐ脅威になるといわれている。マウントシャスタの一番最近の大噴火が1786年。爆発周期が600年に一度といわれているので今世紀はひとまず大丈夫ではないだろうか。
僕たち夫婦はSiskiyou 湖畔、森の中に建つマウントシャスタリゾート(Mount Shasta Resort)に滞在した。キッチン、リビングルームを併設した広いスペースの木造ビラだ。澄み渡る空気で気分は爽快。土地のパワーも存分に吸収して満足の数日間だった。

マウンテンレイク

消えた湖が復活した

マウンテンレイクはアメリカ南東部、バージニア州の西部に位置し面積は0.2平方km(0.08平方マイル)、水面標高は1181m。湖があるジャイルズ郡ペンブロークの面積は2.8平方km(1.1平方マイル)。
マウンテンレイクは6000年前に出来たバージニア州では数少ない自然湖。この湖に流れ込む水源はなく湖が形成された理由はわからないが地震による崩落と大雨の溜水だと考えられている。
しかし19世紀から20世紀を通じて30mあった水深が2002年に突然減りだし2008年に湖は完全に消えてなくなってしまった。雨の少なさと湖底からの水漏れが原因だが、不思議なことに2013年にはまた水が溜まりだし元の湖の姿に戻った。
この現在のマウンテンレイクを自然湖というならちょっと疑問だ。湖が復活した2013年は湖のほとりにある有名なマウンテンレイク・ロッジ(Mountain Lake Lodge)が休業し大規模なリノベーション工事を行っていた時期と重なる。
マウンテンレイクが無くなったマウンテンレイク・ロッジはサマにならない。という訳でホテル工事のついでに干上がった湖の底に細工を施したかもしれないが、当地は世界遺産でも国立公園でもないただの観光地なのでとくに問題ではない。
ともかく僕たち夫婦はリノベーションが終ったマウンテンレイク・ロッジに宿泊した。南北戦争前の1856年創業の歴史あるホテルだけあって重厚な雰囲気。本館は石と木造りでロビーには立派な暖炉がある。紅葉の季節ならソファにゆったりと座り窓外を眺めつつウイスキーを飲めば最高の気分だろう。
メインダイニングも格調高いが肝心の料理は大外れだった。バージニア州の場合、何故かこういう正式なダイニングで料理がよかったことは一度もない。かんたんなメニューを素早く出してくれるStone Creek Tavernというホテルの入り口付近にあるラウンジの方が感じもよく味もよかった。

ベアマウンテン州立公園

ニューヨーク州立公園の歴史的ロッジ

ベアマウンテン州立公園はアメリカ北東部、ニューヨーク州にあり面積は21平方km(8平方マイル)、標高は391m。大都市ニューヨーク・マンハッタンから北に50マイル。この公園のさらに西側がハリマン州立公園となっている。
ベアマウンテンは急峻なハドソン川の西岸に位置し崖とゴツゴツとした岩が多い森と湖の風景で1913年にニューヨーク州立公園に指定され、2年後に宿泊施設であるベアマウンテン・イン(Baer Mountain Inn)がオープンした。このホテルは歴史あるアメリカ遺産として2002年に国立公園局が管理するアメリカ歴史登録財(The National Register of Historic Place)に指定されている。
国立公園法の施行、公園局の設置はアメリカが世界に誇れる法律のひとつだ。それに伴い自然環境に馴染む素晴らしい外観、内装を持つ公園内ロッジが多く生まれてきた。その代表、イエローストーン国立公園のオールドフェイスフル(The Old Faithful)の開業は1904。クレーターレイクのロッジ(Crater Lake Lodge)は1915年、ヨセミテのアワ二―(Ahwahnee)は1927年の開業だ。
ベアマウンテン・インは公園ロッジ草創期の1915年というかなり早い時期にオープンした公園史に名を遺す歴史的ロッジであることは間違いない。6年間のリノベーション期間を経て2012年に再開業した。僕たち夫婦は改装後のロッジにそれなりに期待を持って滞在したが、大いに落胆。石と木で出来た建物外観は重厚感に溢れ格調は高いが中身がなかった。客室内装や人的サービスは情けない限り。
T型フォードの生産が始まったのが1908年。とはいえこのホテルが出来た1915年はモータリゼーションのまだまだ黎明期。今ではベアマウンテンはマンハッタンから車で1時間の距離。しかしのんびりと馬車に揺られて赴いただろう開業当初は滞在型リゾートホテルとしての価値は高かったと思う。
このロッジだけではなく都市近郊の歴史的ホテルは遠方からの旅行者より地域の会合やウエディングなど大口の団体客に重きを置くことが多い。そういう時にたまたま当たってしまうとロビーでワインを飲んだり、庭でゆっくり本を読んだりという旅のくつろぎ感は吹っ飛んでしまうのだ。


ビッグサー

クジラ飛ぶ絶景

ビッグサーはアメリカ西海岸、カリフォルニア州セントラルコーストに位置し、モントレー岬カーメルから南に90マイルほどの断崖絶壁の海岸線地域。
1769年、後にカリフォルニア初代総督になるスペイン軍人ガスパル・デ・ポルトラ(Gaspar de Portola)率いる軍船が当地に接岸、ビッグサーに上陸した最初のヨーロッパ人となった。ビッグサーはスペイン語で「大きな南」の意味。
翌年、スペインはカリフォルニアを植民地とすることを世界に宣言した。先住民であるインディアン、オローニ族、エセレン族、サリナン族はスペインの抑圧政策で衰退した。しかし当地は1821年にメキシコ支配下となった。米墨戦争(Mexican-American War)でメキシコはアメリカに敗退し、1848年からは当地を含むカリフォルニア一帯がアメリカ領となった。
カーメルからスタートしてカリフォルニア州道1号線を海岸線に沿い一路南下。まさにカリフォルニアの青い空、ドカーンと広がる太平洋、空間の大きさに圧倒される。
しかし崖の下は海、道路の反対側は急傾斜の岩壁、大きなカーブが交互に連続して風景を見ている余裕は中々ない。アメリカを代表するシニックドライブであるというが、高所から見下ろす系の大自然はリラックスした気分にはなれない。
この高低差のきつい壮観な風景をつくっているのがサンタルシア山脈だ。山が海底から急角度でせり上がり海から3マイルの距離で1571mの山頂に達する。海岸線上にある山としてはアメリカ最高峰である。
ドライブに少し疲れたので道路沿いのカフェでしばしの休憩。海側の景色の良いテラス席に。大海原の向こうを眺めていたら突然クジラが飛びあがり僕たち夫婦は大感動。その店の名前はホエールウォッチングカフェ(Whale Watching Cafe)だったので、それほど偶然ではなかったのかも知れない。

ハーパスフェリー

南北戦争の激戦地

ハーパスフェリーはアメリカ南東部、ウエストバージニア州ジェファーソン郡にある歴史遺産の町、面積は1.6平方km(0.6平方マイル)、標高は149m。
1970年代の大ヒット曲、ウエストバージニアの州歌でもあるジョン・デンバーのカントリーロード(Take Me Home, Country Road) に当地から眺めるブルーリッジマウンテンやシェナンドーリバーの風景が歌われている。
大西洋チェサピーク湾に注ぐポトマック川とシェナンドー川が鋭角で合流する三角地帯の内側に位置し、ウエストバージニア、バージニア、メリーランドの3州の境界地域でもある。
1733年にポトマック川を越えて西側に渡るフェリーが建造され、バージニア州議会からその権利を取得したペンシルバニア州フィラデルフィア出身のロバート・ハーパー(Robert Harper)の名にちなんでハーパスフェリーと命名された。
植民地時代にはチェサピーク湾とオハイオ運河を結ぶ重要な河川交通を担い、19世紀に入りハーパスフェリーはポトマック鉄道の要衝となった。初代大統領となったジョージ・ワシントンは兵器の製造地を模索し、当地が工場地として決まり開発が進んだ。
1859年に奴隷の開放を主張するジョン・ブラウンがこの兵器工場を襲撃し、逮捕され即刻処刑となった。この事件が1861年にはじまった南北戦争の引き金になったと言われている。
南軍の最北端地としてハーパスフェリーは激戦地となり、1862年9月12日から3日間のハーパスフェリーの戦いは壮絶さを極めた。1944年に当地は戦争遺跡として国立歴史公園(Harpers Ferry Historical Park)に指定されている。
歴史公園には多くの観光客がいたが、いつもは明るいアメリカ人もさすがに神妙な面持ちだった。

シェナンドー国立公園

温帯湿潤、標準的な大自然

シェナンドー国立公園はアメリカ南東部、バージニア州中部に位置し、面積は805平方km(311平方マイル)、最大標高はホークスビル・マウンテンの1235m。1935年に国立公園に指定された。首都ワシントンD.C.から西に70マイルの距離なのでもっとも大都会に近いアメリカ国立公園といえる。
細長い国立公園の北端にあるフロントローヤルという町から南のウエインズボロまで105マイルに渡るスカイラインドライブがあり、この曲がりくねった眺めのよい道路がシェナンドーの観光価値のかなりの部分を占めている。
僕たち夫婦はスカイラインドライブの中程にあるスカイランドリゾート(Skyland Resort)という国立公園内ロッジに宿泊した。国立公園に指定される40年前に出来たというので相当古い。素朴な平屋の木造は味わい深く僕が好きなタイプのロッジなのだ。シェナンドー渓谷が眼下に一望できるレストランも雰囲気がある。
シェナンドーの景観はカシ、カエデ、スズカケなど落葉樹が主体で、夏休みよりもう少し遅い時期に訪れていたら赤から茶色に染まる紅葉のグラデーションを見ることができた。なだらかな山脈と渓谷。しかしこの風景はどちらかといえば日本的ともいえる。
ただしアメリカ東部では、断崖絶壁のグランドキャニオンや巨大バイソンと出会うイエローストーンのような大迫力のシーン体験は期待できない。シェナンドーの緯度は日本本州の真ん中と同じ38度で、冬寒く、夏は蒸し暑くなる気候も日本と似ている。平均的温帯湿潤気候、つまりカシやカエデの植物相だけでなくシカやキツネが住む森の動物相も同じなのである。
圧倒的な景観がない分、気張ることなく、日本に居るかのようにゆったりと過ごせる大自然といえるが、何のためにわざわざ日本から来たかという疑問は残る。

クレーターレイク国立公園

大地にドカーンと巨大な穴

クレーターレイク国立公園はアメリカ西部、オレゴン州南部にあり面積741平方km(286平方マイル)。1902年に国立公園に指定された。
好きな州でオレゴンを筆頭にあげる人は多い。ピノノワールとクラフトビール、料理、果物、美しい丘陵と森林など魅力は尽きない。クレーターレイクはそのオレゴン州で唯一の国立公園だ。国立公園は現在アメリカには59か所あり、クレーターレイクは1872年のイエローストーンから数えて5番目の指定となった。
日本から利便性のよい西海岸。とはいっても国際線が発着する大きな都市でいうとオレゴン州シアトルとカリフォルニア州サンフランシスコの中間地点なので、どちらから行ってもそれなりに遠い。サンフランシスコからだと北に450マイル、車で8時間の距離だ。
北にアンブクア(Umpqua National Forest)、南にウインマ(Winema National Forest)という森林地帯のはざま、標高2000m近い高地を走行中に突然まん丸の巨大な湖が現れる。圧巻なのは湖面の色。不自然なほど濃く青い。呆気に取られるとはこのこと。アメリカに数ある大自然のなかでも文句なしの絶景といえる。
ただし秋から春は降雪で道路閉鎖が多くクレーターレイクを訪れるのは夏に限定される。湖面の標高は1883m、水深は597m。アメリカでももっとも深い湖でもある。この湖は1853年にジョン、ヘンリー、アイザックという三人組の鉱山師により発見されたと記録にある。その後クレーターレイクと名付けられた。
クレーターとは天体の衝突によって作られる地形で、たしかに巨大な隕石がぶつかったように見えるが、この命名は間違っていて実際には火山活動により形成されたカルデラ湖なのだ。湖は地下水や河川とは繋がらない雨の溜水だけのため透明度は高く、またお椀状に深くえぐれた地形が独特の濃く青い湖面風景をつくっているのだという。

カーメル

断崖絶壁の海底峡谷

カーメルはアメリカ西海岸、カリフォルニア中部の海岸沿いの町。市の正式名称はカーメル・バイ・ザ・シー(City of Carmel-by-the-Sea)。面積は3平方km(1平方マイル)、標高68m。
17世紀まではインディアンのオローニ族が住み、スペイン統治時代を経て1848年にメキシコ領からアメリカ領となった。
サンフランシスコからカリフォルニア州道1号線を南に120マイル、モントレー半島の西端にSeventeen Mile Driveという、その名の通り17マイル(25km)の曲がりくねった有料道路がある。途上に世界的に有名なペブルビーチゴルフ場(Pebble Beach Golf Links)やリゾートホテルもある優雅なドライブコースでその南側がカーメルだ。
自然景観が美しく手入れが行き届いた町並み。20世紀以降に写真家のアンセル・アダムス、作家のジョン・スタインベックはじめ多くの芸術家や文化人が当地に移り住んだ。クリントイーストウッドが市長を務めたことでも話題になった。
海岸風景はおだやかで素晴らしい。しかし一歩海の中は恐怖の絶景だ。海岸からいきなり急傾斜で3600mの深海に達し、実際には見えないのだが海底を見下ろす景色はグランドキャニオンの倍の落差がある断崖絶壁だという。モントレー・キャニオンと呼ばれる世界有数の海底峡谷である。
ラッセン・ボルカニックの頁の繰り返しになるが、カリフォルニアにはサンアンドレアス断層という南北800マイルに渡る危険な地震帯がある。海底峡谷は過去の大地震による地割れかもしれない。活力ある土地、パワー漲るパワースポットと火山や活断層は関係深いようだ。
カーメルの宿泊施設のレベルは抜群に高い。実際に宿泊した経験ではビラスタイルのカーメルバレーランチ(写真3)、ハイランズインのふたつがとくに素晴らしかった。

オークブルック

ミシガン湖畔、知性に囲まれた町

オークブルックはアメリカ中西部、イリノイ州ミシガン湖畔にある町で面積は21平方km(8平方マイル)。シカゴのダウンタウンから西に30マイルにあるこの町はポール・バトラー(Paul Butler)という20世紀初めの有名なポロ選手が開発した。
アイルランド移民の子孫であるバトラーは選手としてだけではなく、実業家として資産を築いた。バトラー・ジュニアハイスクール、バトラー・ナショナルカントリークラブなど当地にはバトラーの名前が多くみられる。
そのカントリークラブに隣接したハイアット・マクドナルド・キャンパス(The Hyatt Lodge at McDonald’s Campus)という不思議な名前のホテルに宿泊した。マクドナルドが運営するハンバーガー大学(Hamburger University)という広大なキャンパスの中にあるホテルだ。この大学は1961年創設の企業大学でマクドナルドに働く管理職が学ぶという。
ホテルは低層で天井高のあるロッジは森と湖に面し、素朴な佇まい(写真3-4)。ミッドセンチュリーのインテリア、家具にも独特のムードがある。驚いたことにこのホテルの設計は巨匠フランクロイド・ライトだった。草原様式と日本語に訳されるライトの代表的な建築手法、プレイリースタイルは地平線を強調した伸びやかな建物で平原が多いアメリカ中西部の空気感に実にピッタと合っている。
ホテルから20分ほどの距離にあるモートン樹木園(Morton Arboretum)に出かけた。草原環境の修復プロジェクトとして計画された6.9平方km(2.7平方マイル)に渡る庭園(写真1-2)。園内にあるハリー・ウィース設計の図書館にはランドスケープや植物学の蔵書が多くあり、ビジターセンターは園内の樹木や石材を再利用し建築の持続可能を追求したという。さすがにオークブルック、樹木園にもインテリジェンスが漂う。