ラファイエット

南部美食文化の町

ラファイエットはアメリカ南東部、ルイジアナ州南部にあり面積は127平方km(49平方マイル)、標高は11m。
アカディアナ文化が色濃く残る美しい町、美食の町としても知られていて僕たちはブルードッグカフェで食事をした(写真5)。世界的に有名なアーティスト、ジョージ・ロドリゲの作品が100点以上も展示されていて圧巻。ケイジャン料理のレベルも高くて満足だった。
ロドリゲは1944年、当地近くのニューアイベリア生まれ、2013年没。終生「青い犬」を描き続けた。
ロドリゲの生地ニューアイベリア郊外にタバスコ(TABASCO)の製造工場がある。1868年に当地に移住してきた銀行家で美食家のエドモンド・マキレニー(Edmund Mcilhenny)という人物がタバスコペッパーの栽培を開始、TABASCOというユニークな食品を考案し製法特許を取得、現在のマキレニー社 (Mc. ILHENNY CO.)の創業に至る。
蒸留酢と当地原産の岩塩を混ぜ樫の樽で3年間熟成させるというアメリカでは珍しい発酵食品なのだ。世界170か国に輸出されるほど有名になったタバスコ。日本ではアントニオ猪木が経営するアントントレーディング社が1970年に販売契約を結び、一般に普及した。
日本ではピザにタバスコをかける人が多いがイタリアでは珍しい。メキシコの覆面プロレスラー、ミル・マスカラスは鮨を食べる時は醤油の代わりにタバスコを使うそうだ。どう食べようと勝手だが、このタバスコを開発した美食家マキレニーは大好物の生牡蠣の味付けとして考案した。
最初は牡蠣用ソースとして当地に原生していた唐辛子と岩塩を混ぜて食べていたが、それを発酵させると風味が増すことに気が付いたという。いずれにしてもタバスコがまさか世界中に普及するとはマキレニーも考えていなかったようだ。
個性的な風味はもちろんだが象徴的な瓶のデザインがこのブランドの発展に大いに貢献している。容器は発足当初から受け継がれているというから創始者マキレニーのデザインセンスは相当なものだ。煉瓦造りの本社建物も風格があって美しい(写真3-4)。
このマキレニー社はバイユーと呼ばれるワニが生息する湿原と森が交錯する真ん中にあってナビがなければ到底辿りつけない。それでも工場が近づくにつれタバスコ独特の香りが目と鼻を刺激する。
僕たちはまず製造工程を見学しそれからタバスコストアへ向かった。定番の赤いタバスコだけでなくハバロネ、更にはハラペーニョを使った緑色のタバスコなど種類も多い。瓶のサイズもバリエーション豊かで巨大なガロン瓶のタバスコには驚いた。1ガロンは3.8L、日本酒の一升瓶の2倍以上の大きさで価格は40ドルと超お買い得だったがもちろん買わなかった。

マッキニー

過去と未来が共存する町

マッキニーはアメリカ南西部、テキサス州北部に位置し、面積は152平方km(63平方マイル)。1836年にテキサス共和国として独立国家となった当地は1845年にアメリカに併合、1849年にマッキニーの町が創設された。当地の名称はテキサス独立宣言を起草したコリン・マッキニーに因み命名された。
アメリカ4大メディアのひとつであるCNNマネー誌(CNN Money Magazine)では毎年アメリカで「もっとも住みやすい町(Best Place to Live in America)」を発表している。マッキニーは2010年に5位、2012年に2位そして2014年にはついに1位となった。アメリカには2万の自治体(市町村)があり、そのトップなので価値はひじょうに高い。
1849年にたった35人でスタートした町は約100年を経た1952年に人口1万人を超過、2014年には14万人に達した。アメリカのすべての町のなかで人口急増率ベスト5にランクされたこともあるという驚異的な成長を続ける町なのである。
優れた安全性、社会保険制度、税制、教育環境は当然のこと、マッキニーには風力や太陽光を使ったグリーンエネルギーの開発、雨水の再利用、廃油暖房など持続可能な社会を実現するためのシステムがあり、行政当局による先進的な町づくりが当地の価値を高めていることは間違いない。
一方、旧市街では古い建物はひじょうにたいせつに保護され修復して再利用されている。両極のバランスが素晴らしい。僕たちは旧裁判所周辺の歴史的な町並みをゆっくりと散策した。アンティークストアやレストランが立ち並ぶ景観はとりわけ19世紀末の古き良き時代のテキサスを彷彿とさせ、とても魅力的だ。
未来と過去がバランス良く共存する町。こういう町に住んでいる人はさぞかし快適だろうと思う。


ポートイザベル

幻のネコ、野生オセロットの棲家

ポートイザベルはメキシコと国境を接するアメリカ南西部、テキサス州最南端の小さな港町。面積は8平方km(3平方マイル)。当地はメキシコ革命後にアメリカ領となり18世紀から19世紀にかけて綿花積み出し港として活況を呈した。
メキシコ湾を望み、きりっと立つ灯台に僅かに往時の繁栄が偲ばれる(写真1)。イザベル灯台は1852年創設、南北戦争後の修復を経て長らく稼働したが1905年に消灯。1976年にテキサス州歴史遺跡に指定された。
ポートイザベルはパドレ島のゲートシティでもある。海岸線と並行して南北数百マイル、幅がたった2マイルという驚異的に細長い島で、その南端のサウスパドレアイランドはテキサス州を代表するビーチリゾート、別荘地として知られている。
僕たち夫婦は当地に4泊の予定で出かけたが延々と続くビーチはたしかに素晴らしいが、施設やレストランはどこも少し寂れた感があって期待外れというのが正直な感想。
ポートイザベルの北側がラグナ・アタスコサ野生動物保護区となっていて毎年11月には25万羽もの水鳥が訪れる。特記すべきは当地海岸沿いに棲む幻の野生ネコ「オセロット」(Ocelot、学名Leopardus Pardalis)の存在。抜群のスタイルとゴージャスな毛並みを持つオセロットの美しさはアメリカではネコ科最高と称賛されている。
ちなみにアメリカネコの代表格アメリカンショートヘアは先住民オセロットとは違いいわゆる入植者。イギリスから新天地を目指し1621年にマサチューセッツに着いたメイフラワー号に乗っていたネコの子孫であるとされている。オセロットに似たネコを作り出そうと交配されたのがオシキャット(Ocicat)。しかしオセロットの血は入っておらずアビシニアン、シャム、アメリカンショートヘアの混血だそうだ。
ともかくぱっちりとした丸く大きな目。梅花紋といわれる野生的な黒い斑点。負けん気の強そうなオセロットの可愛さはネコ好きにはたまらない。優美な毛皮がきわめて高額で取引され個体数が激減、現在は絶滅危惧種に指定されている。
ポートイザベルでは野生12匹が確認されていて、アメリカ全体の推定個体数は50匹。人になつきやすことでも知られていて野生以外に数十匹の飼育オセロットがいるという。海岸近くをウロウロしたが遭遇未体験、映像でしか見たことがない。

フォートワース

カウボーイ発祥の地

フォートワースはアメリカ南東部、テキサス州の北東部にあり、面積は774平方km(299平方マイル)、標高237m。
19世紀、カウボーイの町として知られた当地には各地から牛が集まり取引された。当時の面影を残すストックヤード国立歴史地区はダウンタウンから5マイルほど北にある。ストックヤードの家畜取引は1876年の鉄道開通をきっかけに大発展。しかし20世紀に入り自動車の出現に伴いアメリカの物流政策は転換し当地は衰退する。
鉄道登場から100年後の1976年に当地の由緒ある建物が復元され国立歴史地区に制定された。当地区の最大の見ものはテキサス人が誇るロングホーンの行進、キャトルドライブだ(写真4)。
乗馬したカウボーイたちが数千頭のロングホーンを伴い東に向かう旅を昔はCattle Driveと呼んだ。ロングホーンは長旅に耐える強靭な体力を持つ牛なのだ。
テキサス出身のプロレスラー、スタン・ハンセンが右手で角の形にする決めポーズもロングホーン。Stockyards Station、Cowtown Coliseum、Texas Cowboy Hall of Fameなど当地区には歴史的な建物も多くある。
19世紀の町並みの中、直感頼りでステーキハウスに入った。店名はキャトルメンズ(Cattle Men’s、写真1)。年季の入ったオーク材の内装でちょっと格式が高そうだ。まずはガラスケースにずらっと展示してあるステーキ肉を観察する。
かなり悩みつつ選んだのは定番のポーターハウスではなくニューヨークストリップ。サーロインより脂はさらに多めで少しだけ硬めの肉質。もちろん数週間寝かせたドライエイジド・ビーフだ。結果は大当たり、炭火で表面だけを焦がすように焼くアメリカにはよくある香ばしいタイプのステーキだが肉質が抜群。
元々アメリカのステーキレベルはひじょうに高い。今まではニューヨークのピータールーガー(Peter Luger)、ちょっと落ちてウルフガング(Wolfgang’s)、ベンジャミン(Benjamin)あたりが最高ランクと思っていたが、さすがにCowtownフォートワース、本場の味と雰囲気に大満足した。

ヒルカントリー

野草の楽園、テキサス最高のワイナリー

ヒルカントリーはアメリカ南東部、テキサス中央部に広がる美しい丘陵地帯。春にはブルーボネットが咲き乱れ、秋には葡萄がたわわに実る。北アメリカ大陸の中央部を細長く縦断するグレートプレーンズの南端部にあたり面積は36300平方km(14000平方マイル)、最大標高は750m。
グレートプレーンズはロッキー山脈から流れる河川により形成された堆積平野地帯で砂質及び石灰質土壌は大草原の自然景観をつくる。
テキサスの抜けの良い風景のなか真っすぐの道路を走る爽快感は格別。とにかく広い。テキサスの1州だけで日本全土とほぼ同じ面積がある。
事実アメリカに併合される前のテキサスはテキサス共和国(Republic of Texas)として独立国だった。町の各所で見られる旗は星条旗ではなくローンスター(Lone Star)と呼ばれる星がひとつのテキサス州旗。他の州とは一味違った独自の文化性とプライドの高さを醸し出している土地柄である。
ヒルカントリーの中心地がフレデリックスバーグ(Frederickburg)。その名からも窺える通りドイツ人入植者により19世紀半ばに創設された、まさにドイツ的な町である。フレデリックス(フリードリヒ大王)は18世紀のプロイセンの専制君主。
町なかのレストランにもドイツの伝統が感じられる。ビール醸造所とパブが一体化したビアレストランが多くあり楽しい。ビールでソーセージと子牛のカツレツを食べるのが定番。メインストリートにあるSilver Creekには2度、Crossroad Salon & Steak Houseにも行ったが、どちらにも大満足、味、雰囲気共にひじょうに高レベルだった。
当地にはワイン醸造所も多くあり、ちなみにテキサスはカリフォルニア、オレゴン、ワシントン、ニューヨークに次ぐ5番手のワイン生産州でもある。郊外のいくつかのワイナリーを巡ったが、ベッカーヴィンヤード(Becker Vineyards)が当地では一級品のようだ。

バトンルージュ

19世紀の南部繁栄を物語るプランテーション

バトンルージュはアメリカ南東部、ルイジアナ州の南東部にあり面積は205平方km(79平方マイル)、標高21m。1699年、インディアンが住む当地にフランス人が入植し町の開発が始まった。バトンルージュはフランス語で「赤い杖」の意味。
1803年アメリカはバトンルージュを含むルイジアナ全域をフランスから1500万ドルで買収した。当時のフランス領ルイジアナとは現在のアメリカの真ん中を縦断するミシシッピ川流域の15州。現在の感覚では到底想像もつかないがフランス皇帝ナポレオンはアメリカ15州の売却益をイギリスとの戦費にあてた。
アメリカ領となったバトンルージュは1849年にルイジアナ州の州都となり町の発展がはじまった。19世紀に建造されたゴシック・リバイバル様式の旧州会議事堂(写真5)の1マイル北側に1932年に建設された高層の州会議事堂がそびえたつ(写真4)。
当地の南50マイルにあるオークアレイ・プランテーションを訪ねた。かつて栄えた大農園の邸宅跡だ。オークアレイとはフランス語で「樫の小路」の意味。何といっても樹齢300年以上という樫の大樹が見事だ(写真1)。
煉瓦と漆喰によるこのグリーク・リバイバル様式の邸宅は砂糖王と呼ばれたサトウキビ農園主バルカー・エメが1837年に建てた。設計はジョセフ・ピリ。所有者は時代ごとに変わり1925年には建築家リチャード・コッホにより大規模な修復が行われた。
いくらアメリカでもこれだけの歴史遺産を個人資産で維持してゆくのは難しいのだろう。最後の所有者ジョセフィン・スチュワートが土地と邸宅を寄付しオークアレイ財団となり、現在はアメリカ歴史的建造物(National Historic Landmark)に指定されている。
いくつかのプランテーションを見学したが一様に19世紀の南部貴族の驕りと奴隷史を物語る重々しい空気感が漂っていた。栄華を極めた大農園主は南北戦争を境に没落した。

パドレアイランド国立海浜公園

海岸草原、コースタル・プレーリー

パドレアイランド国立海浜公園はアメリカ南西部、テキサス州南部にあり、面積は528平方km(203平方マイル)。パドレ島はテキサス海岸線から2マイルほどの沖合に並行する幅2マイル、長さ数百マイルに及ぶ細長い島。
コーパスクリスティから町の東端に架かる3マイルの橋を渡れば、あっけないほどかんたんにパドレ島に到着する。しかし着いてみて感じたのはこの島は陸と海の境界がきわめて曖昧だということだ。これはコースタル・プレーリー(海岸草原、Coastal Prairie)と呼ばれ、まさに草むらと海が混ぜ合わさったような不思議な風景だ。
メキシコ湾岸では陸地と水域の中間にあたる湿原や沼沢地、干潟が豊富でこれらを総称してウェットランドと呼んでいる。水鳥の生息地になるだけではなくウェットランドは地球規模で水系を調節する働き、つまり河川の氾濫や高波、津波などの自然災害を最小限に食いとめる役割も担っているのだそうだ。
当地はウミガメの産卵地としても知られ、加えて280種の渡り鳥が世界各国から飛来するというアメリカでも有数の海浜保護区となっている。
フロリダからメキシコ湾岸地域には稀に桁違いに巨大なハリケーンが襲来する。1554年、スペイン艦隊サンエステバン(San Esteban)はパドレ島海域で暴風雨に遭い難破。巨額の金銀財宝が海中に沈み300人が死亡するという歴史上の海難事故が起きた。
16世紀のスペインといえば無敵艦隊(Spanish Armada)を率いた世界の覇者。1521年にアステカ文明、その後マヤ文明を滅ぼし1532年にはインカを全滅させ、南北アメリカを制圧。東南アジアを含む世界制覇に邁進中のスペイン黄金の世紀(Siglo de Oro)と呼ばれた絶頂期の出来事だった。
それから410年を経た1964年にサンエステバンは当地沖合で発見された。年月をかけ修復を終えた難破船は現在コーパスクリスティ科学歴史博物館に展示されている。

ナチェズ

南部の歴史街道、ナチェズ・トレース・パークウェイ

ナチェズはアメリカ南東部、ミシシッピ州南西部、ミシシッピ川流域にあり面積は36平方km(14平方マイル)、標高は66m。町の名前は紀元前から当地に居住していたナチェズ族に由来する。古代ミシシッピ文化圏の一角を成したインディアン部族である。
1716年にフランス人が入植、1729年に土地の支配権を巡る紛争がやがてナチェズ戦争に発展。ナチェズ族が敗北し、1731年にフランスが当地を掌握した。ミシシッピの州都となったナチェズはアフリカ人奴隷を導入、大農園経営で繁栄した。綿花は当地から積み出され、ニューオーリンズを経てヨーロッパに運搬された。
しかし1822年に州都がジャクソンに移りナチェズは徐々に衰退する。ミシシッピ河川交易の衰退、鉄道の出現に加えて、317人の死者を出した1840年のグレート・ナチェズ竜巻も大きな痛手となった。
ナチェズ・トレース・パークウェイ(Natchez Trace Parkway)は南北戦争以前の南部の面影を残す全長444マイル(710km)に渡る歴史街道(写真2-5)。当地を起点としてアラバマ州を経てテネシー州ナッシュビルまで続き、沿道には18世紀の古びた建物や綿花畑が残っている。
僕たち夫婦はナチェズからトレース・パークウェイを北に向かった。前夜とは打って変わり森を抜ける道は嘘のように静かで穏やかだった。
前夜とは竜巻事件のこと。ミシシッピ川流域を走行中に突然車のナビと携帯電話が同時にピーピーと鳴り出した。今までに聞いたことがない警告音だ。そのうち空が真っ暗闇になりもの凄い勢いの暴風雨が襲来。視界はゼロとなり車は走行不能。何とトルネードにはまってしまったのだ。
翌朝わかったことだが竜巻に吹っ飛ばされた車もあって、悲しいことに死者も出たという。本当に恐ろしい体験となった。旅の知識はあると思っていても不意の出来事への対応は中々難しい。アメリカ大自然を甘く見てはいけないということを痛感した。

クレオール・ネイチャートレイル

ワニ横断注意の自然道

クレオール・ネイチャートレイルはアメリカ南東部、ルイジアナ州南西部にあり全長180マイル(288km)。このトレイルの起点となるレイクチャールズはアメリカ東西を結ぶインターステイツ10号線上にあり大自然とはいうものの交通アクセスはきわめてよい。
ルイジアナ州道14号、82号、27号、384号がネイチャートレイルの対象となっているが1本の道に繋がっている訳ではなく、車で走っていて時々道に迷いそうになる。周辺は小川や湿原、湖が入り混じるウェットランドで自然感満載。巨大なアメリカアリゲーターをはじめ野生動物の宝庫となっている。
クレオール・ネイチャートレイルは2002年にオールアメリカンロードに指定された。1989年にシニックバイウェイ法が成立し、考古学、文化、歴史、自然、レクレーション、景観の6項目を審議し120の道路が「ナショナルシニック・バイウェイ」に、30か所が最高峰の「オールアメリカンロード」に認定されている。
オールアメリカンロードのすべてを走行したわけではないが、好きな道はと聞かれれば、まずフロリダキーズ・オーバーシーズ・ハイウェイ(Florida Keys Overseas Highway)。マイアミから最南端キーウエストまで島伝いに海上を一直線に突っ走る、その爽快感は言葉にはできない。
次いで大河ミシシッピに沿って走る全長2069マイル(3329km)のグレート・リバーロード(Great River Road)。ミシシッピ川は氷河湖イカタスを源流とし10州を南下してニューオーリンズ湾に注ぐ。三番目はルート66(Route 66)。シカゴからサンタモニカを結ぶ全長2347マイル(3755km)の旧国道。古き良き時代を象徴する歴史街道だ。
こう考えてみるとアメリカの旅の魅力は「点」ではなく「線」、町と町をつなぐその線上に面白みがあると思う。もうひとつは「面」だろうか。例えば国立公園などにじっくり滞在し広大なエリアをぐるぐると巡るのもたいへん楽しい。

グレート・リバーロード


アメリカ縦断、大河ミシシッピの旅

グレート・リバーロードは蒸気船が往来した19世紀のミシシッピ河川交易を象徴する道路。全長2069マイル(3329km)でミシシッピ川に沿ってアメリカを南北に縦断する。
ミシシッピ川は開拓時代における農産物、綿花や砂糖など重要な河川交易のルートとなっていた。そのミシシッピに並走する道路がグレート・リバーロードでありアメリカを東西に繋いだルート66と共にアメリカの経済発展を彩った歴史街道となっている。
僕たち夫婦は同じ年の夏と冬の2回に分けてこの道を走行した。もちろん夏に北部、冬に南部。南北に移動する縦の旅は日ごとに気候が変化し植物相の移り変わりも大きくメリハリがある。
ミシシッピ川はミネソタ州北部にある氷河湖イタカスを源流とし、南下してウィスコンシン、アイオワ、イリノイ、ケンタッキー、テネシー、アーカンソー、ミズーリ、ミシシッピ、ルイジアナの10州を経てニューオーリンズ港があるメキシコ湾に注ぐ。
ミシシッピの語源は先住民オジブワ族の言葉で「大きな川」。アマゾン、ナイルと並ぶ世界三大河川のひとつで総延長は3731マイル(5971km)。直線に換算すると北海道から沖縄の倍の距離という途方もない長さなのである。流域には紀元前から多部族の先住民が住んだが、17世紀中ごろからフランス人による入植がはじまりフランス領となった。
1803年にアメリカはミシシッピ川以西のルイジアナをフランスから購入。2500万ドルという世紀の大買収によりミシシッピ川の東西流域はアメリカ支配下となった。蒸気船での航行は1811年から始まり、南北戦争が勃発した1860年代に最盛期を迎え、その後鉄道の登場に伴い急速に衰退する。
ウインスコンシン州ラクロス(La Crosse)は川に面した静かな町(写真4)。河口から北に1500マイル(2400km)も遡った内陸にありながら川幅は何と5000m。川岸からの眺めはまさに大海原。アメリカのスケールを見せつけられた思いである。

ガルベストン

栄光の海賊、ジャン・ラフィットを偲ぶ

ガルベストンはアメリカ南東部、テキサス州の南東部メキシコ湾岸にあり面積は540平方km(208平方マイル)。19世紀にはテキサスを代表する貿易港として栄えたが、1900年の巨大ハリケーンで町は壊滅、経済の中心はヒューストンに移った。
落ちぶれたとはいえ町のメイン通りには、今も往時の繁栄を物語る豪壮な住宅がいくつも残されている。ビクトリア様式のBishop’s Palaceは建築家ニコラス・J・クレイトンの代表作。権威あるアメリカ建築家協会(AIA)の「アメリカでもっと重要な建築100選」に指定されている(写真1)。
ガルベストンにはもうひとつ見たい史跡があった。大海原を舞台に活躍した海賊、パイレーツ・ジャン・ラフィットの旧邸宅だ。波乱万丈に富んだその生涯は謎に満ちている。ラフィットは1782年、フランス・ボルドーに生まれ新大陸に移民。米英戦争ではアメリカに協力、1千人以上の子分と共にイギリス軍と戦った。
1812年に当地にラフィット王国をつくり、海を臨む邸宅の2階には大砲を備えメゾン・ルージュと名付けた。その後テキサス独立戦争への協力を拒否、アメリカ商船への海賊攻撃を繰り返したため政府と対立。
1821年にメゾン・ルージュを焼き払い当地を撤退した。1822年、キューバの Puerto Principeから脱獄し、翌年からカリブ海パイレーツとして暴れまわったといわれているが諸説あり不明。
メゾン・ルージュ史跡を見たくて、だいたいの目星を付けてあたりを歩き廻った。近所の人に聞いたがラフィットのことは知っていても跡地まではわからないようだ。
やっと見つけたその場所は草木に埋もれた廃墟となり、僅かに残された建物の基礎部分にはゾッとするような冷たい空気に包まれていた(写真4-6)。アメリカ政府に背いたとはいえ19世紀当時の英雄には違いない。手厚く保存されることを祈りたい。