マンチェスタービレッジ

バーモントのメープル街道

マンチェスタービレッジはアメリカ北東部、ニューイングランド地方バーモント州南部にあり面積は109平方km(42平方マイル)、標高は281m。東にグリーンマウンテン国立森林公園、西にタコニックマウンテンに囲まれた静かで美しいリゾート地。
バーモント州はかつてアベキナ族、モヒカン族やイロコイ族などインディアンが住む土地だった。17世紀に入るとフランス人による植民地化が進み、その後フランス領カナダ、1763年にイギリス支配化となった。1777年に反乱が勃発しバーモント共和国として独立を宣言したが、結局1791年にアメリカに併合された。
ニューヨークから車で当地に向かった。ハドソン川に沿ってくねくねと北に。ニューヨークの州都オルバニーまでトータル6時間。ニューヨーク州はカナダのオンタリオ州、ケベック州と国境を接するところまで北に大きく広がっている。エリー湖、オンタリオ湖もニューヨークなのだ。
オルバニーからマンチェスタービレッジまでは更に2時間、思いのほか時間がかかった。アメリカ北東部は西部とは違い大平原や砂漠をを地平線までまっしぐらという訳にはゆかない。日本の道路事情と一緒で渋滞もあるし料金所も多い。
僕たち夫婦は町から少し離れたタコニックホテル(Taconic Hotel、写真1-2)に宿泊した。雰囲気のある部屋に加えて洗練されたダイニングも素晴らしい。ニューイングランド地方特有の深みのあるメープルの森に囲まれた静かな場所だ。
メープルの日本名はサトウカエデ。その名の通り煮詰めた樹液は甘く香りもよい。メープルシロップはカナダのケベック産が知られているがアメリカでは当地バーモント州が最大生産地となっている。バーモント州のもうひとつの特産品はリンゴ。かつて西城秀樹が歌ったリンゴとハチミツで有名な「ハウスバーモントカレー」はバーモント州では全然知られていない。


ホワイトマウンテン国立森林公園

森と渓谷のパワースポット

ホワイトマウンテン国立森林公園はアメリカ北東部、ニューイングランド地方ニューハンプシャー州北部からメイン州西部に跨り面積は3039平方km(1173平方マイル)。1918年に国立森林公園に指定された。メイン、ニューハンプシャー、バーモント、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカットの6州をニューイングランド地方と呼ぶ。
当森林公園を横断する全長100マイルのホワイトマウンテン・トレイルはナショナルシニック・バイウェイに指定されている。アメリカでは道路を学術や観光資源の側面から評価し格付けを行っている。
考古学、文化、歴史、自然、レクレーション、景観の6項目を審議し120か所がナショナルシニック・バイウェイに、更に30か所が最高ランクの道路としてオールアメリカンロードに指定されている。歴史街道「ルート66」、ミシシッピに沿って走る「グレートリバーロード」などが有名。
当森林公園で最高峰がワシントン山で標高1917m。かつて神聖な山として当地に住むインディアン部族の信仰の対象となっていて入山も固く禁じられていた。山頂近くには行っていないので感覚はつかめなかったがパワースポットの地であることは間違いない。川に沿ってトレイルを歩いたが吹き渡る風は爽快で気力に満ちていた。
ワシントン山は突然猛烈な風が吹く危険な山としても知られている。その風力は桁外れで103m(時速372km)という風速世界2位の記録もある。東西の風が山頂付近で衝突するという地理に加えて北方の冷たい風と南の暖気が交錯する特殊な気象条件が重なって起きる現象だという

ポーツマス

川沿いの土手に野イチゴが実る

ポーツマスはアメリカ北東部、ニューイングランド地方ニューハンプシャー州の大西洋沿岸にある町で面積は44平方km(17平方マイル)。1603年にイギリスのブリストル出身の軍人マーティン・プリング(Martin Pring)が当地を探索。その後イギリス人によって開発され1653年にポーツマスの町となった。
当時、イギリスからの入植者の生活は苦難を極めとくに厳寒の季節には多くの死者を出した。ポーツマスにはワンパノアグ族、イロコイ族など多数のインディアン部族が住み、彼らは入植者に食料を提供しまた当地に合った農法を教えた。
収穫期の秋にイギリス人入植者たちが共同でインディアンを招き感謝の意を伝えたのがサンクスギビングデイの起源になったと伝えられている。11月の第3木曜日がアメリカ国民の祝日。翌日の金曜がいわゆるブラックフライデーで年末商戦の始まりの日となる。
初期には友好的だった入植者とインディアンの関係は次第に悪化する。急増したヨーロッパ人はインディアンに土地の提供を強要、争いが頻発する。1675年に起きたインディアン戦争(フィリップ王戦争、King Philip’s War)は凄惨を極め、4千人のインディアンが戦死したと記録されている。
僕たちは町の南側、ピスカタクア川河口近くにあるストロベリーバンケ・ミュージアム(Strawberry Banke Museum)を見学した。ストロベリーバンケの名はヨーロッパからの入植当時には川の土手(Banke)に野イチゴが群生していたことに由来する。
4万平方kmの屋外エリアで17世紀から19世紀の移民の生活文化や歴史的な建物を復元した生きた歴史博物館だ。屋内の家財道具もじっくり見たが素材は質実剛健ながらもデザインは格調高く困難な生活の中にも様式を重んじたイギリス開拓民のプライドが偲ばれる。
当地の名は日本ではポーツマス条約で知られている。日本とロシアは1900年に日露戦争に突入、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの調停で1905年9月5日、当地ポーツマス海軍造船所で停戦の興和条約を締結した。

ハートフォード

「トム・ソーヤの冒険」、マーク・トウェイン晩年の住まい

ハートフォードはアメリカ北東部、コネチカット州の州都で面積は47平方km(18平方マイル)、標高は18m。1614年にインディアンが居住する当地にオランダ人が入植、砦を築きニューネーデルランドに属するオランダ領となった。
コネチカット川沿いのハートフォードはオランダ本国との貿易拠点となった。しかし1630年代に入りイギリス人が進出、結局オランダは1654年には砦から撤退した。
コネチカットの州名は「quinatucquet、長い川に沿った」を意味するインディアン(アルゴキン語)の言葉。長い川とはカナダ、ケベック州を上流とし大西洋岸に流れるコネチカット川をさす。
現代のハートフォードは保険会社の町として知られている。人口12万足らずの小さな町に30社以上の保険企業が本社を構える。
町の中心部にあるマーク・トウェイン(1835-1910)の旧邸宅を視察した(写真1-3)。トウェインは19世紀末から20世紀初頭におけるアメリカ最高の文筆家と称えられている。子供の頃を過ごし「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」の舞台となったミズーリ州時代の様子はハンニバルの頁に記した。
南北戦争に従軍後、サンフランシスコで新聞記者となり1870年に結婚、翌年ハートフォードに移り住み作家活動に専念し数々の名作を発表。大人気作家となったマーク・トウェインは1873年にニューヨークの建築家エドワード・ポッターに依頼し当地1万4千平米の広大な庭に個性的な構えの邸宅を建設した。
しかし浪費に加えて投資の失敗などが重なり1894年、58歳であえなく破産。その後、文筆業に精を出し3年間で借金を完済、再び裕福な暮らしを復活させ1910年に74歳で死去と記録にある。トウェインは超一級の作家だったと伝えられているが報酬も破格だったのだろう。

ストウ

「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ家ロッジ

ストウはアメリカ北東部、ニューイングランド地方内陸部バーモント州にあり、なだらかな丘陵が連続する草原と森林に囲まれた緑深い町。面積は188平方km(73平方マイル)、標高は295m。
西のマンスフィールド山、東側のパットナム州立森林公園に挟まれたバレー地帯で、町の中心をリトルリバーが流れる。トラップファミリーにとって故郷オーストリア・ザルツブルグに似ていた気候風土だったのかも知れない。第二次世界大戦さなかの1941年、彼らはアメリアへの亡命を決意、無事東海岸にたどり着きトラップファミリー合唱団として生計を立て、そしてストウの小高い丘にある農場を購入した。
トラップ大佐と7人の子供、修道女マリアが祖国を脱出しアルプスを越えて逃れる映画シーンはあまりにも有名。1959年に初演されたミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」を原作として1965年には映画化され世界的なヒット作となった。「ドレミの歌」、「エーデルワイス」はじめ音楽は「王様と私」などで知られるミュージカルの巨匠、オスカー・ハマースタイン2世が作詞し、リチャード・ロジャースが作曲した。
一躍有名になった家族は1968年にストウの農場のなかにロッジを建設、敷地は9.7平方km(300万坪)に及ぶ。映画「サウンド・オブ・ミュージック」でジュリー・アンドリュースが演じたマリアの三男ヨハネスが現在このロッジを経営している(写真1-6)。
ロッジには3泊の滞在だったがとても快適、正直なところ1か月くらい滞在したいと思った。ダイニングも素晴らしい。オーストリア料理の子牛のカツレツ、ヴィエーナ・シュニッツエル(WienerSchnitel)、デザートのザッハトルテ(Sacher Torte)も抜群だった。とくにロッジの正面玄関あたりに清々しい気力が満ちていて、この場所がパワースポットではないだろうか。トラップ大佐とマリアの眼力はさすがである。

キャッツキル

森と渓谷のニューヨークリゾート

キャッツキルはアメリカ北東部、ニューヨーク州南部にありステートパークの面積は2800平方km(1081平方マイル)、最高標高はスライド山の1274m。
マンハッタンから北に90マイル、東京に例えるなら都心から高尾山の距離感。大都会から2時間ほどの距離だが緑は深く、標高が高いせいもあり真夏でも夜になると肌寒かった。
ニューヨーク州はエリー族、デラウェア族など多くの狩猟系インディアンが住む土地だった。16世紀以降、農耕系のイロコイ族やタスカローラ族がノースカロライナ州から流れ込み、これにニューヨーク州の領土化を狙うヨーロッパ勢が加わり土地の所有権をめぐる争いが頻発した。
インディアンは言語も文化もそれぞれに異なり民族ごとの独立心がひじょうに高く、複数の部族が結束して白人に立ち向かうという発想はなかったようだ。入植者による侵略が繰り広げられるさなかに先住民族それぞれが個々に戦うという状況だった。
キャッツキル山地の先住民はモヒカン族である。髪の真ん中を残して両サイドを剃り上げるヘアスタイルで知られるが17世紀に衰退したといわれている。オランダのニューヨーク侵攻のころと重なるがモホーク族との戦いで敗れたというのがモヒカン族凋落の真相である。
ロバート・B・パーカー(Robert Brown Parker)の探偵小説「キャッツキルの鷲(A Catskill Eagle)」は当地が舞台だった。タフでロマンチックなスペンサー、料理がヘタな女医スーザン、ジャガーに乗る格闘家ホーク、拳銃使いヴィニー・モリス、クワーク警部補、フランク・ベルソン巡査部長、ギャングのトニー・マーカス、リタ・フィオーレ弁護士などなど、クセの強い人物満載のスペンサーシリーズは全部で多分40冊くらいだろうか。長年の愛読書としてアメリカを旅行する時には1冊を選んでじっくり読み直すことを楽しみにしている。

アケーディア国立公園

アメリカンロブスターの一大産地

アケーディア国立公園はアメリカ北東部、ニューイングランド地方6州における唯一の国立公園。マウントデザート島を中心に南西の小島アイル・オ・オ、ベイカーアイランド及び本土スクーディック半島の一部が対象で面積は198平方km(76平方マイル)、1919年に国立公園に指定された。
岩場の斜面や点在する小さな島々の風景はたしかにアメリカでは珍しいが、どちらかというと瀬戸内海の眺めにも似ていて日本人として正直に表現すればそれほど凄いとは思わない。急傾斜の岩場風景も海から一気に800mも駆け上る小豆島にある寒霞渓の絶景には到底及ばない。大地の基盤が花崗岩であるという点でも小豆島と同じ。
メイン州沿岸にあるマチャイアスシール島と周辺海域の領有権でカナダとアメリカは紛争中だという。国土面積世界2位と3位の大国が何故こんな小島にこだわるのかと不思議に思うが縄張りの問題はいつの時代も厄介なのだ。
公園内にはロッジはなく僕たち夫婦は島の北東部にある海岸沿いのバー・ハーバーイン(Bar Harbor Inn)に宿泊した(写真4)。外観は素朴な造りに見えるが実は歴史あるホテルで19世紀末から20世紀前半におけるニューイングランド地方の社交の場として栄えたという。テラスから大西洋が望める部屋はとても雰囲気がよい。
やや気取り過ぎにも思えるダイニングの主役は当然の如く当地名産のロブスター。オマール海老とも呼ばれる高級食材でメイン州の漁獲が90%近くを占める。ちなみにロブスターは不老不死、寿命が無い生き物といわれている。実際にはそんなことはないと思うが2009年に捕獲されたロブスターは体重9㎏で推定年齢は140歳。何事もなければ100年くらいは平気で生きるそうだ。
シーフードのバリエーションが少ないからだろうか、アメリカ人はロブスターを飛び切り珍重するが僕にはその価値があまりわからない。メイン州滞在中は結果的に毎日毎日ロブスターを食べることになったが2日目には少し飽きてきて3日目以降は食欲も落ちてくる。茹でたロブスターに溶かしバター。料理方法がどの店に行ってもだいたいワンパターンなのだ。
例えていえば日本の伊勢海老は刺身、蒸し、焼きから始まり唐揚げ、揚げ出し、鬼殻、具足煮、真丈、味噌汁などなどバラエティが豊富。ベイシックを大切にするアメリカ人気質は尊敬しているがロブスター料理にはもうちょっと変化が欲しい。