レキシントン

ケンタッキー・ブルーグラスカントリー

レキシントンはアメリカ南東部、ケンタッキー州中北部にあり面積は737平方km(286平方マイル)で標高は298m。
レキシントンはフェイエット、フランクリン、ブルボンなど15の郡からなる広大なブルーグラス牧草地帯の中心地であり、ケンタッキーダービーをはじめ国際級のサラブレッド競走馬を生み出してきた土地柄でもある。
3億年前、当地は海だったという。その名残の貝やサンゴ礁の影響でレキシントン周辺の土壌はカルシウム分に富み、その土が栄養価の高い牧草を育て、連続するゆるやかな丘陵と相俟って頑丈な馬が育ってきた。
西から東に向けフランクフォートとレキシントンの間の17マイルのオールドフランクフォート・パイク(Old Frankfort Pike)と14マイルのパリス・パイク(Paris Pike)を走行した。景観道路、ケンタッキー・シニック・バイウェイ(Kentucky Scenic Byway)である。輝くようなブルーグラスが広がる牧草地帯にサラブレッドの姿が映える。ケンタッキーを象徴する何とも素晴らしい風景だ。
ケンタッキーの呼び方はインディアンに由来する。紀元前から当地に住んでいたイロコイ(Iroquois)族の言葉「草原の地」が州名になったといわれている。イロコイ族は数あるインディアン部族のなかでも異色である。
数百あったアメリカ先住民、インディアン部族はそれぞれに自尊心と独立性が強く17世紀以降にヨーロッパ人から攻撃を受けているさなかにも部族間同士で抗争を繰り返していた。しかしイロコイ族は18世紀前半にすでに他の部族や一部のヨーロッパ諸国と同盟を結ぶなど多くのインディアンのなかでは特異な存在だった。現在はニューヨーク州北部とカナダに跨る地でイロコイ連邦(Iroquois Confederacy)として存在する正式な国家である。
イロコイはオノンダーガ族、カユーガ族、オナイダ族、モホーク族、セネカ族、タスカローラ族の6部族により構成される先住民連合であるためシックスネーションズ(Six Nations)とも称される。当地以外に住むイロコイ族も含めた総人口は約125000人、1997年に正式に発行されたパスポートは世界各国でおおむね受け入れられている。
余談になるがサウスダコタ州に住むスー族(Sioux)もアメリカからの独立を模索しているが彼らの聖地ブラックヒルズの領有権を巡りアメリカ政府と対立を続けている。このことはブラックヒルズの頁に詳しく記す。

レイクパウエル

映画「猿の惑星」の撮影地

レイクパウエルはアメリカ西部、ユタ州キャニオンランズ国立公園からアリゾナ州グランドキャニオン国立公園に連なる大峡谷とコロラド川が一体となって堰き止められた中間地点にある。最大標高は1140m。
地図で見るレイクパウエルはコロラドの川幅が突然広くなった地域のように見えるが、実際の感覚では琵琶湖に匹敵する巨大な湖。全長は300Km、湖の周囲3000kmととても大きい。
レイクパウエルの名称は、1869年にコロラド川流域を調査したジョン・ウェズリー・パウエル(John Wesley Powell)から付けられた。
ゲートシティはアリゾナとユタ州の州境にあるページ(Page)。1957年のグレンキャニオンダムとグレンキャニオン橋の建設に伴いできた町である。
僕たち夫婦はページにある湖に面したワーウィーブ・ロッジ(Wahweap Lodge)に宿泊したが設備、ロケーションともに中々快適。ロッジと一体となったマリーナから出るクルーズ船でレイクパウエルを周遊したが、コロラド川を下ってきたロッキー山脈の雪解け水は冷たく清廉、空気は澄み、朝夕には赤茶から紫、ブルーに変幻するロックマウンテンの風景も素晴らしい。
一帯はレインボーブリッジ国立モニュメント、アンテロープキャニオンと合わせてグレンキャニオン国立レクレーションエリアに指定されている。レインボーブリッジの周辺は先住民ナバホ族の居留地(Indian Reservations)である。
ワーウィーブ・マリーナ(Wahweap Marina)から片道2時間、湖を横断して近くまで行き、1マイルほどのトレイルを歩いて到着。アーチ状の岩石はユタ州には数千以上あるが、レインボーブリッジは高さ87mで世界最大。
古来より先住民の宗教信仰の聖地として崇められてきたパワースポットの地であり、興味本位の撮影や観光気分でがやがやとはしゃぐことは慎まなければならない。これは日本の寺社、仏閣などでも同じこと。レインボーブリッジをくぐることは禁止されている。

ラファイエット

南部美食文化の町

ラファイエットはアメリカ南東部、ルイジアナ州南部にあり面積は127平方km(49平方マイル)、標高は11m。
アカディアナ文化が色濃く残る美しい町、美食の町としても知られていて僕たちはブルードッグカフェで食事をした(写真5)。世界的に有名なアーティスト、ジョージ・ロドリゲの作品が100点以上も展示されていて圧巻。ケイジャン料理のレベルも高くて満足だった。
ロドリゲは1944年、当地近くのニューアイベリア生まれ、2013年没。終生「青い犬」を描き続けた。
ロドリゲの生地ニューアイベリア郊外にタバスコ(TABASCO)の製造工場がある。1868年に当地に移住してきた銀行家で美食家のエドモンド・マキレニー(Edmund Mcilhenny)という人物がタバスコペッパーの栽培を開始、TABASCOというユニークな食品を考案し製法特許を取得、現在のマキレニー社 (Mc. ILHENNY CO.)の創業に至る。
蒸留酢と当地原産の岩塩を混ぜ樫の樽で3年間熟成させるというアメリカでは珍しい発酵食品なのだ。世界170か国に輸出されるほど有名になったタバスコ。日本ではアントニオ猪木が経営するアントントレーディング社が1970年に販売契約を結び、一般に普及した。
日本ではピザにタバスコをかける人が多いがイタリアでは珍しい。メキシコの覆面プロレスラー、ミル・マスカラスは鮨を食べる時は醤油の代わりにタバスコを使うそうだ。どう食べようと勝手だが、このタバスコを開発した美食家マキレニーは大好物の生牡蠣の味付けとして考案した。
最初は牡蠣用ソースとして当地に原生していた唐辛子と岩塩を混ぜて食べていたが、それを発酵させると風味が増すことに気が付いたという。いずれにしてもタバスコがまさか世界中に普及するとはマキレニーも考えていなかったようだ。
個性的な風味はもちろんだが象徴的な瓶のデザインがこのブランドの発展に大いに貢献している。容器は発足当初から受け継がれているというから創始者マキレニーのデザインセンスは相当なものだ。煉瓦造りの本社建物も風格があって美しい(写真3-4)。
このマキレニー社はバイユーと呼ばれるワニが生息する湿原と森が交錯する真ん中にあってナビがなければ到底辿りつけない。それでも工場が近づくにつれタバスコ独特の香りが目と鼻を刺激する。
僕たちはまず製造工程を見学しそれからタバスコストアへ向かった。定番の赤いタバスコだけでなくハバロネ、更にはハラペーニョを使った緑色のタバスコなど種類も多い。瓶のサイズもバリエーション豊かで巨大なガロン瓶のタバスコには驚いた。1ガロンは3.8L、日本酒の一升瓶の2倍以上の大きさで価格は40ドルと超お買い得だったがもちろん買わなかった。

ラジタス

蘇ったゴーストタウン

ラジタスはアメリカ南東部、テキサス州ブリュースター・カウンティーに属し、当地北にはビッグベンド・ランチ州立公園、南にはビッグベンド国立公園があり、リオグランデ川を挟み南側はメキシコのチワワ州となっている。
当地は数千年に渡り古代人チソス・インディアンが住むメキシコの領土だったが、その後メスカレロ・アパッチ族、18世紀以降はコマンチェ族が居住した。米墨戦争(Mexican-American War)終結4年後の1852年、陸軍将校ウイリアム・エモリー(William H Emory)が当地を調査し、その後のヨーロッパ入植者の進出により当地の先住民インディアンはほぼ壊滅した。
チソス山脈には水銀の鉱脈があり1890年頃からラジタス周辺で採鉱がはじまり多くの人が集まり活況を呈した。といっても15軒の店が開業し、居住者は50人という程度だった。1901年には郵便局も開設され大きな町へと発展する兆しが見えたが、水銀採掘の斜陽化と共に鉱山は1939年に閉鎖され、以降ラジタスは人が住まないゴーストタウンとなった。
人の気配が消えて50年以上たった1995年、ラジタスはジェームス・ガーナー主演のTV西部劇「荒野の追跡者・ラレード通り(Street of Laredo)」の撮影地で話題となり、またラジタス周辺は鉱泉地であることからスパリゾートの可能性も見いだされたこともあり近年になって急速に観光地として取り上げられだした。
加えてラジタスの周辺から恐竜の化石が大量に出土し恐竜の博物館創設の計画もあるらしい。とはいえ今のところ当地に積極的に訪れる人は少ないようだ。何しろテキサス州の中心地ダラスから車で11時間かかるという度を越した辺鄙な土地。草原と牛、それ以外見当たらない。
長時間のドライブで疲れ果てた僕たち夫婦はホテルにチェックインしたその足で併設の食堂へ。西部劇で見るのとほとんど同じタイプの木造の2階建て。バーと食堂の中間型。
テキサスの流儀に倣いステーキとバーボンを注文した。ホテルダイニングというよりカウボーイのたまり場だ。滅多によそ者が来ないのだろう、じっとこちらを観察する視線。これくらいでビビってたんじゃアメリカ奥地の旅はできないのだ。
ホテルの部屋やバーは映画で見る西部開拓時代のムード満載だったと思うが、それほど楽しめた感じはしなかったし、よくは思い出せない。それなりに緊張した旅となった。

モニュメントバレー

1万年の歴史をもつ先住民の聖地

モニュメントバレーはアメリカ西部ユタ、アメリカ南西部アリゾナ州に跨るおおよそ70000平方Km(2700平方マイル)に及ぶ広大な地域。
迫力溢れる景観、歴史的価値からいえば文句なしにアメリカ国立公園のレベルにあるが、当地はアメリカ政府の管轄外でナバホ族の居留地(Indian Reservations)なので、正式名称はMonument Valley Navajo Tribal Park。モニュメントバレー・ナバホ族立公園である。
当地では新石器時代にすでに人類の歴史があり紀元前にはアナサジが住み、その後パイユートの土地となり19世紀からナバホが居住するようになった。モニュメントバレーがあるユタ、コロラド、ニューメキシコ、アリゾナの4州が交わるフォーコーナーズ周辺は国立公園が集中するアメリカでもっとも魅力的な自然景観を有する地域であり、多くの先住民が住んでいた。
地殻変動により隆起した台地をメサ(Mesa)といい、ひび割れが雨や風で次第に広がり峡谷(Canyon)となる。削られた峡谷は数百万年を経てロックマウンテンの風景になり、さらに浸食が進んだ残丘部をビュート(Butte)という。現在のモニュメントバレーの平地部はかつての谷底。盛り上がった山のように見えるビュートの頂上部は浸食を逃れた台地、メサだったのだ。
僕たちはケイエンタを経てモニュメントバレーに入った。突然現れるビュートの迫力、大平原のスケールに圧倒される。しかしこのダイナミックな景観はどことなく見なれた感、既視感をともなう。よく考えてみると子供のころから何度も見てきた典型的な西部劇のビジュアルなのだ。現実離れしすぎてあまりにも映画的ともいえる。
モニュメントバレーの風景は「駅馬車」、「黄色いリボン」、「アパッチ砦」などジョン・フォード監督が好んで使ったロケ場所でもある。このロックマウンテンの全体を見渡せる場所は現在John Ford’s Pointと呼ばれている。
この大自然のその後の映画への登場は「2001年宇宙の旅」、「イージー・ライダー」、「Back to The Future」などなど、数えればきりがない。モニュメントバレーの風景に見なれた感を持つ人々は世界中に増え続けているのだ。

モービル

映画「フォレスト・ガンプ」の舞台

モービルはアメリカ南東部、アラバマ州の南端、メキシコ湾岸に位置し面積は413平方km(159平方マイル)。
樫の巨木が道路を覆う。「フォレスト・ガンプ」でトム・ハンクス親子が住む大きな家の庭にも、たしか大きな樫の木があった。まさにディープサウス。1995年公開でアカデミー作品賞を獲得、世界的なヒットとなった。ちなみに冒頭の羽が舞うシーンは東隣の州、ジョージアのサバンナで撮影された。
1702年にヨーロッパ人がオールドモービルに入植した当時、このあたりはチェロキー、アラバマ、チカソー、チョクトー、クリーク、コアサティ、モービルなど多くのインディアン部族の居住地だった。
1830年にアメリカ政府はインディアン移住法を発令、当地を追われたチェロキー族がオクラホマへ向かうその道は「涙のトレイル(Trail of Tears)」として歴史に残る。インディアンが去ったその土地にアフリカから奴隷を導入し、アラバマは綿花の巨大生産地として発展を遂げた。
僕たち夫婦がモービルを訪れたのはクリスマス・イブの夜。あまり深く考えずに、ウキウキした気分で当地で一番という伝統あるレストランに食事に出掛けた時のことは今でも忘れられない。19世紀以来、連綿と白人の支配者階級を顧客としてきたのだろう。客のすべてが白人。おそらく日本人の来店ははじめてなのだろう、どう待遇してよいかわからないのだ。僕たちが店に入っていった途端に支配人の顔色と店内の空気が一変したことを覚えている。
快適とはゆかなかったが、まずまずのサービスを得て食事は出来たが、支配人はもちろんヨーロッパ系白人、注文の係はヒスパニック系、片付けは黒人というまるで映画のなかのワンシーンのようでもあった。
奴隷解放宣言から150年、しかし身分制度の名残は今なお生きていて、それはアメリカ南部、奥地に行けばゆくほど重苦しく生々しいものだった。

マンチェスタービレッジ

バーモントのメープル街道

マンチェスタービレッジはアメリカ北東部、ニューイングランド地方バーモント州南部にあり面積は109平方km(42平方マイル)、標高は281m。東にグリーンマウンテン国立森林公園、西にタコニックマウンテンに囲まれた静かで美しいリゾート地。
バーモント州はかつてアベキナ族、モヒカン族やイロコイ族などインディアンが住む土地だった。17世紀に入るとフランス人による植民地化が進み、その後フランス領カナダ、1763年にイギリス支配化となった。1777年に反乱が勃発しバーモント共和国として独立を宣言したが、結局1791年にアメリカに併合された。
ニューヨークから車で当地に向かった。ハドソン川に沿ってくねくねと北に。ニューヨークの州都オルバニーまでトータル6時間。ニューヨーク州はカナダのオンタリオ州、ケベック州と国境を接するところまで北に大きく広がっている。エリー湖、オンタリオ湖もニューヨークなのだ。
オルバニーからマンチェスタービレッジまでは更に2時間、思いのほか時間がかかった。アメリカ北東部は西部とは違い大平原や砂漠をを地平線までまっしぐらという訳にはゆかない。日本の道路事情と一緒で渋滞もあるし料金所も多い。
僕たち夫婦は町から少し離れたタコニックホテル(Taconic Hotel、写真1-2)に宿泊した。雰囲気のある部屋に加えて洗練されたダイニングも素晴らしい。ニューイングランド地方特有の深みのあるメープルの森に囲まれた静かな場所だ。
メープルの日本名はサトウカエデ。その名の通り煮詰めた樹液は甘く香りもよい。メープルシロップはカナダのケベック産が知られているがアメリカでは当地バーモント州が最大生産地となっている。バーモント州のもうひとつの特産品はリンゴ。かつて西城秀樹が歌ったリンゴとハチミツで有名な「ハウスバーモントカレー」はバーモント州では全然知られていない。


マッキニー

過去と未来が共存する町

マッキニーはアメリカ南西部、テキサス州北部に位置し、面積は152平方km(63平方マイル)。1836年にテキサス共和国として独立国家となった当地は1845年にアメリカに併合、1849年にマッキニーの町が創設された。当地の名称はテキサス独立宣言を起草したコリン・マッキニーに因み命名された。
アメリカ4大メディアのひとつであるCNNマネー誌(CNN Money Magazine)では毎年アメリカで「もっとも住みやすい町(Best Place to Live in America)」を発表している。マッキニーは2010年に5位、2012年に2位そして2014年にはついに1位となった。アメリカには2万の自治体(市町村)があり、そのトップなので価値はひじょうに高い。
1849年にたった35人でスタートした町は約100年を経た1952年に人口1万人を超過、2014年には14万人に達した。アメリカのすべての町のなかで人口急増率ベスト5にランクされたこともあるという驚異的な成長を続ける町なのである。
優れた安全性、社会保険制度、税制、教育環境は当然のこと、マッキニーには風力や太陽光を使ったグリーンエネルギーの開発、雨水の再利用、廃油暖房など持続可能な社会を実現するためのシステムがあり、行政当局による先進的な町づくりが当地の価値を高めていることは間違いない。
一方、旧市街では古い建物はひじょうにたいせつに保護され修復して再利用されている。両極のバランスが素晴らしい。僕たちは旧裁判所周辺の歴史的な町並みをゆっくりと散策した。アンティークストアやレストランが立ち並ぶ景観はとりわけ19世紀末の古き良き時代のテキサスを彷彿とさせ、とても魅力的だ。
未来と過去がバランス良く共存する町。こういう町に住んでいる人はさぞかし快適だろうと思う。


ポートイザベル

幻のネコ、野生オセロットの棲家

ポートイザベルはメキシコと国境を接するアメリカ南西部、テキサス州最南端の小さな港町。面積は8平方km(3平方マイル)。当地はメキシコ革命後にアメリカ領となり18世紀から19世紀にかけて綿花積み出し港として活況を呈した。
メキシコ湾を望み、きりっと立つ灯台に僅かに往時の繁栄が偲ばれる(写真1)。イザベル灯台は1852年創設、南北戦争後の修復を経て長らく稼働したが1905年に消灯。1976年にテキサス州歴史遺跡に指定された。
ポートイザベルはパドレ島のゲートシティでもある。海岸線と並行して南北数百マイル、幅がたった2マイルという驚異的に細長い島で、その南端のサウスパドレアイランドはテキサス州を代表するビーチリゾート、別荘地として知られている。
僕たち夫婦は当地に4泊の予定で出かけたが延々と続くビーチはたしかに素晴らしいが、施設やレストランはどこも少し寂れた感があって期待外れというのが正直な感想。
ポートイザベルの北側がラグナ・アタスコサ野生動物保護区となっていて毎年11月には25万羽もの水鳥が訪れる。特記すべきは当地海岸沿いに棲む幻の野生ネコ「オセロット」(Ocelot、学名Leopardus Pardalis)の存在。抜群のスタイルとゴージャスな毛並みを持つオセロットの美しさはアメリカではネコ科最高と称賛されている。
ちなみにアメリカネコの代表格アメリカンショートヘアは先住民オセロットとは違いいわゆる入植者。イギリスから新天地を目指し1621年にマサチューセッツに着いたメイフラワー号に乗っていたネコの子孫であるとされている。オセロットに似たネコを作り出そうと交配されたのがオシキャット(Ocicat)。しかしオセロットの血は入っておらずアビシニアン、シャム、アメリカンショートヘアの混血だそうだ。
ともかくぱっちりとした丸く大きな目。梅花紋といわれる野生的な黒い斑点。負けん気の強そうなオセロットの可愛さはネコ好きにはたまらない。優美な毛皮がきわめて高額で取引され個体数が激減、現在は絶滅危惧種に指定されている。
ポートイザベルでは野生12匹が確認されていて、アメリカ全体の推定個体数は50匹。人になつきやすことでも知られていて野生以外に数十匹の飼育オセロットがいるという。海岸近くをウロウロしたが遭遇未体験、映像でしか見たことがない。

ポーツマス

川沿いの土手に野イチゴが実る

ポーツマスはアメリカ北東部、ニューイングランド地方ニューハンプシャー州の大西洋沿岸にある町で面積は44平方km(17平方マイル)。1603年にイギリスのブリストル出身の軍人マーティン・プリング(Martin Pring)が当地を探索。その後イギリス人によって開発され1653年にポーツマスの町となった。
当時、イギリスからの入植者の生活は苦難を極めとくに厳寒の季節には多くの死者を出した。ポーツマスにはワンパノアグ族、イロコイ族など多数のインディアン部族が住み、彼らは入植者に食料を提供しまた当地に合った農法を教えた。
収穫期の秋にイギリス人入植者たちが共同でインディアンを招き感謝の意を伝えたのがサンクスギビングデイの起源になったと伝えられている。11月の第3木曜日がアメリカ国民の祝日。翌日の金曜がいわゆるブラックフライデーで年末商戦の始まりの日となる。
初期には友好的だった入植者とインディアンの関係は次第に悪化する。急増したヨーロッパ人はインディアンに土地の提供を強要、争いが頻発する。1675年に起きたインディアン戦争(フィリップ王戦争、King Philip’s War)は凄惨を極め、4千人のインディアンが戦死したと記録されている。
僕たちは町の南側、ピスカタクア川河口近くにあるストロベリーバンケ・ミュージアム(Strawberry Banke Museum)を見学した。ストロベリーバンケの名はヨーロッパからの入植当時には川の土手(Banke)に野イチゴが群生していたことに由来する。
4万平方kmの屋外エリアで17世紀から19世紀の移民の生活文化や歴史的な建物を復元した生きた歴史博物館だ。屋内の家財道具もじっくり見たが素材は質実剛健ながらもデザインは格調高く困難な生活の中にも様式を重んじたイギリス開拓民のプライドが偲ばれる。
当地の名は日本ではポーツマス条約で知られている。日本とロシアは1900年に日露戦争に突入、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの調停で1905年9月5日、当地ポーツマス海軍造船所で停戦の興和条約を締結した。

フォートワース

カウボーイ発祥の地

フォートワースはアメリカ南東部、テキサス州の北東部にあり、面積は774平方km(299平方マイル)、標高237m。
19世紀、カウボーイの町として知られた当地には各地から牛が集まり取引された。当時の面影を残すストックヤード国立歴史地区はダウンタウンから5マイルほど北にある。ストックヤードの家畜取引は1876年の鉄道開通をきっかけに大発展。しかし20世紀に入り自動車の出現に伴いアメリカの物流政策は転換し当地は衰退する。
鉄道登場から100年後の1976年に当地の由緒ある建物が復元され国立歴史地区に制定された。当地区の最大の見ものはテキサス人が誇るロングホーンの行進、キャトルドライブだ(写真4)。
乗馬したカウボーイたちが数千頭のロングホーンを伴い東に向かう旅を昔はCattle Driveと呼んだ。ロングホーンは長旅に耐える強靭な体力を持つ牛なのだ。
テキサス出身のプロレスラー、スタン・ハンセンが右手で角の形にする決めポーズもロングホーン。Stockyards Station、Cowtown Coliseum、Texas Cowboy Hall of Fameなど当地区には歴史的な建物も多くある。
19世紀の町並みの中、直感頼りでステーキハウスに入った。店名はキャトルメンズ(Cattle Men’s、写真1)。年季の入ったオーク材の内装でちょっと格式が高そうだ。まずはガラスケースにずらっと展示してあるステーキ肉を観察する。
かなり悩みつつ選んだのは定番のポーターハウスではなくニューヨークストリップ。サーロインより脂はさらに多めで少しだけ硬めの肉質。もちろん数週間寝かせたドライエイジド・ビーフだ。結果は大当たり、炭火で表面だけを焦がすように焼くアメリカにはよくある香ばしいタイプのステーキだが肉質が抜群。
元々アメリカのステーキレベルはひじょうに高い。今まではニューヨークのピータールーガー(Peter Luger)、ちょっと落ちてウルフガング(Wolfgang’s)、ベンジャミン(Benjamin)あたりが最高ランクと思っていたが、さすがにCowtownフォートワース、本場の味と雰囲気に大満足した。

ヒルカントリー

野草の楽園、テキサス最高のワイナリー

ヒルカントリーはアメリカ南東部、テキサス中央部に広がる美しい丘陵地帯。春にはブルーボネットが咲き乱れ、秋には葡萄がたわわに実る。北アメリカ大陸の中央部を細長く縦断するグレートプレーンズの南端部にあたり面積は36300平方km(14000平方マイル)、最大標高は750m。
グレートプレーンズはロッキー山脈から流れる河川により形成された堆積平野地帯で砂質及び石灰質土壌は大草原の自然景観をつくる。
テキサスの抜けの良い風景のなか真っすぐの道路を走る爽快感は格別。とにかく広い。テキサスの1州だけで日本全土とほぼ同じ面積がある。
事実アメリカに併合される前のテキサスはテキサス共和国(Republic of Texas)として独立国だった。町の各所で見られる旗は星条旗ではなくローンスター(Lone Star)と呼ばれる星がひとつのテキサス州旗。他の州とは一味違った独自の文化性とプライドの高さを醸し出している土地柄である。
ヒルカントリーの中心地がフレデリックスバーグ(Frederickburg)。その名からも窺える通りドイツ人入植者により19世紀半ばに創設された、まさにドイツ的な町である。フレデリックス(フリードリヒ大王)は18世紀のプロイセンの専制君主。
町なかのレストランにもドイツの伝統が感じられる。ビール醸造所とパブが一体化したビアレストランが多くあり楽しい。ビールでソーセージと子牛のカツレツを食べるのが定番。メインストリートにあるSilver Creekには2度、Crossroad Salon & Steak Houseにも行ったが、どちらにも大満足、味、雰囲気共にひじょうに高レベルだった。
当地にはワイン醸造所も多くあり、ちなみにテキサスはカリフォルニア、オレゴン、ワシントン、ニューヨークに次ぐ5番手のワイン生産州でもある。郊外のいくつかのワイナリーを巡ったが、ベッカーヴィンヤード(Becker Vineyards)が当地では一級品のようだ。

ハンニバル

「トム・ソーヤの冒険」の作者マーク・トウェインの故郷

ハンニバルはアメリカ南東部、ミズーリ州北東部に位置し、面積は42平方km(16平方マイル)。アメリカを南北に縦断するミシシッピ川に面した当地はかつてニューオーリンズやセントルイスとの海上交易で賑わった。
その繁栄の時代にこの地で少年時代を過ごしたマーク・トウェイン。彼はハンニバルを舞台に町で出会った人々やさまざまな出来事を「トム・ソーヤの冒険」、「ハックルベリー・フィンの冒険」をはじめとした数々の冒険小説のなかに生き生きと描いた。
「ベッキー・サッチャーの家」は「トム・ソーヤの冒険」の主人公ベッキーの住居で彼女はマーク・トウェイン初恋の人(写真6)。Mark Twain’s Boyhood Homeにはトムがポリーおばさんに叱られてペンキ塗りをさせられた板塀が今もある(写真4)。
町なかはどこに行ってもマーク・トウェイン一色、蒸気船が往来する19世紀末のミシシッピ河畔の美しい小さな商業港の雰囲気が今も残されている。船運の衰退がその後の町の開発をピッタリ止めてしまったことがかえって幸いしたのだ。
マーク・トウェインは19世紀末から20世紀初頭における最高ランクの文筆家と評され、フィクション、ノンフィクションから歴史小説、紀行文学、文芸評論までこなし、1910年に74歳で死去。
文豪アーネスト・ヘミングウェイは、「あらゆるアメリカ現代文学はマーク・トウェインのハックルベリー・フィンに由来する」と賛辞を送った。トウェインが晩年に移り住んだ東部コネチカット州の旧邸宅も見学したが、そのことはハートフォードの頁に記す。
気に入って二日連続で訪ねた町中にあるトスカーナレストランThe Brick Ovenの料理には正直いって驚いた(写真2)。ニューヨークのミートパッキングあたりにありそうなカジュアルかつ都会的で行き届いたお店。南部の田舎町らしくない雰囲気に少し不思議な感じがしたが、よく考えてみれば当地は瀟洒な暮らしぶりで知られたマーク・トウェインを生んだ町。かつての洗練と賑わいの面影はしっかりと食文化に生きていた。

バトンルージュ

19世紀の南部繁栄を物語るプランテーション

バトンルージュはアメリカ南東部、ルイジアナ州の南東部にあり面積は205平方km(79平方マイル)、標高21m。1699年、インディアンが住む当地にフランス人が入植し町の開発が始まった。バトンルージュはフランス語で「赤い杖」の意味。
1803年アメリカはバトンルージュを含むルイジアナ全域をフランスから1500万ドルで買収した。当時のフランス領ルイジアナとは現在のアメリカの真ん中を縦断するミシシッピ川流域の15州。現在の感覚では到底想像もつかないがフランス皇帝ナポレオンはアメリカ15州の売却益をイギリスとの戦費にあてた。
アメリカ領となったバトンルージュは1849年にルイジアナ州の州都となり町の発展がはじまった。19世紀に建造されたゴシック・リバイバル様式の旧州会議事堂(写真5)の1マイル北側に1932年に建設された高層の州会議事堂がそびえたつ(写真4)。
当地の南50マイルにあるオークアレイ・プランテーションを訪ねた。かつて栄えた大農園の邸宅跡だ。オークアレイとはフランス語で「樫の小路」の意味。何といっても樹齢300年以上という樫の大樹が見事だ(写真1)。
煉瓦と漆喰によるこのグリーク・リバイバル様式の邸宅は砂糖王と呼ばれたサトウキビ農園主バルカー・エメが1837年に建てた。設計はジョセフ・ピリ。所有者は時代ごとに変わり1925年には建築家リチャード・コッホにより大規模な修復が行われた。
いくらアメリカでもこれだけの歴史遺産を個人資産で維持してゆくのは難しいのだろう。最後の所有者ジョセフィン・スチュワートが土地と邸宅を寄付しオークアレイ財団となり、現在はアメリカ歴史的建造物(National Historic Landmark)に指定されている。
いくつかのプランテーションを見学したが一様に19世紀の南部貴族の驕りと奴隷史を物語る重々しい空気感が漂っていた。栄華を極めた大農園主は南北戦争を境に没落した。

パームスプリングス

砂漠のオアシス

パームスプリングスはアメリカ西海岸、カリフォルニア州にあり、面積は246平方km(95平方マイル)。東に3554mのサンジャシント山、北にリトルサンベルナルディノ山脈、南をサンタロサ山脈に囲まれた盆地。
アメリカ最高の晴天率と年間平均気温21度の気候。水源となる湖もあり、地理風水に恵まれた実に素晴らしい土地柄だ。
数千年に渡り、高峰サンジャシント山を信仰してきたインディアン、カウイヤ(Cahuilla)族は、その麓にあるパームスプリングスを聖地と考えていた。たしかに当地には人をリラックスさせる緩やかな雰囲気が漂っている。この心地よい空気感はかなり広範囲なものでパームスプリング市の東南のパームデザート、ラキンタ地区にまで及んでいる。
パームスプリングスは19世紀末から開発が進み、現在はゴルフリゾート、高級別荘地として人気が高い。夏は暑いが、湿度が低く爽やか。冬に日本から訪ねるバケーション用の避寒地としてはおそらくアメリカ本土ではもっとも安定して暖かいと思う。
僕はエレベーターを使うビルディング形式のリゾートは苦手。できれば平屋でベランダから出入りできるような施設に泊まりたいといつも思っている。
当地にはウェスティン・ミッションヒルズ(Westin Mission Hills Resort and Villas)やラキンタ(La Quinta Resort and Club)など低層のビラがたくさんある。前者は近代的でクリーン、後者は1926年創業の古い建物(写真2-3)。ラキンタはナチュラルな庭や建物だけでなくレストランのメニューも気に入っている。
なおパームスプリングスでは風力発電の風車が目立ち、こうした場所をウインドファーム(Wind Farm)と呼んでいる(写真4)。
アメリカは1980年代から風力発電に力を注いでいて、パームスプリングスはその代表格。世界の風力発電の総量は年間540ギガワット。中国は188ギガ、アメリカは89ギガ。日本とほぼ同じ面積のドイツの発電量が56ギガなのに対しわが国の3ギガはあまりにも寂しい数字。
SDGsが叫ばれる今日、風力発電に限らず太陽光、バイオマスなどグリーンエネルギー比を高める努力は先進国の義務であると思う。

ハーパスフェリー

南北戦争の激戦地

ハーパスフェリーはアメリカ南東部、ウエストバージニア州ジェファーソン郡にある歴史遺産の町、面積は1.6平方km(0.6平方マイル)、標高は149m。
1970年代の大ヒット曲、ウエストバージニアの州歌でもあるジョン・デンバーのカントリーロード(Take Me Home, Country Road) に当地から眺めるブルーリッジマウンテンやシェナンドーリバーの風景が歌われている。
大西洋チェサピーク湾に注ぐポトマック川とシェナンドー川が鋭角で合流する三角地帯の内側に位置し、ウエストバージニア、バージニア、メリーランドの3州の境界地域でもある。
1733年にポトマック川を越えて西側に渡るフェリーが建造され、バージニア州議会からその権利を取得したペンシルバニア州フィラデルフィア出身のロバート・ハーパー(Robert Harper)の名にちなんでハーパスフェリーと命名された。
植民地時代にはチェサピーク湾とオハイオ運河を結ぶ重要な河川交通を担い、19世紀に入りハーパスフェリーはポトマック鉄道の要衝となった。初代大統領となったジョージ・ワシントンは兵器の製造地を模索し、当地が工場地として決まり開発が進んだ。
1859年に奴隷の開放を主張するジョン・ブラウンがこの兵器工場を襲撃し、逮捕され即刻処刑となった。この事件が1861年にはじまった南北戦争の引き金になったと言われている。
南軍の最北端地としてハーパスフェリーは激戦地となり、1862年9月12日から3日間のハーパスフェリーの戦いは壮絶さを極めた。1944年に当地は戦争遺跡として国立歴史公園(Harpers Ferry Historical Park)に指定されている。
歴史公園には多くの観光客がいたが、いつもは明るいアメリカ人もさすがに神妙な面持ちだった。

ハートフォード

「トム・ソーヤの冒険」、マーク・トウェイン晩年の住まい

ハートフォードはアメリカ北東部、コネチカット州の州都で面積は47平方km(18平方マイル)、標高は18m。1614年にインディアンが居住する当地にオランダ人が入植、砦を築きニューネーデルランドに属するオランダ領となった。
コネチカット川沿いのハートフォードはオランダ本国との貿易拠点となった。しかし1630年代に入りイギリス人が進出、結局オランダは1654年には砦から撤退した。
コネチカットの州名は「quinatucquet、長い川に沿った」を意味するインディアン(アルゴキン語)の言葉。長い川とはカナダ、ケベック州を上流とし大西洋岸に流れるコネチカット川をさす。
現代のハートフォードは保険会社の町として知られている。人口12万足らずの小さな町に30社以上の保険企業が本社を構える。
町の中心部にあるマーク・トウェイン(1835-1910)の旧邸宅を視察した(写真1-3)。トウェインは19世紀末から20世紀初頭におけるアメリカ最高の文筆家と称えられている。子供の頃を過ごし「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」の舞台となったミズーリ州時代の様子はハンニバルの頁に記した。
南北戦争に従軍後、サンフランシスコで新聞記者となり1870年に結婚、翌年ハートフォードに移り住み作家活動に専念し数々の名作を発表。大人気作家となったマーク・トウェインは1873年にニューヨークの建築家エドワード・ポッターに依頼し当地1万4千平米の広大な庭に個性的な構えの邸宅を建設した。
しかし浪費に加えて投資の失敗などが重なり1894年、58歳であえなく破産。その後、文筆業に精を出し3年間で借金を完済、再び裕福な暮らしを復活させ1910年に74歳で死去と記録にある。トウェインは超一級の作家だったと伝えられているが報酬も破格だったのだろう。

バーズタウン

ケンタッキー・バーボントレイル

バーズタウンはアメリカ南東部、ケンタッキー州のほぼ真ん中、ネルソン郡にある町で面積19平方km(7平方マイル)、標高197m。町名の由来は1785年にバージニアから入植したデイビッド(David Bard)とウイリアム(William Bard)のバード兄弟による。
バーズタウンはバーボンウィスキーの町。バーボンの95%がケンタッキー州で生産されるという。スコッチは大麦が原料、バーボンはトウモロコシ、とにかく百聞は一見に如かず、僕たち夫婦はルイビルからからスタートしてバーズタウンを経てレキシントンに向かう100マイルの道のりを2日間で巡ることにした。ケンタッキー・バーボントレイルだ。
実際行ってみるとワイナリーとはだいぶ様子が異なる。ディスティラリーというのは全体的に男性的だと思った。広大な敷地に点在する施設は巨大なのでひとつの蒸留所を見学するだけで物凄い運動量になる。
ワイナリーはアメリカだけで1万か所あり、世界だと数10万に及ぶ少量多品種ビジネス。ひきかえバーボンはケンタッキー州のたった10数社で世界市場の95%を占めている。1か所から生産される量が全然違うのだ。
ヘブンヒルのテイスティング設備には感心した。グラスをぐるぐる回す優雅なワインとは流儀が違う。トランペットのような形のラッパが壁面に並んでいてスイッチを押すと液状のバーボンが顔に向けて噴出、全身全霊で香りを体感する何とも強引な仕掛けだ。ほとんどの人がスイッチを押すので、おかげで館内にはバーボン臭が立ち込めそれはそれで気分が上がる。
メーカーズマーク、フォアローゼズ、ジムビームなどそれぞれ見応えがあったが、何といってもワイルドターキーは素晴らしかった。ディスティラリーとしての設備も抜群なので見学をして回っていて快適だがミュージアムの展示デザインも素晴らしい。
ワイルドターキーのシンボルは七面鳥。かなり大型の鳥でアメリカ南部の森には多くの野生七面鳥が棲んでいるらしい。何しろルックスが凄いのだ。黒光りする羽毛で全身が覆われ首から上は無毛、イボだらけの顔にハゲアタマ。鋭い目つきでこわもて感は半端ない。
人気が出るキャラクターとは思えないのだが、何しろ当地はケンタッキー。日本に溢れるゆるキャラちゃんではバーボンのマスコットは務まらないのだ。しかしあまりにもドスが効きすぎたか、正面向きの顔は1999年に横顔にリニューアルされ最近はおとなしくなった。

ニューオーリンズ

フレンチ・クォーター、クレオールの町

ニューオーリンズはアメリカ南東部、ルイジアナ州、面積は907平方km(350平方マイル)。ミシシッピ川流域にあり東にメキシコ湾、北にポンチャートレイン湖とボーン湖、南にカダウアッチ湖と川と海と湖に囲まれた湿地の町。周辺にはバイユーソーベージ、サルバドール、ピロクシーなど貴重なウエットランドの生態系資源がある。
16世紀にスペイン人が当地を発見、17世紀にはフランス人が入植し1722年にはフランス領ルイジアナの首府となった。1763年に締結されたパリ条約で一時スペインに統括されたが、1801年に再びフランス領となった。
1803年、アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンがフランスのナポレオンからニューオーリンズを含むルイジアナ全州を破格の1500万ドルで買収した歴史的出来事は広く知られている。
ニューオーリンズはフレンチ・クォーターの名でも知られる通り、ダウンタウンにはフランス植民地時代を彷彿とさせる建物が多く残されている。ジャズの発祥地、美食の町でもあり、とりわけケイジャン料理、クレオール料理には僕たち夫婦も大いに満足した。
ふたつの料理は似ているが歴史背景はやや異なる。ケイジャンはカナダ東部のフランス領アケ―ディア(Acadia、訛ってCajun)から当地に来たフランス系住民の庶民的な料理。ジャンバラやガンボはピリッと辛口でとりわけ日本人には人気が高い。
クレオールとは当地では混血のフランス人、とくに西アフリカから来た奴隷子孫とフランス人の混血を指すことが多く、クレオール料理はケイジャン料理よりヨーロッパの香りが強い。
ニューオーリンズではクレオール料理にインターナショナルな要素を加味した創作系レストランが隆盛で、これらをヌーベル・クレオールという。

ナッシュビル

カントリー音楽の町、そしてブルーグラスの発祥の地

ナッシュビルはアメリカ南東部、テネシー州の州都。ケンタッキー州カンバーランド高原からテネシー州に流れるカンバーランド川沿いに位置し、面積は1363平方km(526平方マイル)、最大標高は350m。
18世紀末にヨーロッパ人が入植し1843年にはテネシーの州都となった。1862年、南北戦争さなかにアメリカ合衆国軍グラント将軍はカンバーラント川とテネシー川を掌握、ナッシュビルは南部連合国のなかで最初に北軍に陥落した。1864年、ナッシュビルの南側の町フランクリンの戦いでは1万人が戦死したと伝えられている。
南北戦争が終結した19世紀後半以降、ナッシュビルは綿花とタバコの生産で急速に経済を回復させ、また製造業と水上交易、南部における鉄道輸送の拠点として重要な地位を占めるようになった。
歴史地区に指定されているカンバーラント川沿いの倉庫街は、往時の町並みの雰囲気が残されている。またダウンタウン周辺には19世紀の繁栄期を物語るプランテーションが数多く残されている。
ナッシュビルを象徴するカントリーミュージックはアイルランドやスコットランドなどケルト人をはじめとしたヨーロッパ入植者の民謡が源流となりブルーグラスが生まれ、黒人音楽などと融合を繰り返し大衆化した。ダウンタウンにあるミュージックロウ(Music Row)には多くの音楽スタジオ、ライブハウスがある。驚いたことに朝からライブをやっている店もある。
最近、アメリカの地方都市のバーで酒を飲む人をあまり見かけない。しかし飲むのはノンアルコールビールなので酒自体は嫌いではなさそうだ。公共交通機関がほとんどないというのもある。このあたりは日本の事情とは少し違うかも知れない。

ナチェズ

南部の歴史街道、ナチェズ・トレース・パークウェイ

ナチェズはアメリカ南東部、ミシシッピ州南西部、ミシシッピ川流域にあり面積は36平方km(14平方マイル)、標高は66m。町の名前は紀元前から当地に居住していたナチェズ族に由来する。古代ミシシッピ文化圏の一角を成したインディアン部族である。
1716年にフランス人が入植、1729年に土地の支配権を巡る紛争がやがてナチェズ戦争に発展。ナチェズ族が敗北し、1731年にフランスが当地を掌握した。ミシシッピの州都となったナチェズはアフリカ人奴隷を導入、大農園経営で繁栄した。綿花は当地から積み出され、ニューオーリンズを経てヨーロッパに運搬された。
しかし1822年に州都がジャクソンに移りナチェズは徐々に衰退する。ミシシッピ河川交易の衰退、鉄道の出現に加えて、317人の死者を出した1840年のグレート・ナチェズ竜巻も大きな痛手となった。
ナチェズ・トレース・パークウェイ(Natchez Trace Parkway)は南北戦争以前の南部の面影を残す全長444マイル(710km)に渡る歴史街道(写真2-5)。当地を起点としてアラバマ州を経てテネシー州ナッシュビルまで続き、沿道には18世紀の古びた建物や綿花畑が残っている。
僕たち夫婦はナチェズからトレース・パークウェイを北に向かった。前夜とは打って変わり森を抜ける道は嘘のように静かで穏やかだった。
前夜とは竜巻事件のこと。ミシシッピ川流域を走行中に突然車のナビと携帯電話が同時にピーピーと鳴り出した。今までに聞いたことがない警告音だ。そのうち空が真っ暗闇になりもの凄い勢いの暴風雨が襲来。視界はゼロとなり車は走行不能。何とトルネードにはまってしまったのだ。
翌朝わかったことだが竜巻に吹っ飛ばされた車もあって、悲しいことに死者も出たという。本当に恐ろしい体験となった。旅の知識はあると思っていても不意の出来事への対応は中々難しい。アメリカ大自然を甘く見てはいけないということを痛感した。

デルマー

エネルギー溢れる静かな町

デルマーはアメリカ西海岸、カリフォルニア州南部に位置し面積は5平方km(2平方マイル)。ロスアンジェルスから海岸線沿いを南に120マイル。サンディエゴ空港から北に20マイルの距離。この地域は16世紀にスペイン人によって開拓されメキシコ領となり、1850年に敗戦したメキシコからアメリカに割譲されカリフォルニア州に併合された。
デルマーの夏は乾燥して涼しく、冬は湿潤。四季を通じて穏やかな気候に恵まれている。当地南側にはトーリーパインズ州立保護区が広がり、更にその南にラホヤ(La Jolla)の町がある。共にサンディエゴ都市圏の高級リゾート地として知られるが、ピーンと張りつめた静謐なデルマーに較べ、観光地化が進んだラホヤの雑然感は否めない。
デルマーの東隣にランチョ・サンタフェという小さな町がある。ひと気も少なくどこにでもありそうな田舎町に見えるが、実は知る人ぞ知る凄い住宅街。世帯平均年収がアメリカトップ。しかし華やかな高級住宅地感はどこにもない。ビル・ゲイツやアーノルド・シュワルツネガーなど高額納税者がひっそりと住むというが、当地を車で走ってもそれらしき住宅はどこにも見当たらない。富豪の敷地には森や谷があり空からでないと建物は見えないという桁外れのスケールなのだ。
デルマーは海沿いの綺麗な景観をもった抜けのよい明るい町。対象的に内陸側にあるランチョ・サンタフェは深い緑に囲まれた町。しかし共通するのはどちらの町もとても強い土地のオーラを発していて、静かな中にも溌剌としたエネルギーを感じる。
ランチョ・サンタフェではバレンシア(The Villas at Rancho Valencia)という広い敷地に建つビラ・リゾートに一度滞在したことがある(写真6)。内装は伝統的なスペイン風でやや古臭く感じたが、近所の人が食事に訪れるダイニングの雰囲気はさすがにエレガントだった。

デッドウッド

西部劇、伝説のヒーローが集う死の森

デッドウッドはアメリカ西部、サウスダコタ州ラピッドシティから北西に40マイル、標高1382m、人口1300人余り。小さな田舎町だが、西部開拓時代には金鉱掘り、ガンマン、ギャンブラーなど数万人がたむろしたアウトローの町であった。
デッドウッドは古くからインディアンが住むブラックヒルズの北東部に位置する。当地はアメリカ各地から強制移住させられたスー族の居留地として、白人の居住どころかこの地を通過することさえ禁じられていた。しかし1874年に金鉱脈が発見され、法を守らないヨーロッパ入植者が続々押し寄せてきた。このことはブラックヒルズの頁に詳しく書いた。
いずにしても百数十年前、当地では日常的に争いが起きていた。保安官ワイアット・アープ、女流拳銃使いカラミティー・ジェーン、騎兵隊カスター将軍、インディアンの英雄クレイジー・ホースなど西部劇映画のレジェンドがオールキャストで入り交じり、結果的にバタバタと多くの人が死んでいった。
正義の殺し屋ワイルド・ビル・ヒコック(Wild Bill Hickok)は運悪く出入り口に背を向けて座った酒場Saloon No.10で後ろから撃たれて死んだ(写真1-2)。その時、手に持っていたポーカーの札はAceと8のツーペア。この手役は以来Dead Man’s Handと呼ばれている。
1989年、賭博は合法化され町は健全に再生されたが無法時代の面影が今も残る。町なかのミッドナイトスター(Mid Night Star)で食事をした。ケビン・コスナーが兄弟で経営しているサロンだ。映画「ダンス・ウィズ・ウルブス(Dance with Wolves)」で使用された衣装や小道具が展示されていて中々楽しめる(写真4-5)。
チェロキー族の血統を引くケビン・コスナーは町の北側にバイソンの博物館Tatankaを設立し、インディアン文化の啓蒙に多額の私財を投じている(写真6-7)。


デ・スメット

「大草原の小さな家」、ウォルナットグローブの続編

デ・スメットはアメリカ西部サウスダコタ州東部キングスバリー郡にあり、面積は3.0平方km(1.2平方マイル)、最大標高は526m、人口2010人の小さな町。
ローラ・インガルス・ワイルダー(Loura Ingalls Wilder)は1867年にウィスコンシン州ぺピンに生まれ、1874年にミネソタ州ウォルナットグローブ、1879年にデ・スメットに移住した。
1885年、18際になったローラはアルマンゾ(Almanzo James Wilder)と結婚。しかし夫はジフテリアに感染し脚が不自由となる。また1889年には長男フレディが死亡、同年火災のため住居を失い、旱魃により農場の権利も失った。
1年間ミネソタの農場に暮らし、1891年にアルマンゾの療養のためフロリダに移住するが翌年再びデ・スメットに戻りローラは裁縫、アルマンゾは鉄道人夫として働くこととなった。
ローラが住んだ開拓農地(写真3-4)、ローラ記念館(写真5-6)などを見て回ったが、ローラ・インガルスに纏わる施設以外にこれといって見るべきものは何もない閑散とした田舎町だった。
デ・スメットは「大草原の小さな家」、「長い冬」「シルバーレイクの岸辺で」、「この楽しき日々」、「はじめの4年間」に頻繁に登場するのでローラにとってもっとも思い出深い町だったのだろう。
当地での生活も困窮をきわめ1894年にミズーリ州マンスフィールドに最後の移住を決断。なけなしの全財産をはたいて買った小さな農地を少しずつ増やし、20年もの努力を積み重ね果樹園、牧場、養鶏場をつくり0.8平方km(24万坪)まで所有地を広げた。
インガルス一家の西部開拓の夢はようやく実を結びつつあった。このときローラは50歳。世界的ヒット「大草原の小さな家」刊行まであと十数年を費やすこととなる。

ツーソン

スペイン統治時代の面影を残す町

ツーソンはアメリカ南西部、アリゾナ州の南東、総面積は505平方km(195平方マイル)、最大標高は727m。
同じ南アリゾナでもフェニックスは砂漠地帯、ツーソンは山と川に囲まれた緑ゆたかな町。ツーソンには銀と銅の鉱脈があり、さまざまな輝石も産出する地下資源の町でもある。
当地は数千年来、インディアンの居住地だったが1539年にスペイン人による入植がはじまり、アメリカ・メキシコ戦争が終結する1848年まで300年以上に渡りスペイン統治下にあった。現在でもスペイン文化の影響がきわめて大きい町として知られている。
西部開拓時代のツーソン周辺では鉱山、牧場の利権を巡ってならず者が往来し数々の西部
劇の舞台となった。「OK牧場の決斗(Gunfight at the OK Corral)」は有名。1957年公開のパラマウント映画ではワイアット・アープをバート・ランカスターが、ドク・ホリディをカーク・ダグラスが演じ、監督ジョン・スタージェスの代表作品となった。
これは1881年、ツーソンから南西80kmにあるツームストン(Tombstone)で実際に起きた事件。ワイアットは1848年生まれで幕末の志士と同世代。アメリカには日本ほど歴史好きはいないが、それでも日本の坂本龍馬に匹敵するほど保安官ワイアット・アープの人気は絶大。20世紀以降の数々の小説や映画に登場する。
1994年公開の映画「ワイアットア―プ(Wyatt Earp)」ではケビン・コスナーが主役を演じ、また2001年にはロバート・B・パーカーが「ガンマンの伝説(Gunman’s Rhapsody)」というタイトルで小説にした。
ツーソンへは何度も訪ねたがホテルはLoews Ventana Canyon ResortとWestin La Palomaの印象が良かった。ツーソンの少し北にMiraval という素晴らしいスパリゾートがあり、このホテルを設計したクローダ・オーブリー(Clodagh Aubry)さんは僕の30年来のニューヨークの友人。環境主義者であり現代アメリカを代表する女流建築家である。

チャールストン

18世紀、アメリカ最大の貿易港

チャールストンはサウスカロライナ州東部沿岸、複雑に蛇行したアシュレー川とクーパー川に挟まれた半島に位置し、河口は深く大きな入江となっていて港湾都市として発展する素地を備えている。面積は348平方km(147平方マイル)。大自然と生態系の多様性に恵まれ、町の北側にはフランシスマリオン国立森林公園が広がり、さらに北にはモートリー湖、マリオン湖があり野生動物保護区となっている。
1670年、イギリス入植者により集落がつくられイギリス国王チャールズ2世にちなみチャールズタウンと命名された。領有権を主張するスペインやフランス、そして先住民との幾多の争いを経て次第にカロライナ植民地の中心地として発展してゆく。
18世紀に入り当地は大西洋貿易港として繁栄をきわめた。当時のヨーロッパでは鹿皮は馬具や書籍装丁用として大量の需要があり、文明化五部族の先住民から供給される鹿革を輸出、アフリカから奴隷を輸入した。
文明化五部族(Five Civilized Tribes)とはヨーロッパ入植者の生活文化を受け入れたチェロキー、クリーク、チカソー、チョクトー、セミノールのインディアン5部族を指し、彼らは独立戦争、南北戦争の徴兵にも応じた。
チャールストンは戦争、大火事、ハリケーン、洪水など度重なる災害に見舞われた土地でもある。1886年のチャールストン大地震では多くの建物が倒壊、1989年のハリケーン・ユーゴーの被災は記憶に新しい。しかし輝かしい過去の歴史を持つチャールストンの人々にとって町並み保存は最大の課題であり、莫大な財政投入により現在の美しい町が維持されている。碁盤の目のように区画された歴史地区はイギリス人が入植した1670年にすでに計画されていたという。

タオスプエブロ

今もなおプエブロ族が住むアメリカ最古の木造集合住宅

タオスはアメリカ南西部、ニューメキシコ州中北部タオス(Taos)の北側3マイルに位置し、面積は0.08平方km(0.03平方マイル)、標高は2130m。サンタフェから北に70マイルの距離にある。
タオスプエブロは13世紀に築かれた赤褐色のアドビ(Adobe)煉瓦で建てられたインディアン、プエブロ(Pueblo)族の住居遺跡。そして現在も百人前後のプエブロ族が実際に生活を続けている。1978年、ユネスコ世界文化遺産に登録された。
アドビとは日干し煉瓦のこと。粘土にわらや砂などを混ぜ、型に入れ天日にさらして乾燥させた建築材料。アドビを積み上げ表面を泥で塗り固めて建物を強固に保つ。吸収した太陽熱をゆっくり放出するため夏は涼しく冬は暖かい。防音性、耐久性にも優れていると考えられている。
アドビは南北アメリカ、中東、北アフリカ、スペインでも利用されているが、タオスプエブロの土の家はとりわけ素晴らしい。やわらかい曲線と面で構成された建築造形はニューメキシコ州の乾いた大地、澄み切った真っ青な空と見事に調和して美しい。
タオスプエブロは16世紀にスペイン人による侵攻、その後のメキシコ支配、1847にはアメリカ軍の包囲攻撃を受け最後には陥落した。しかし1970年、リチャード・ニクソン大統領は当地をアメリカ領から除外しプエブロ族に返還した。
タオスプエブロは北に山脈(写真4)が聳え、西にリオグランデ川(写真6)、南に土地が開けた地理風水に優れた土地柄。集落の中を流れる小さな川(Red Willow Creek、写真5)は、古来プエブロ族に聖地として崇められてきたブルー湖(Blue Lake)から流れ出る。澄みきった空気感が清々しく強いパワースポットの土地である。
当地はアメリカ政府に保証された先住民居留区(Indian Reservations)であり観光目的での土地開発はできない。またブルー湖に無許可で訪れることも禁止されている。

ダイアースビル

映画「フィールド・オブ・ドリームス」撮影地

ダイアースビルはアメリカ中西部、アイオワ州北東部にあり面積は14.6平方km(5.6平方マイル)。アメリカは世界有数の農業大国。アイダホといえばポテト、アイオワはコーン。見渡す限りのトウモロコシ畑。その景色は海原に似て、風になびく繁った葉は押し寄せる波のようで生命力に溢れる。
そのトウモロコシ畑を抜け出たところに小さな野球場はあった。「フィールド・オブ・ドリームス」はW.P.キンセラの小説「シューレス・ジョー」の映画化。
レイ・キンセラはトウモロコシ畑で不思議な声を聞く。そのインスピレーションをきっかけに畑を切り拓き、野球場をつくったことからファンタジーがはじまる。ケビン・コスナー主演、1989年公開でアカデミー作品賞を受賞した。撮影場所は元通りの畑となったが、映画を懐かしむ人の声が集まり再び野球場に戻されたという。
明るいグラウンドは弾けるようなエネルギーに満ちていた。まさにパワースポットともいえる高揚感。何もない広大な畑の真ん中なのでそんなはずはないと思うが元々特別な土地だったのかも知れない。あるいは映画撮影という創造を通じて土地の気力が高まったのか。いずれにしてもカラダがスッと軽くなるような気持ちよい空気感に包まれたフィールドだった。
ちなみにアメリカのトウモロコシ生産量は世界トップ、その最大生産地がアイオワ州。そして莫大な量のトウモロコシの30%が再生可能エネルギー、バイオマス・エタノールに変わる。
ガソリンにエタノールを混合するのはアメリカでは常識。「E10」というのはエタノール10%で、これが標準。アメリカ最高峰のモーターレース、インディで使用される燃料は「E85」、つまりバイオエタノール85%と規定されている。

セントルイス

栄光と挫折が交錯する町

セントルイスはアメリカ南東部、ミズーリ州東部にあり面積は171平方km(66平方マイル)。北部の氷河湖を源とするミシシッピ川が蛇行して南下、流域に肥沃な土壌をもたらした。自然に恵まれた当地は9世紀ころから先住民によるミシシッピ文化の中心地として栄えた。
かつて当地にはマウンド(Mound)というピラミッドと日本の古墳の中間にあたる断面台形の巨大なインディアン遺跡が数多く見られ当地はマウンドシティとも呼ばれた。しかし数百に渡るその多くは都市開発により失われた。
17世紀にはフランス領ルイジアナの中心地として繁栄し、1811年に開発された蒸気船はアメリカ北部とニューオーリンズ、そしてヨーロッパを結ぶ当地の河川交易をますます活発にさせた。セントルイスはアメリカを南北に縦断するミシシッピ川のちょうど中ほどに位置する。
鉄道の登場でミシシッピ水運は下火となるが、運よく1926年にシカゴとカリフォルニアを結ぶ産業道路ルート66が開通。セントルイスは再び交通の要衝としてアメリカ産業経済で重要な地位を占めるようになる。
1904年に万国博覧会、そしてアメリカ初となるオリンピックも開催され、セントルイスは光り輝く黄金期を迎えた。当地を象徴するゲートウェイ・アーチはフィンランドの建築家、エーロ・サーリネンの設計。ミシシッピ河畔に建つ高さ192m、幅192mの半円形はセントルイスで最も高い建築物だ(写真3-4)。
皮肉なことにこのアーチが完成した1965年頃からセントルイスの大凋落がはじまった。その後の町の空洞化はおびただしく、犯罪発生率が急増。中心部の人口は半分になってしまい、今やアメリカでもっとも危険な都市となった。
19世紀はミシシッピの水運、20世紀はルート66の陸運に恵まれた栄光のセントルイス。21世紀の100年間、この地はどんな町に変わってゆくのだろうか。

セドナ

古くは先住民の聖地、現在はヒーリング・リゾート

セドナはアメリカ南西部、アリゾナ州北部、面積は48平方km(19平方マイル)、最大標高は1319m。アリゾナ州は南北に645kmありサボテンが林立する南部の砂漠地帯は暑く、反対に北部の森林地帯は冷涼、冬には降雪もある。セドナは典型的な北部アリゾナの気候。
樹林を縫うように流れるクリークは初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々に姿を変え美しい。また凛と澄むセドナ特有の空気感、赤から紫、深い青のグラデーションに染まるロックマウンテンの夕景はまさにアメリカ大自然のハイライトともいえる。この魅力的な景観に加え、この土地特有のスピリチャルな霊力がセドナの名を世界中に広めることとなった。
かつてセドナは千年以上に渡りインディアンの信仰の中心地として崇められた土地であった。数多くの岩山、とりわけエアポートメサ、カセドラルロック、ベルロックなど7箇所の地中には巨大な磁場エネルギーがあり、これが天空に向けて渦巻状に放出されている。これをアメリカではボルテックス(Vortex)と呼び、メンタルヘルスや運気に影響をもたらすという。
セドナはコロラド台地という火山地帯の活断層上にあり今も地殻活動が続いている。また地中には鉄分とクリスタルが多く含まれ、またターコイズ、ラピスラズリなどの輝石も埋蔵されている。
実際にセドナでは心身がとても自由に感じられ、曇りのときでも風景がキラキラと輝くように思え、独特の高揚感が得られる。
セドナには何度も訪れたがとりわけ初夏と晩秋の空気感は格別。最近はパワースポットの側面だけが強調されることが多いが、それよりもこの土地ならではの季節の移り変わりや綺麗な風景を純粋に楽しむのがよいと思う。

スプリングフィールド

ランド・オブ・リンカーン

スプリングフィールドはアメリカ中西部、イリノイ州のほぼ真ん中に位置し面積は156平方km(60平方マイル)、シカゴから南西に200マイル距離。町の中心地には旧議事堂があり、いかにも州都らしい威厳のある町の佇まい。
その北側にリンカーン図書館、南側には国立公園局が管理するLincoln Home National Historical Siteがある。リンカーンの家はグリークリバイバル(Greek Revival)様式で1839年建築。ほかにもリンカーンに因んだ施設がひしめき、当地はまさしくリンカーンの町である。
リンカーン(Abraham Lincoln)は弁護士、イリノイ州議員、上院議員時代の25年間を当地で過ごし1861年に第16代大統領に選出された。
共和党始まって以来の大統領リンカーンは南部の諸州とことごとく対立。南北戦争の勃発に繋がった。しかしリンカーンは北部州連合軍を勝利に導きアメリカの南北分裂は回避されたが、終戦6日後の1865年4月15日、ワシントンで観劇中に暗殺された。
リンカーンは黒人奴隷開放を推進した人道主義者とも評されるが一方では先住民インディアンの迫害、殲滅政策をもっとも強硬に進めた大統領としても知られている。リンカーンによる1862年のインディアン・スー族酋長等38人の一斉絞首刑はアメリカ死刑史に残る記録となっている。
リンカーンホーム(Lincoln Home)の西側にあるビール醸造所Obed & Isaac’s Microbreweryで食事をした(写真4-6)。僕は食事と共に飲むビールはアンバーエールが好み。やや赤みがかった琥珀色で程よい酸味があり、少し焦げたような香りが食欲をそそる。ピルスナーは下面発酵なので冷やして飲むとうまいが、エールは発酵温度の15度から20度くらいが適温。
いずれにしてもアメリカやヨーロッパには、その時の気分や好みに応じた嗜好のバリエーションが多くあり楽しみも多いが、日本のレストランのビールは選択肢が少なくその点ではつまらない。

ストウ

「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ家ロッジ

ストウはアメリカ北東部、ニューイングランド地方内陸部バーモント州にあり、なだらかな丘陵が連続する草原と森林に囲まれた緑深い町。面積は188平方km(73平方マイル)、標高は295m。
西のマンスフィールド山、東側のパットナム州立森林公園に挟まれたバレー地帯で、町の中心をリトルリバーが流れる。トラップファミリーにとって故郷オーストリア・ザルツブルグに似ていた気候風土だったのかも知れない。第二次世界大戦さなかの1941年、彼らはアメリアへの亡命を決意、無事東海岸にたどり着きトラップファミリー合唱団として生計を立て、そしてストウの小高い丘にある農場を購入した。
トラップ大佐と7人の子供、修道女マリアが祖国を脱出しアルプスを越えて逃れる映画シーンはあまりにも有名。1959年に初演されたミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」を原作として1965年には映画化され世界的なヒット作となった。「ドレミの歌」、「エーデルワイス」はじめ音楽は「王様と私」などで知られるミュージカルの巨匠、オスカー・ハマースタイン2世が作詞し、リチャード・ロジャースが作曲した。
一躍有名になった家族は1968年にストウの農場のなかにロッジを建設、敷地は9.7平方km(300万坪)に及ぶ。映画「サウンド・オブ・ミュージック」でジュリー・アンドリュースが演じたマリアの三男ヨハネスが現在このロッジを経営している(写真1-6)。
ロッジには3泊の滞在だったがとても快適、正直なところ1か月くらい滞在したいと思った。ダイニングも素晴らしい。オーストリア料理の子牛のカツレツ、ヴィエーナ・シュニッツエル(WienerSchnitel)、デザートのザッハトルテ(Sacher Torte)も抜群だった。とくにロッジの正面玄関あたりに清々しい気力が満ちていて、この場所がパワースポットではないだろうか。トラップ大佐とマリアの眼力はさすがである。

スコッツデール

インディアンアートとイマジネーションの町

スコッツデ―ルはアメリカ南西部、アリゾナ州南部にあり面積は478平方km(184平方マイル)、最大標高は380m。北に小高く、南にソノラ砂漠が広がり、東にソルト川、西には大都市フェニックスを控える。
当地には紀元前800年から紀元1400年頃まで栄えたインディアン、ホホカム(Hohokam)族の文化遺跡がある。15世紀以降はピマ(Pima)族が居住した。
スコッツデールのランドマーク、キャメルバックマウンテンはその名の通りラクダの背の形をしていて奇妙。今にも動き出しそうにも見える。スコッツデ―ルの木々や雲、山々など自然界の造形はさまざまに人間のイマジネーションを刺激する。
同じくアリゾナ州にあるセドナのボルテックスといわれるパワースポット感とは顕かに違っていて創造心を掻き立てるエネルギーのようなものだ。建築家フランクロイド・ライトは1937年にスコッツデールの砂漠の真ん中に建築学校タリアセンウエストを創設し、20世紀のアメリカ建築に多大な影響を与えた(写真2)。
スコッツデールの土地柄に惹かれたスペインの建築家パオロ・ソレリは1970年にア-コサンティ(Arcosanti)の建設を開始した。エコロジーコンシャスとゼロエミッションを標榜した未来都市の創造である(写真3-4)。1980年代にはじめて建設途上のアーコサンティを視察したが、それから30年以上たった現在でもまだまだ進行中。完成まであと数百年かかるとのこと。
とにかく僕にとってアリゾナはもっとも好きな州、ゲートシティともいえるスコッツデールは度々訪れる場所。真冬でもプールサイドで過ごせる気候、レストラン、ショッピングモールも数多くあるし便利。ダイナミックな自然景観、林立するサワロサボテン、インディアンアートギャラリーなどなどいろんな意味で魅力にあふれている。
スコッツデールはホテルもアメリカ最高レベル。サービス、料金のバランスもよく粒ぞろいだ。僕が好きな平屋のビラタイプのリゾートもたくさんある。宿泊したなかではボールダーズ(Boulders Resort)、サンクチュアリ(Sanctuary)、ウエスティン・キアランド(Westin Kierland Villas)、フェニシアン(Phoenician)、プリンセス(Scottsdale Princess)が印象に残っている。どこもがそれぞれの地形や個性を活かしていてサービスも洗練されている。
フェニックス・エリアになるが有名なアリゾナ・ビルトモア(Arizona Biltmore)にも泊まってみたがはっきりいってがっかりした。フランクロイド・ライト設計という建物は立派だがそれ以外は平均点にも届かない。

シェナンドー国立公園

温帯湿潤、標準的な大自然

シェナンドー国立公園はアメリカ南東部、バージニア州中部に位置し、面積は805平方km(311平方マイル)、最大標高はホークスビル・マウンテンの1235m。1935年に国立公園に指定された。首都ワシントンD.C.から西に70マイルの距離なのでもっとも大都会に近いアメリカ国立公園といえる。
細長い国立公園の北端にあるフロントローヤルという町から南のウエインズボロまで105マイルに渡るスカイラインドライブがあり、この曲がりくねった眺めのよい道路がシェナンドーの観光価値のかなりの部分を占めている。
僕たち夫婦はスカイラインドライブの中程にあるスカイランドリゾート(Skyland Resort)という国立公園内ロッジに宿泊した。国立公園に指定される40年前に出来たというので相当古い。素朴な平屋の木造は味わい深く僕が好きなタイプのロッジなのだ。シェナンドー渓谷が眼下に一望できるレストランも雰囲気がある。
シェナンドーの景観はカシ、カエデ、スズカケなど落葉樹が主体で、夏休みよりもう少し遅い時期に訪れていたら赤から茶色に染まる紅葉のグラデーションを見ることができた。なだらかな山脈と渓谷。しかしこの風景はどちらかといえば日本的ともいえる。
ただしアメリカ東部では、断崖絶壁のグランドキャニオンや巨大バイソンと出会うイエローストーンのような大迫力のシーン体験は期待できない。シェナンドーの緯度は日本本州の真ん中と同じ38度で、冬寒く、夏は蒸し暑くなる気候も日本と似ている。平均的温帯湿潤気候、つまりカシやカエデの植物相だけでなくシカやキツネが住む森の動物相も同じなのである。
圧倒的な景観がない分、気張ることなく、日本に居るかのようにゆったりと過ごせる大自然といえるが、何のためにわざわざ日本から来たかという疑問は残る。

シャーロット

かつての金鉱山、現在は世界有数の金融センターの町

シャーロットはアメリカ南東部、ノースカロライナ州南西部に位置し面積は771平方km(298平方マイル)、最大標高は229m。
インディアンのカトーバ族の居住地であった当地に、18世紀中頃スコットランド、アイルランド系のヨーロッパ人が入植した。シャーロットの地名は当時のイギリス国王ジョージ3世の王妃シャーロットから名づけられた。
1779年、シャーロットの北東部リトルメドウ・クリークで12歳の少年コンラッド・リードが金色の石を発見。それをきっかけに次々と金鉱脈が見つかり50以上に渡る金山が開発され、シャーロットはゴールドラッシュの町として大繁栄をする。1837年にはシャーロットに造幣局の支局が設置され金貨が鋳造された。ゴールドラッシュは徐々に西へ移動したが、南北戦争以降、綿織物産業の町として再び活況を呈する。
1874年に当地で開業した地方銀行はその後アメリカを代表する銀行バンクオブ・アメリカ(写真4)となり、ワコビア(Wachovia, Wells Fargo)の本社もシャーロットだ。
20世紀後半、シャーロットはニューヨークに次ぐアメリカ第2の金融都市となった。アメリカ史上はじめて「金鉱脈」が発見され、現在「金融センター」として発展を続けるマネーと「金」に縁深いゴールデンパワースポットの町なのである。
とにかく町中いたるところ大手銀行だらけ。それと関連付けられたようにメジャー系列のホテルが数多くある。しかし金融の町だけあって何となくそわそわとして落着かない。僕たち夫婦は郊外にあるバランタイン(The Ballantyne)を選択、このホテルの外観は普通のように見えて一歩中に踏み込むとかなり上質(写真4)。控えめで上品。とくに客室のインテリアは洗練の極み。カーテン素材や色柄など細かいところへの心配りも素晴らしい。さすが歴史あるシャーロット、キンキラの成金ではないのである。

サンタモニカ

歴史街道ルート66の終着点

サンタモニカはアメリカ西海岸、カリフォルニア州ロスアンジェルスの西端、サンタモニカ・ベイに面し面積は21平方km(8平方マイル)。
ロスアンジェルスの名称の由来はキリスト教における天使(The Angel)のスペイン語、サンタモニカは紀元4世紀におけるキリスト教の聖人、聖モニカ(Santa Monica)にちなんで命名された。
サンタモニカから海岸沿いに南に向かって順にベニスビーチ、マンハッタンビーチ、レドンドビーチ、ロングビーチ、シールビーチ、ハンテントンビーチ、ニューポートビーチ、ラグナビーチと続く。個人的な好みでいえばビーチの雰囲気ではマンハッタンビーチ、リゾート施設ならラグナビーチ。しかしビーチ、施設、利便性、レストランの4点を総合するとサンタモニカの圧倒的勝利。加えて近年は商業施設の発展も目覚ましく、すべてが揃う素晴らしい土地柄だ。
いいことずくめの場所ながらサンタモニカのホテルに宿泊するかといえばそこは難しい。ロスアンジェルス滞在で時間にゆとりがあり優雅に過ごしたい人たちはビバリーヒルズを選ぶことが多いからだ。僅か6マイル、車で20分の距離なので、あえてサンタモニカに滞在するなら海が見える部屋ということになる。
となるとシャッターズ・オンザビーチ、カサ・デルマール、ミラマーが候補となるが、残念なことに海側の部屋数は限られている。独特の雰囲気をもつシャッターズがやはり一番。しかしこのホテルの海岸に面した部屋に泊ったことがあるが、料金の割に部屋は狭いしコンパクト過ぎるクローゼットは荷物の多い海外ツーリストには向いていないと思った。
どうしてもビーチに面した眺めのよいホテルということならラグナビーチなど南に脚を伸ばせばよいし、ラグジュアリーなホテルはビバリーヒルズなど陸側に行けばいくらでもあるので、魅力盛りだくさんのエリアのホテル選びは案外たいへんだということである。

サンタフェ

プエブロインディアン・アートの町

サンタフェはアメリカ南西部、ニューメキシコ州の州都。面積は97平方km(37平方マイル)、2130mの標高はアメリカ州都では最高。
サンタフェは僕のもっとも好きな町。春夏秋冬すべての季節に何度も訪れたが、とりわけ初秋は素晴らしい。キャニオンロードに赤い野生リンゴが実り、サンタフェ山のハコヤナギが鮮やかな黄金に色づく。真っ青な空、乾いた風とキラキラと輝く日差しはサンタフェ特有の魅力である。
人口たった6万人の田舎町に10以上の美術館、そして数百のアートギャラリーがあり、洗練された料理を出すレストランがたくさんあり、Inn of Anasaziという上質なホテルもある。その文化度の高さは神秘的ですらある。
サンタフェには1万2千年前から人類が居住していた。11世紀にはインディアン、プエブロ(Pueblo)族が集落を形成し、当地は古来より先住民からパワースポットとして崇められてきた神聖な土地なのだ。
15世紀に入植したスペイン人がプエブロ族を制圧し1607年にサンタフェの町が創設された。1824年、メキシコ独立にともないメキシコ領となり、1846年にアメリカ支配下となった。
1958年、徐々に寂れつつあったサンタフェに景観条例が施行された。建築スタイルを2種に限定して独特の町並みをつくろうという町興しの試みである。アドビ(Adobe)煉瓦によるプエブロリバイバル(Pueblo Revival)とスパニッシュコロニアル(Spanish Colonial)である
景観条例は日本にもあるがそれは建築のデザイン様式や色彩まで規定するものではない。例えば京都の祇園花見小路の古くからある町並みにコンクリートのビルがひとつ出来ただけでも町の風景は一変する。ともかくサンタフェの厳しい条例は成功を収めた。
デザイン規制がサンタフェ・スタイルという貴重な文化価値を創出したのである。

サンタバーバラ

地震復興で生まれ変わった町

サンタバーバラはアメリカ西海岸、カリフォルニア州中部にあり面積は107平方km(41平方マイル)、ロスアンジェルスから西に30マイル。町の真南に太平洋、北側に森林が広がる地形で一年を通じて快適な気候を持つ、人が住むには理想的な土地柄だ。
この自然環境は先住民にとっても望ましい土地だったに違いない。事実、1959年に当地で1万3000年前の人骨が発見された。アーリントン・スプリングスマン(Arlington Springs Man)と名付けられたアメリカ最古の人骨である。
この人骨の子孫といわれるインディアンのチュマシ族に当地ではじめて出会ったヨーロッパ人はスペイン船の航海士フアン・ロドリゲス・カブリリョ(Juan Rodriquez Cabrillo)で1542年と記録にある。きわめて個性的な発音で言葉を話す民族だったという。
1769年にスペイン人のガスパル・デ・ポルトラ(Gaspar de Portola)もアメリカ探索中にチュマシ族に遭遇、音楽や贈り物で丁重にもてなされたという。当時チュマシ族の人口は1万人を超えていたが、その後の開発に伴い当地から追われた。
スペイン人により建設されたサンタバーバラは1812年の大地震と津波で崩壊、メキシコ領を経て1848年にアメリカ領となった。
1925年、当地は再び大震災に見舞われ町の大部分が倒壊した。行政と市民グループはあらたな町づくりを提唱し、結果としてサンタバーバラは独特のスペイン植民地時代の雰囲気を持った美しい町並みに変わった。スパニッシュコロニアル・リバイバル(Spanish Colonial Revival)という昔なつかしい様式に絞る建築規制が町に統一感を生み出したのだ。
災い転じて福と成す。建築とデザインが町に活力をもたらしサンタバーバラは現代アメリカを代表する洗練されたリゾート都市に発展したのだ。

サンアントニオ

温暖で適度に雨が降り緑ゆたかな美しい町

サンアントニオはアメリカ南西部、テキサス州内陸部の中程にあり、面積は1067平方km(412平方マイル)、最大標高は198m。アメリカのベネティアと例えられるリバー・ウォーク(River Walk)とアラモ(Alamo)が観光的な目玉。
アラモはテキサスに入植したスペイン人によりキリスト教の布教を目的として1718年に建築された伝道所。正式名称はMission San Antonio de Valero。1960年にNational Historic Landmarkに指定された(写真2-3)。
アラモの名を有名にしたのは1836年に起きたアラモ砦の13日間戦争。スペイン統治下にあったテキサス独立派百数十名が反乱を起こし、鎮圧に当たったメキシコ軍数千名と戦い、結局、全員が戦死した。後にテキサス独立の引き金となったが兵士の勇気は後々まで語り伝えられ、アラモ砦はテキサス魂を称える象徴的な史跡となった。
アラモの兵士は多くの映画でも描かれている。1960年公開のジョン・ウェイン監督「アラモ(The Alamo)」がその代表。監督自身がデイビット・クロケット役を演じた。テキサス兵のウイリアム・トラビス大佐をローレンス・ハーベイが、ジェームズ・ボウイ隊長役はリチャード・ウィドマークという豪華な顔ぶれだった。
この超大作は大ヒットしアカデミーの最有力候補となったが惜しくも賞は取れなかった。戦争が美化され過ぎている、ストーリーが史実と違うのではないかという意見が投票権を持ったジャーナリストから出たという。政界意向や大衆に迎合しないアメリカジャーナリズムの尊敬すべき一面でもある。
いずれにしてもベトナム戦争前夜の社会風潮と相まってジョン・ウェインの右寄りの政治信条が強く反映された映画であった。彼はこの映画でかなりの財産を失ったと言われている。

サバンナ

樫の大樹とスパニッシュモスが茂る

サバンナはアメリカ南東部、ジョージア州東端、大西洋に面し面積は202平方km(78平方マイル)。町なかに蛇行した川が入り交じりヨーロッパ人に植民地化される以前は湿地帯だった。18世紀にイギリス、スペイン、ポルトガルの入植者により町の基盤がつくられ、3カ国の文化が交錯したサバンナ独特の文化が形成された。
綿工業の集積地、そして港湾都市としても栄えた。サバンナはサウスカロライナ州チャールストンと並ぶ奴隷市場の中心地でもあった。1810年代の黄熱病の流行、1860年代の南北戦争の影響を受けサバンナの経済は一時停滞する。しかし1872年に綿花取引所(写真2)が設立され経済は活況を取り戻した。
チッペア・スクエアの4km四方が歴史地区に指定されていて、アンドリューロウハウス(Andrew Low House)、ダベンポートハウス(Davenport House)メルドリムハウス、(Green Meldrim House)など19世紀の政財界人の豪奢な暮らし偲ばせるコロニアル様式の素晴らしい煉瓦建築物が目を惹く。
歴史地区のほぼ真ん中にあるジュリエットゴードン・ロウハウス(Juliette Gordon Low House)は1820年築造、Juliette Gordon Low(1860-1927)はサバンナの裕福な家に生まれイギリスからガールスカウトの制度を導入した。その家の前でトム・ハンクス主演の映画フォレスト・ガンプの冒頭のタイトルバック、羽が空を舞うシーンが撮影された。この映画はウインストン・グルームの小説の映画化。
サバンナの町を歩いていてまず目につくのが樫の大樹から垂れ下がるスパニッシュモス。カリブ諸島からハリケーンに飛ばされてアメリカに渡来したという。正式にはチランジア・ウスネオイデス(Tillandsia Usneoides)といい、空気中の水分を吸収して育つエアープランツの1種で可愛い花も咲く。
ふわふわと風に乗ってどこに行こうと自由自在。寄生は樹木だけにとどまらず電線などにぶら下がって旺盛に成長する姿を見ると、そのたくましさに驚く。

キャッツキル

森と渓谷のニューヨークリゾート

キャッツキルはアメリカ北東部、ニューヨーク州南部にありステートパークの面積は2800平方km(1081平方マイル)、最高標高はスライド山の1274m。
マンハッタンから北に90マイル、東京に例えるなら都心から高尾山の距離感。大都会から2時間ほどの距離だが緑は深く、標高が高いせいもあり真夏でも夜になると肌寒かった。
ニューヨーク州はエリー族、デラウェア族など多くの狩猟系インディアンが住む土地だった。16世紀以降、農耕系のイロコイ族やタスカローラ族がノースカロライナ州から流れ込み、これにニューヨーク州の領土化を狙うヨーロッパ勢が加わり土地の所有権をめぐる争いが頻発した。
インディアンは言語も文化もそれぞれに異なり民族ごとの独立心がひじょうに高く、複数の部族が結束して白人に立ち向かうという発想はなかったようだ。入植者による侵略が繰り広げられるさなかに先住民族それぞれが個々に戦うという状況だった。
キャッツキル山地の先住民はモヒカン族である。髪の真ん中を残して両サイドを剃り上げるヘアスタイルで知られるが17世紀に衰退したといわれている。オランダのニューヨーク侵攻のころと重なるがモホーク族との戦いで敗れたというのがモヒカン族凋落の真相である。
ロバート・B・パーカー(Robert Brown Parker)の探偵小説「キャッツキルの鷲(A Catskill Eagle)」は当地が舞台だった。タフでロマンチックなスペンサー、料理がヘタな女医スーザン、ジャガーに乗る格闘家ホーク、拳銃使いヴィニー・モリス、クワーク警部補、フランク・ベルソン巡査部長、ギャングのトニー・マーカス、リタ・フィオーレ弁護士などなど、クセの強い人物満載のスペンサーシリーズは全部で多分40冊くらいだろうか。長年の愛読書としてアメリカを旅行する時には1冊を選んでじっくり読み直すことを楽しみにしている。

キーウエスト

楽園系パワースポット

キーウエストはアメリカ南東部、フロリダ州フロリダ半島から南西に伸びるフロリダキーズ諸島の西端に位置し、アメリカ本土最南端の小島。面積は19平方km(7平方マイル)。マイアミから160マイル。オーバーシーズハイウェイの名称にふさわしく島々を繋ぐ国道1号のドライブは爽快そのもの。
1521年先住民カルーサ族が住んでいた当地をスペイン人探検家ファン・ポンセ・デ・レオン(Juan Ponce de Leon)が発見、スペインが領有権を主張した。300年後の1821年に実業家ジョン・W・サイモントン(John W. Simonton)が島を丸ごと2千ドルで購入、しかし翌1822年、航海中のマシュー・ペリー(Matthew Perry)が当地にアメリカ国旗を掲げ最終的にはアメリカ領となった。
あまり知られていないが31年後の1853年(嘉永6年)、黒船艦隊を編成し浦賀に現れたアメリカ海軍ペリー提督と同一人物である。
キーウエストといえばまずトレジャーハンティングが有名。大航海時代、ハリケーンで難破する船が後を絶たずキーウエストには多くの金銀財宝が今も沈んだままになっている。そしては大物狙いのスポーツフィッシング。そして文豪アーネスト・へミングウェイ。キーウエストはアメリカ人の冒険魂を次々と刺激する。
数々の女性遍歴、酒豪で知られるヘミングウェイはアメリカ男性憧れの的であり、デュバルストリートのバー、スラッピージョー(Sloppy Joe’s Bar)には大勢のひげ自慢のヘミングウェイもどきが毎夜集い、酒を飲み、パパ・ヘミングウェイを語る。
まったりした空気感が漂うキーウエストは癒しのパラダイス。マロニースクエアでは夕方になると海に沈む夕陽を見る人でごった返す。太陽が半分になったところでスクエアにはロマンチックな空気が充満し、太陽が海に消え入る直前に皆いっせいに奇声をあげる。そして誰彼なしに声を掛け合う。何とも能天気でハッピーな土地柄なのだ。

ガルベストン

栄光の海賊、ジャン・ラフィットを偲ぶ

ガルベストンはアメリカ南東部、テキサス州の南東部メキシコ湾岸にあり面積は540平方km(208平方マイル)。19世紀にはテキサスを代表する貿易港として栄えたが、1900年の巨大ハリケーンで町は壊滅、経済の中心はヒューストンに移った。
落ちぶれたとはいえ町のメイン通りには、今も往時の繁栄を物語る豪壮な住宅がいくつも残されている。ビクトリア様式のBishop’s Palaceは建築家ニコラス・J・クレイトンの代表作。権威あるアメリカ建築家協会(AIA)の「アメリカでもっと重要な建築100選」に指定されている(写真1)。
ガルベストンにはもうひとつ見たい史跡があった。大海原を舞台に活躍した海賊、パイレーツ・ジャン・ラフィットの旧邸宅だ。波乱万丈に富んだその生涯は謎に満ちている。ラフィットは1782年、フランス・ボルドーに生まれ新大陸に移民。米英戦争ではアメリカに協力、1千人以上の子分と共にイギリス軍と戦った。
1812年に当地にラフィット王国をつくり、海を臨む邸宅の2階には大砲を備えメゾン・ルージュと名付けた。その後テキサス独立戦争への協力を拒否、アメリカ商船への海賊攻撃を繰り返したため政府と対立。
1821年にメゾン・ルージュを焼き払い当地を撤退した。1822年、キューバの Puerto Principeから脱獄し、翌年からカリブ海パイレーツとして暴れまわったといわれているが諸説あり不明。
メゾン・ルージュ史跡を見たくて、だいたいの目星を付けてあたりを歩き廻った。近所の人に聞いたがラフィットのことは知っていても跡地まではわからないようだ。
やっと見つけたその場所は草木に埋もれた廃墟となり、僅かに残された建物の基礎部分にはゾッとするような冷たい空気に包まれていた(写真4-6)。アメリカ政府に背いたとはいえ19世紀当時の英雄には違いない。手厚く保存されることを祈りたい。

カスター州立公園

美しい森と湖、バイソンが群れる大自然

カスター州立公園はアメリカ西部、サウスダコタ州西部に位置し面積は110平方km(43平方マイル)、最大標高は1439m、1912年にサウスダコタ州立公園に指定された。公園はブラックヒルズ国立森林公園のなかにあり、19世紀後半にアメリカ軍とインディアンが激戦を繰りひろげた地としても知られている。
カスターの名称は当時のアメリカ陸軍第7騎兵隊で知られるカスター将軍(George Armstrong Custer)に因む。彼は南北戦争で活躍し、その後インディアン・シャイアン族の討伐で功績を挙げた。1876年に始まったブラックヒルズ戦争でサウスダコタのインディアンを攻撃し、クレイジーホース率いるスー族に敗れ戦死した。
壮絶をきわめたリトルビッグホーンの戦いである。20世紀になりカスター将軍は英雄として映画では数十の西部劇に登場したが、1970年代以降は風向きが変わりこの手の映画は放映されなくなった。白人が善人、先住民が悪役という構図はあまりにも歴史を歪め過ぎているからだ。
公園には大自然の風景と多くの野生動物が観察できる長さ29kmのWildlife Loopがある。とりわけバイソンの群れは迫力満点、車や人間には目もくれず悠々と道路を横断する。公園内に1400頭が棲むという(写真4-5)。
僕たち夫婦はシルバン湖の畔にあるSylvan Lake Lodgeに4泊した。このロッジにはフランクロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)設計の本館と湖畔の林間に点在するキャビンがある。本館レストランの内装は素晴らしいし高台の窓からの眺望も最高(写真6)。しかし僕たち夫婦はキャビンを選択。すきま風が吹く老朽化した山小屋だが、森の風景に溶け込み中々よい雰囲気だ。
ロッジには戸外に木製のテーブルと焚火のアウトサイドファイヤーピットと呼ばれる設備があって、何だか森のなかで暮らしているような気分になれた。薪をくべ、キラキラと輝く無数の星を眺めながらワインを飲む、この時間が格別なのだ。

カーメル

断崖絶壁の海底峡谷

カーメルはアメリカ西海岸、カリフォルニア中部の海岸沿いの町。市の正式名称はカーメル・バイ・ザ・シー(City of Carmel-by-the-Sea)。面積は3平方km(1平方マイル)、標高68m。
17世紀まではインディアンのオローニ族が住み、スペイン統治時代を経て1848年にメキシコ領からアメリカ領となった。
サンフランシスコからカリフォルニア州道1号線を南に120マイル、モントレー半島の西端にSeventeen Mile Driveという、その名の通り17マイル(25km)の曲がりくねった有料道路がある。途上に世界的に有名なペブルビーチゴルフ場(Pebble Beach Golf Links)やリゾートホテルもある優雅なドライブコースでその南側がカーメルだ。
自然景観が美しく手入れが行き届いた町並み。20世紀以降に写真家のアンセル・アダムス、作家のジョン・スタインベックはじめ多くの芸術家や文化人が当地に移り住んだ。クリントイーストウッドが市長を務めたことでも話題になった。
海岸風景はおだやかで素晴らしい。しかし一歩海の中は恐怖の絶景だ。海岸からいきなり急傾斜で3600mの深海に達し、実際には見えないのだが海底を見下ろす景色はグランドキャニオンの倍の落差がある断崖絶壁だという。モントレー・キャニオンと呼ばれる世界有数の海底峡谷である。
ラッセン・ボルカニックの頁の繰り返しになるが、カリフォルニアにはサンアンドレアス断層という南北800マイルに渡る危険な地震帯がある。海底峡谷は過去の大地震による地割れかもしれない。活力ある土地、パワー漲るパワースポットと火山や活断層は関係深いようだ。
カーメルの宿泊施設のレベルは抜群に高い。実際に宿泊した経験ではビラスタイルのカーメルバレーランチ(写真3)、ハイランズインのふたつがとくに素晴らしかった。

オクラホマシティ


ゆたかな町並みの背景に先住民の末路が見える

オクラホマシティはアメリカ南西部、オクラホマ州の州都。面積は1608平方km(621平方マイル)、最大標高は396m。
1830年、アメリカ政府はインディアン移住法を制定。風が強く時には竜巻が襲いかかる痩せた不毛の土地、オクラホマをアメリカ各地のインディアンの強制移住先とした。
オクラホマは赤い(Okla)人々(Homma)、つまりのインディアンを意味する。先祖代々数千年に渡り住みなれた土地を追われた数万人のインディアンが東部から南部オクラホマに向かったその道は「涙のトレイル(Trail of Tears)」と呼ばれ今も歴史に残っている。途上、多くの死者を出したという。
その50数年後の1889年、オクラホマは突然ヨーロッパ入植者に提供されることとなった。同年4月22日、1万人以上がどっとこの地に押し掛け、我先にと土地の所有権を主張した。あっという間に白人の町と化した当地はスーナーステイト(Sooner State、早い者勝ちの州)と呼ばれた。
1928年、オクラホマで油田が発見されオイルブームが沸騰する。人々はオイルマネーを原資に川を堰き止めダムと人造湖を造り、広い土地に豪壮な住宅を建設。オクラホマは経済に恵まれた美しい町に変貌した。オクラホマ州のインディアンの人口比は減り続け、現在55部族30万人が住む。
当地出身のウィル・ロジャース(1979-1935)はインディアン、チェロキー族の末裔。映画俳優であり社会評論家としても尊敬されている。彼の名前を冠した学校はオクラホマだけで13校、ロジャース・パーク(写真2-3)、カリフォルニアのウィル・ロジャース歴史公園、テキサスのウィル・ロジャース記念センターをはじめアメリカには彼の名に因んだ施設が多くある。
オクラホマシティにあるウィル・ロジャース国際空港のターミナル正面には馬に跨ったウィル・ロジャースの彫像が飾られている(写真1)。

オークブルック

ミシガン湖畔、知性に囲まれた町

オークブルックはアメリカ中西部、イリノイ州ミシガン湖畔にある町で面積は21平方km(8平方マイル)。シカゴのダウンタウンから西に30マイルにあるこの町はポール・バトラー(Paul Butler)という20世紀初めの有名なポロ選手が開発した。
アイルランド移民の子孫であるバトラーは選手としてだけではなく、実業家として資産を築いた。バトラー・ジュニアハイスクール、バトラー・ナショナルカントリークラブなど当地にはバトラーの名前が多くみられる。
そのカントリークラブに隣接したハイアット・マクドナルド・キャンパス(The Hyatt Lodge at McDonald’s Campus)という不思議な名前のホテルに宿泊した。マクドナルドが運営するハンバーガー大学(Hamburger University)という広大なキャンパスの中にあるホテルだ。この大学は1961年創設の企業大学でマクドナルドに働く管理職が学ぶという。
ホテルは低層で天井高のあるロッジは森と湖に面し、素朴な佇まい(写真3-4)。ミッドセンチュリーのインテリア、家具にも独特のムードがある。驚いたことにこのホテルの設計は巨匠フランクロイド・ライトだった。草原様式と日本語に訳されるライトの代表的な建築手法、プレイリースタイルは地平線を強調した伸びやかな建物で平原が多いアメリカ中西部の空気感に実にピッタと合っている。
ホテルから20分ほどの距離にあるモートン樹木園(Morton Arboretum)に出かけた。草原環境の修復プロジェクトとして計画された6.9平方km(2.7平方マイル)に渡る庭園(写真1-2)。園内にあるハリー・ウィース設計の図書館にはランドスケープや植物学の蔵書が多くあり、ビジターセンターは園内の樹木や石材を再利用し建築の持続可能を追求したという。さすがにオークブルック、樹木園にもインテリジェンスが漂う。

エルパソ

国境の町

エルパソはアメリカ南西部、テキサス州最西端に位置し面積は664平方km(255平方マイル)、最大標高は1140m。ロッキー最南端であるフランクリン山脈が町を東西に二分し一帯は州立公園となっている。
アステカを征服したスペインは1659年、当地にエルパソ・デルノルテの町を創設。1821年、メキシコの独立革命によりメキシコ支配下に置かれる。しかし1848年、アメリカに敗戦したメキシコは当地を二分し北側をアメリカに割譲しエルパソとなった。
エルパソのすぐ南側にある町、メキシコ領シウダード・ファレスは治安最悪の町として名高いが最近その地位をホンジュラスのサンペドロ・スーラに譲り世界ワースト2位に落ちたという。とはいうものの僕はアメリカでは国境を越えていくつかのメキシコの町に出掛けたが、どの町も思いのほか穏やかだった。もちろん用心は必要だけれど旅の基本はチャレンジなのである。
エルパソ人口の80%がメキシコ系アメリカン人ということもあり、町の印象は80%メキシコ。タコス、エンチラーダはうまいしテキーラ、コロナビールは最高だ。コロナはカットしたライムを瓶の中に無理やり突っ込んで瓶ごと飲む。この飲み方スタイルの広告宣伝は大ヒットとなったが、それが災いして同社は瓶のリサイクルにアタマを悩ませているという。
更に気の毒なことに、コロナ禍の風評被害をモロに受け2020年から売り上げが激減している。たしかに「コロナビール(CORONA Beer)」と「コロナウィルス(CORONA Virus)」の発音はよく似ている。
エルパソの町なかをアメリカ大陸横断鉄道が走る(写真1)。現在は貨物輸送がメインだがエルパソ駅にも停まるアムトラック・サンセットリミテッド号はニューオーリンズとロスアンジェルス間を片道48時間で結ぶ。
開通間もない1872年(明治5年)には不平等条約改正交渉に渡米した木戸孝允、大久保利通、伊藤博文はじめ総勢100名の岩倉使節団が乗車した。この年、汽笛一声、新橋から横浜に日本最初の鉄道が開通した。

ウォルナットグローブ

「大草原の小さな家」ローラの足跡を辿る、ペピンの続編

ウォルナットグローブはアメリカ中北部、ミネソタ州南西部にあり面積は2.8平方km(0.6平方マイル)、人口900人に満たない小さな町。
1867年に生まれたローラ・インガルスは7歳までウィスコンシン州ペピンの大きな森の小さな家(Little house in the Big Woods)で暮らし1874年に当地に移住してきた。この時代の生活は「プラム・クリークの土手で(On the Banks of Plum Creek)」に描かれている。
収穫前の小麦がイナゴの被害に遭い、全滅。借金も増え、父親は金の工面のため東部に出稼ぎに行く、という苦難の日々が続いた。僕たち夫婦はゴードン農場とLaura Ingalls Wilder Museumでローラの住居跡を見学(写真3-6)、大きな衝撃を受けた。
それは家というより、むしろ土手に掘られた穴倉だった。しかし横穴小屋(Dugout Depression)は開拓時代の当地では普通に見られた住居だったようだ。土の家は冬は暖かく夏は涼しいが、時には牛が屋根を踏み潰して崩落することもあったという。ヘビやクモにも悩まされたという。
ローラの父チャールズはイングランド系、母キャロラインはスコットランド系の移民だった。WASP(White Anglo-axon Protestant)といわれる彼ら夫婦は、デンマークやスウェーデン移民が多かった中北部アメリカのなかで正統的アメリカ人としての誇りを持っていたと後にローラは書き遺している。
同時代のイギリスはビクトリア王朝華々しい繁栄の時代。ひきかえ新大陸の開拓民の生活は貧窮をきわめた。しかし土の家で遊ぶ絵本のなかのローラは元気はつらつ、とても幸せそうに見える(写真6)。
数々の困難にもめげない彼らには西部開拓という大きな夢があったからだ。ゆたかさとは、幸せとは。土の家を見学しながら多くのことを考えさせられた。

ウイリアムズバーグ

アメリカ草創期の町並みが残る、生きた歴史博物館

ウイリアムズバーグはアメリカ南東部、バージニア州。バージニア半島に位置する独立市。面積は23平方km(9平方マイル)。
1607年4月26日、ヨーロッパから104名のイギリス人がアメリカ大陸にはじめて入植した地がジェームスタウン、そして隣接する町としてウイリアムズバーグをつくった。先住民インディアンであるワンパノアグ(Wampanoag)族が入植者を歓待し好意的に世話をしたものの9か月後の生存者は38名だったという。インディアンから教えられたトウモロコシの栽培は多くの入植者を救った。
11月の第4木曜日が祝日となるサンクスギビングデイは入植者がインディアンを招待して感謝の宴を催したのが始まりとされる。アメリカ開拓が進むにつれインディアンは入植者から迫害を受けることになるが少なくとも17世紀の最初の頃では両者は友好的な関係を結んでいたのだった。
ウイリアムズバーグは17世紀から18世紀、北部マサチューセッツと並びアメリカの文化、政治の中心地として発展し、南北戦争では南軍の本拠地となった。1699年から1780年まで英国領バージニアの首都であったが、南北戦争中に首都はリッチモンドに移りウイリアムズバーグは19世紀以降、次第に存在感を失ってゆく。
これらアメリカの歴史を今に残すエリアがコロニアル・ウイリアムズバーグ(Colonial Williamsburg)である。1920年から1930年代にかけてロックフェラー家の支援で町並みや多くの建築物は18世紀当時の姿に復元された。それだけではなく、この地域の人々は18世紀の服装で町を行き交い、当時の言葉遣いで会話をする。
僕たち夫婦は町なかの1軒のレストランで食事をした。当然のように電気は来ていないので夕方になるとあたり一帯は真っ暗、人影もまばら。道路もよく見えないほどで、店の階段を上るのも覚束ない。オイルランプと蝋燭だけの夜の暮らしは、さぞかし不便だったのだろう。
しかし暗闇のなか、鉄鍋ごと供された肉料理とコーンブレッドは素朴な中にも味わい深く、その温かさとおいしさに心から感動した。忘れ難い18世紀料理となった。

アトランタ

公民権運動発祥の地

アトランタはアメリカ南東部、ジョージア州の北西部にある大都市。面積は343平方km(132平方マイル)。町の西北にはチャッタフーチー川が流れ、河川域には美しい南部大自然の名残がある。アトランタの東側に降った雨水は東に流れ大西洋に、西側の雨は南に下りメキシコ湾に注ぐのは町なかを東部分水嶺が縦断しているからである。
アトランタといえばまず、映画「風と共に去りぬ」が思い浮かぶ。原題「Gone with the Wind」のWindとは南北戦争のこと。アイルランド入植者の娘スカーレットを取り巻く人間模様と、凋落してゆく南部貴族社会を描いた大河ドラマだった。
当地ではアフリカ奴隷による綿花産業で多くの富豪が生まれた。僕たち夫婦はアトランタ郊外のプランテーションを訪ねたが、まさに「風と共に去りぬ」そのもの。豪壮な家屋敷は当時の贅沢な暮らしぶりを彷彿とさせるものだったが、広い庭の片隅にある今は使われなくなった粗末な奴隷小屋と錆びて朽ちた奴隷用足枷を見た時には心底、奴隷制度の怖さを感じた。
南北戦争は自由貿易主義の北部と奴隷酷使により農業大国を目指す南部の戦いだった。奴隷は解放されたが、そのことにより白人と黒人の対立がかえって鮮明化され差別というあらたな社会問題に発展した。とくにアトランタでは人種間抗争は熾烈をきわめた。
アトランタに生まれ公民権運動に身を投じたキング牧師は志半ばにして1968年テネシー州メンフィスで射殺された。キング牧師最後の地となったロレイン・モーテルも見学したがそのことはメンフィスの頁に記す。オーバン通りにあるキング牧師の生家、教会一帯は国立歴史地区となっている。
バックヘッドの住宅街には19世紀の反映を物語る白亜の家が立ち並び(写真1)、片や黒人街は町の片隅に追いやられている。ニューヨークやロスアンジェルスなど大都会では窺い知れない重い歴史がアトランタにはあった。

アッシュビル

「アメリカで住みたい場所」トップの優雅な邸宅地

アッシュビルはアメリカ南東部、ノースカロライナ州とテネシー州との州境を南北に流れるフレンチブロード川と東西に横断するスワナノア川が交差する東北側に位置し面積は107平方km(41平方マイル)、最大標高は650m。
アッシュビルでは驚くほど様式的な邸宅があちこちで見られる。アール・デコとネオゴシックの混在だがヨーロッパの伝統建築とは違い独特の雰囲気を持っておりアッシュビル・スタイルといってもよいのだと思う。
アッシュビルという地名は日本ではあまり知られていない。しかし2007年のRelocate-America.com でアッシュビルは「アメリカで住みたい場所ベスト100」のナンバーワンになった。その他フォーブス、アメリカンスタイルなど多くの雑誌で人気の住宅地、避暑地として頻繁に取り上げられるという。
なかでもビルトモア・ハウスは部屋数250室以上という途方もないスケールで、アメリカ最大の個人邸宅である。僕たちはグローブ・パークイン(写真1-4)という当地では歴史的ホテルに滞在した。1913年に創業された自然石をふんだんに使った豪壮な建物だ。アッシュビルという地域自体が地理風水に恵まれた穏やかな土地柄だが、見晴らしのよい丘の上に建つこのホテルのテラス周辺の空気感は格別。本当に心地よい。多分この場所が当地最高のパワースポットなのだろう。
それもそのはず。27代ウイリアム・タフトから44代バラク・オバマに至る歴代大統領がこのホテルを訪れたのだという。ロビーフロアには多くのアメリカ著名人の写真がズラリと飾られているが、僕はこういう権威主義的な雰囲気に満ちた空間は好きではない。部屋自体はさすがに昔のつくり、ふたつのダイニングとそのメニューにも落胆。もうひとつあった今風のカジュアルレストランEDISON(写真5)はとても感じ良かったが、かつての歴史的な栄光を継承しつつ現代にも対応してゆくということはとてもたいへんなことだと思った。

アスペン

銀山の町がアメリカ最高の山岳リゾートに変貌

アスペンはアメリカ西部、コロラド州中央部にあり、州都デンバーからグレンウッドスプリングス(Glenwood Springs)を経由してコロラド州道82号線で200マイルの奥深い山中にある。面積は9平方km(4平方マイル)、最大標高は2405m。
元々はインディアンのユト(Ute)族の居住地であったことからユートシティと呼ばれていた。1880年に銀鉱山が発見されヨーロッパ入植者が増大、地名も1881年にはアスペンと変更された。1890年代には銀鉱山としてアメリカ最大の生産量を誇ったが1893年の大恐慌を境に町は徐々に衰退の道をたどり、人々は町から去った。
太平洋戦争後、アスペンはアメリカを代表するスキーリゾートとして再び注目を浴びるようになる。スキーに適した雪質に加えて趣のある旧式の建物が多くある町並みが独特のラグジュアリー感を醸し出したからだ。銀鉱山マネーで設計された高品質な建築物が長引く不況で数十年間活用されなかったことが町興しに却って幸いしたのだ。
アスペン音楽祭が1949年から始まり、1950年にはスキーの世界選手権の開催地となった。1970年代にはアメリカ富裕層や多くの歌手や俳優が移り住み、またヨーロッパ・ブランドのブティックが優雅な町並みを形成し、大自然の中にアメリカを代表する山岳高級リゾートの町が出来あがった。
カントリーの歌手、ジョン・デンバー(John Denver)は当地では圧倒的な有名人。「ロッキーマウンテン・ハイ(Rocky Mountain High)」はコロラドの正式な州歌、カントリーロード(Take Me Home, Country Road)は世界的なヒットとなった。
アスペンには設備の整った素晴らしい宿泊施設がいくつもある。僕たち夫婦は勧められたこともありセントレジス(St. Regis)に宿泊したが次に行くときは当地の特色を活かした自然感あふれる山小屋風ロッジを選択したいと思っている。