セントルイス

栄光と挫折が交錯する町

セントルイスはアメリカ南東部、ミズーリ州東部にあり面積は171平方km(66平方マイル)。北部の氷河湖を源とするミシシッピ川が蛇行して南下、流域に肥沃な土壌をもたらした。自然に恵まれた当地は9世紀ころから先住民によるミシシッピ文化の中心地として栄えた。
かつて当地にはマウンド(Mound)というピラミッドと日本の古墳の中間にあたる断面台形の巨大なインディアン遺跡が数多く見られ当地はマウンドシティとも呼ばれた。しかし数百に渡るその多くは都市開発により失われた。
17世紀にはフランス領ルイジアナの中心地として繁栄し、1811年に開発された蒸気船はアメリカ北部とニューオーリンズ、そしてヨーロッパを結ぶ当地の河川交易をますます活発にさせた。セントルイスはアメリカを南北に縦断するミシシッピ川のちょうど中ほどに位置する。
鉄道の登場でミシシッピ水運は下火となるが、運よく1926年にシカゴとカリフォルニアを結ぶ産業道路ルート66が開通。セントルイスは再び交通の要衝としてアメリカ産業経済で重要な地位を占めるようになる。
1904年に万国博覧会、そしてアメリカ初となるオリンピックも開催され、セントルイスは光り輝く黄金期を迎えた。当地を象徴するゲートウェイ・アーチはフィンランドの建築家、エーロ・サーリネンの設計。ミシシッピ河畔に建つ高さ192m、幅192mの半円形はセントルイスで最も高い建築物だ(写真3-4)。
皮肉なことにこのアーチが完成した1965年頃からセントルイスの大凋落がはじまった。その後の町の空洞化はおびただしく、犯罪発生率が急増。中心部の人口は半分になってしまい、今やアメリカでもっとも危険な都市となった。
19世紀はミシシッピの水運、20世紀はルート66の陸運に恵まれた栄光のセントルイス。21世紀の100年間、この地はどんな町に変わってゆくのだろうか。

セドナ

古くは先住民の聖地、現在はヒーリング・リゾート

セドナはアメリカ南西部、アリゾナ州北部、面積は48平方km(19平方マイル)、最大標高は1319m。アリゾナ州は南北に645kmありサボテンが林立する南部の砂漠地帯は暑く、反対に北部の森林地帯は冷涼、冬には降雪もある。セドナは典型的な北部アリゾナの気候。
樹林を縫うように流れるクリークは初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々に姿を変え美しい。また凛と澄むセドナ特有の空気感、赤から紫、深い青のグラデーションに染まるロックマウンテンの夕景はまさにアメリカ大自然のハイライトともいえる。この魅力的な景観に加え、この土地特有のスピリチャルな霊力がセドナの名を世界中に広めることとなった。
かつてセドナは千年以上に渡りインディアンの信仰の中心地として崇められた土地であった。数多くの岩山、とりわけエアポートメサ、カセドラルロック、ベルロックなど7箇所の地中には巨大な磁場エネルギーがあり、これが天空に向けて渦巻状に放出されている。これをアメリカではボルテックス(Vortex)と呼び、メンタルヘルスや運気に影響をもたらすという。
セドナはコロラド台地という火山地帯の活断層上にあり今も地殻活動が続いている。また地中には鉄分とクリスタルが多く含まれ、またターコイズ、ラピスラズリなどの輝石も埋蔵されている。
実際にセドナでは心身がとても自由に感じられ、曇りのときでも風景がキラキラと輝くように思え、独特の高揚感が得られる。
セドナには何度も訪れたがとりわけ初夏と晩秋の空気感は格別。最近はパワースポットの側面だけが強調されることが多いが、それよりもこの土地ならではの季節の移り変わりや綺麗な風景を純粋に楽しむのがよいと思う。

スプリングフィールド

ランド・オブ・リンカーン

スプリングフィールドはアメリカ中西部、イリノイ州のほぼ真ん中に位置し面積は156平方km(60平方マイル)、シカゴから南西に200マイル距離。町の中心地には旧議事堂があり、いかにも州都らしい威厳のある町の佇まい。
その北側にリンカーン図書館、南側には国立公園局が管理するLincoln Home National Historical Siteがある。リンカーンの家はグリークリバイバル(Greek Revival)様式で1839年建築。ほかにもリンカーンに因んだ施設がひしめき、当地はまさしくリンカーンの町である。
リンカーン(Abraham Lincoln)は弁護士、イリノイ州議員、上院議員時代の25年間を当地で過ごし1861年に第16代大統領に選出された。
共和党始まって以来の大統領リンカーンは南部の諸州とことごとく対立。南北戦争の勃発に繋がった。しかしリンカーンは北部州連合軍を勝利に導きアメリカの南北分裂は回避されたが、終戦6日後の1865年4月15日、ワシントンで観劇中に暗殺された。
リンカーンは黒人奴隷開放を推進した人道主義者とも評されるが一方では先住民インディアンの迫害、殲滅政策をもっとも強硬に進めた大統領としても知られている。リンカーンによる1862年のインディアン・スー族酋長等38人の一斉絞首刑はアメリカ死刑史に残る記録となっている。
リンカーンホーム(Lincoln Home)の西側にあるビール醸造所Obed & Isaac’s Microbreweryで食事をした(写真4-6)。僕は食事と共に飲むビールはアンバーエールが好み。やや赤みがかった琥珀色で程よい酸味があり、少し焦げたような香りが食欲をそそる。ピルスナーは下面発酵なので冷やして飲むとうまいが、エールは発酵温度の15度から20度くらいが適温。
いずれにしてもアメリカやヨーロッパには、その時の気分や好みに応じた嗜好のバリエーションが多くあり楽しみも多いが、日本のレストランのビールは選択肢が少なくその点ではつまらない。

ストウ

「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ家ロッジ

ストウはアメリカ北東部、ニューイングランド地方内陸部バーモント州にあり、なだらかな丘陵が連続する草原と森林に囲まれた緑深い町。面積は188平方km(73平方マイル)、標高は295m。
西のマンスフィールド山、東側のパットナム州立森林公園に挟まれたバレー地帯で、町の中心をリトルリバーが流れる。トラップファミリーにとって故郷オーストリア・ザルツブルグに似ていた気候風土だったのかも知れない。第二次世界大戦さなかの1941年、彼らはアメリアへの亡命を決意、無事東海岸にたどり着きトラップファミリー合唱団として生計を立て、そしてストウの小高い丘にある農場を購入した。
トラップ大佐と7人の子供、修道女マリアが祖国を脱出しアルプスを越えて逃れる映画シーンはあまりにも有名。1959年に初演されたミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」を原作として1965年には映画化され世界的なヒット作となった。「ドレミの歌」、「エーデルワイス」はじめ音楽は「王様と私」などで知られるミュージカルの巨匠、オスカー・ハマースタイン2世が作詞し、リチャード・ロジャースが作曲した。
一躍有名になった家族は1968年にストウの農場のなかにロッジを建設、敷地は9.7平方km(300万坪)に及ぶ。映画「サウンド・オブ・ミュージック」でジュリー・アンドリュースが演じたマリアの三男ヨハネスが現在このロッジを経営している(写真1-6)。
ロッジには3泊の滞在だったがとても快適、正直なところ1か月くらい滞在したいと思った。ダイニングも素晴らしい。オーストリア料理の子牛のカツレツ、ヴィエーナ・シュニッツエル(WienerSchnitel)、デザートのザッハトルテ(Sacher Torte)も抜群だった。とくにロッジの正面玄関あたりに清々しい気力が満ちていて、この場所がパワースポットではないだろうか。トラップ大佐とマリアの眼力はさすがである。

スコッツデール

インディアンアートとイマジネーションの町

スコッツデ―ルはアメリカ南西部、アリゾナ州南部にあり面積は478平方km(184平方マイル)、最大標高は380m。北に小高く、南にソノラ砂漠が広がり、東にソルト川、西には大都市フェニックスを控える。
当地には紀元前800年から紀元1400年頃まで栄えたインディアン、ホホカム(Hohokam)族の文化遺跡がある。15世紀以降はピマ(Pima)族が居住した。
スコッツデールのランドマーク、キャメルバックマウンテンはその名の通りラクダの背の形をしていて奇妙。今にも動き出しそうにも見える。スコッツデ―ルの木々や雲、山々など自然界の造形はさまざまに人間のイマジネーションを刺激する。
同じくアリゾナ州にあるセドナのボルテックスといわれるパワースポット感とは顕かに違っていて創造心を掻き立てるエネルギーのようなものだ。建築家フランクロイド・ライトは1937年にスコッツデールの砂漠の真ん中に建築学校タリアセンウエストを創設し、20世紀のアメリカ建築に多大な影響を与えた(写真2)。
スコッツデールの土地柄に惹かれたスペインの建築家パオロ・ソレリは1970年にア-コサンティ(Arcosanti)の建設を開始した。エコロジーコンシャスとゼロエミッションを標榜した未来都市の創造である(写真3-4)。1980年代にはじめて建設途上のアーコサンティを視察したが、それから30年以上たった現在でもまだまだ進行中。完成まであと数百年かかるとのこと。
とにかく僕にとってアリゾナはもっとも好きな州、ゲートシティともいえるスコッツデールは度々訪れる場所。真冬でもプールサイドで過ごせる気候、レストラン、ショッピングモールも数多くあるし便利。ダイナミックな自然景観、林立するサワロサボテン、インディアンアートギャラリーなどなどいろんな意味で魅力にあふれている。
スコッツデールはホテルもアメリカ最高レベル。サービス、料金のバランスもよく粒ぞろいだ。僕が好きな平屋のビラタイプのリゾートもたくさんある。宿泊したなかではボールダーズ(Boulders Resort)、サンクチュアリ(Sanctuary)、ウエスティン・キアランド(Westin Kierland Villas)、フェニシアン(Phoenician)、プリンセス(Scottsdale Princess)が印象に残っている。どこもがそれぞれの地形や個性を活かしていてサービスも洗練されている。
フェニックス・エリアになるが有名なアリゾナ・ビルトモア(Arizona Biltmore)にも泊まってみたがはっきりいってがっかりした。フランクロイド・ライト設計という建物は立派だがそれ以外は平均点にも届かない。

ジョシュア・ツリー国立公園

奇妙な植物と巨石奇岩がつくる不思議な風景

ジョシュアツリー国立公園はアメリカ西海岸、カリフォルニア州南東部に位置し、面積3196平方km(1233平方マイル)は東京都の1.5倍。1994年に国立公園に指定された。
ジョシュアツリー(Yucca brevifolia)とは多肉植物リューゼツラン科ユッカ属の1種。トゲだらけの堅牢な葉と幹を持ち最大樹高15m、春に花が咲く。
この国立公園は僕が好きなアメリカ大自然の典型パターン。地殻の大変動で形成されたダイナミックな地層や巨石、そしてサボテンや多肉植物。こういう土地ではパワースポットに出会えるチャンスも多い。そして必ずといってよいほどインディアン文化繁栄の形跡が残されており、そして彼らが信仰の対象とした聖地がある。
調べてみると1855年には先住民チェマウェベイ(Chemehuev)族とカウイヤ(Cahuilla)族の住居があった。しかし1913年には当地から去ったという。彼らが独自に土地を捨てたのか、ヨーロッパ入植者の迫害があったのかどうかはわからないが、もしかしたら気候変動や水脈の変化など土地の環境に陰りが出たのかもしれない。
巨石の風景はアリゾナ州ケアフリーに近い。カタチが象徴的ないくつかの岩山に登ってみたが、ケアフリーで感じられる風が体を通り抜けるような独特の清々しさは感じられなかった。条件はそろっているが当地にはパワースポットは無いかもしれない。
現在、ジョシュアツリーはロッククライマーの人気スポットになっている。公園の北側にカリフォルニア州道62号、南側にインターステイツ10号があり、公園へのアプローチは3か所。
62号西側からジョシュア・ツリービジターセンター(Joshua Tree Visitor Center)、62号東側からオアシスビジターセンター(Oasis Visitor Center)、南側の10号からコットンウッドビジターセンター(Cottonwood Visitor Center)にそれぞれ入ることができる。見所は北西部に多いので62号の西から入り東に抜ける、あるいはその逆というのがお薦めのコース。

シェナンドー国立公園

温帯湿潤、標準的な大自然

シェナンドー国立公園はアメリカ南東部、バージニア州中部に位置し、面積は805平方km(311平方マイル)、最大標高はホークスビル・マウンテンの1235m。1935年に国立公園に指定された。首都ワシントンD.C.から西に70マイルの距離なのでもっとも大都会に近いアメリカ国立公園といえる。
細長い国立公園の北端にあるフロントローヤルという町から南のウエインズボロまで105マイルに渡るスカイラインドライブがあり、この曲がりくねった眺めのよい道路がシェナンドーの観光価値のかなりの部分を占めている。
僕たち夫婦はスカイラインドライブの中程にあるスカイランドリゾート(Skyland Resort)という国立公園内ロッジに宿泊した。国立公園に指定される40年前に出来たというので相当古い。素朴な平屋の木造は味わい深く僕が好きなタイプのロッジなのだ。シェナンドー渓谷が眼下に一望できるレストランも雰囲気がある。
シェナンドーの景観はカシ、カエデ、スズカケなど落葉樹が主体で、夏休みよりもう少し遅い時期に訪れていたら赤から茶色に染まる紅葉のグラデーションを見ることができた。なだらかな山脈と渓谷。しかしこの風景はどちらかといえば日本的ともいえる。
ただしアメリカ東部では、断崖絶壁のグランドキャニオンや巨大バイソンと出会うイエローストーンのような大迫力のシーン体験は期待できない。シェナンドーの緯度は日本本州の真ん中と同じ38度で、冬寒く、夏は蒸し暑くなる気候も日本と似ている。平均的温帯湿潤気候、つまりカシやカエデの植物相だけでなくシカやキツネが住む森の動物相も同じなのである。
圧倒的な景観がない分、気張ることなく、日本に居るかのようにゆったりと過ごせる大自然といえるが、何のためにわざわざ日本から来たかという疑問は残る。

シャーロット

かつての金鉱山、現在は世界有数の金融センターの町

シャーロットはアメリカ南東部、ノースカロライナ州南西部に位置し面積は771平方km(298平方マイル)、最大標高は229m。
インディアンのカトーバ族の居住地であった当地に、18世紀中頃スコットランド、アイルランド系のヨーロッパ人が入植した。シャーロットの地名は当時のイギリス国王ジョージ3世の王妃シャーロットから名づけられた。
1779年、シャーロットの北東部リトルメドウ・クリークで12歳の少年コンラッド・リードが金色の石を発見。それをきっかけに次々と金鉱脈が見つかり50以上に渡る金山が開発され、シャーロットはゴールドラッシュの町として大繁栄をする。1837年にはシャーロットに造幣局の支局が設置され金貨が鋳造された。ゴールドラッシュは徐々に西へ移動したが、南北戦争以降、綿織物産業の町として再び活況を呈する。
1874年に当地で開業した地方銀行はその後アメリカを代表する銀行バンクオブ・アメリカ(写真4)となり、ワコビア(Wachovia, Wells Fargo)の本社もシャーロットだ。
20世紀後半、シャーロットはニューヨークに次ぐアメリカ第2の金融都市となった。アメリカ史上はじめて「金鉱脈」が発見され、現在「金融センター」として発展を続けるマネーと「金」に縁深いゴールデンパワースポットの町なのである。
とにかく町中いたるところ大手銀行だらけ。それと関連付けられたようにメジャー系列のホテルが数多くある。しかし金融の町だけあって何となくそわそわとして落着かない。僕たち夫婦は郊外にあるバランタイン(The Ballantyne)を選択、このホテルの外観は普通のように見えて一歩中に踏み込むとかなり上質(写真4)。控えめで上品。とくに客室のインテリアは洗練の極み。カーテン素材や色柄など細かいところへの心配りも素晴らしい。さすが歴史あるシャーロット、キンキラの成金ではないのである。

サンタモニカ

歴史街道ルート66の終着点

サンタモニカはアメリカ西海岸、カリフォルニア州ロスアンジェルスの西端、サンタモニカ・ベイに面し面積は21平方km(8平方マイル)。
ロスアンジェルスの名称の由来はキリスト教における天使(The Angel)のスペイン語、サンタモニカは紀元4世紀におけるキリスト教の聖人、聖モニカ(Santa Monica)にちなんで命名された。
サンタモニカから海岸沿いに南に向かって順にベニスビーチ、マンハッタンビーチ、レドンドビーチ、ロングビーチ、シールビーチ、ハンテントンビーチ、ニューポートビーチ、ラグナビーチと続く。個人的な好みでいえばビーチの雰囲気ではマンハッタンビーチ、リゾート施設ならラグナビーチ。しかしビーチ、施設、利便性、レストランの4点を総合するとサンタモニカの圧倒的勝利。加えて近年は商業施設の発展も目覚ましく、すべてが揃う素晴らしい土地柄だ。
いいことずくめの場所ながらサンタモニカのホテルに宿泊するかといえばそこは難しい。ロスアンジェルス滞在で時間にゆとりがあり優雅に過ごしたい人たちはビバリーヒルズを選ぶことが多いからだ。僅か6マイル、車で20分の距離なので、あえてサンタモニカに滞在するなら海が見える部屋ということになる。
となるとシャッターズ・オンザビーチ、カサ・デルマール、ミラマーが候補となるが、残念なことに海側の部屋数は限られている。独特の雰囲気をもつシャッターズがやはり一番。しかしこのホテルの海岸に面した部屋に泊ったことがあるが、料金の割に部屋は狭いしコンパクト過ぎるクローゼットは荷物の多い海外ツーリストには向いていないと思った。
どうしてもビーチに面した眺めのよいホテルということならラグナビーチなど南に脚を伸ばせばよいし、ラグジュアリーなホテルはビバリーヒルズなど陸側に行けばいくらでもあるので、魅力盛りだくさんのエリアのホテル選びは案外たいへんだということである。

サンタフェ

プエブロインディアン・アートの町

サンタフェはアメリカ南西部、ニューメキシコ州の州都。面積は97平方km(37平方マイル)、2130mの標高はアメリカ州都では最高。
サンタフェは僕のもっとも好きな町。春夏秋冬すべての季節に何度も訪れたが、とりわけ初秋は素晴らしい。キャニオンロードに赤い野生リンゴが実り、サンタフェ山のハコヤナギが鮮やかな黄金に色づく。真っ青な空、乾いた風とキラキラと輝く日差しはサンタフェ特有の魅力である。
人口たった6万人の田舎町に10以上の美術館、そして数百のアートギャラリーがあり、洗練された料理を出すレストランがたくさんあり、Inn of Anasaziという上質なホテルもある。その文化度の高さは神秘的ですらある。
サンタフェには1万2千年前から人類が居住していた。11世紀にはインディアン、プエブロ(Pueblo)族が集落を形成し、当地は古来より先住民からパワースポットとして崇められてきた神聖な土地なのだ。
15世紀に入植したスペイン人がプエブロ族を制圧し1607年にサンタフェの町が創設された。1824年、メキシコ独立にともないメキシコ領となり、1846年にアメリカ支配下となった。
1958年、徐々に寂れつつあったサンタフェに景観条例が施行された。建築スタイルを2種に限定して独特の町並みをつくろうという町興しの試みである。アドビ(Adobe)煉瓦によるプエブロリバイバル(Pueblo Revival)とスパニッシュコロニアル(Spanish Colonial)である
景観条例は日本にもあるがそれは建築のデザイン様式や色彩まで規定するものではない。例えば京都の祇園花見小路の古くからある町並みにコンクリートのビルがひとつ出来ただけでも町の風景は一変する。ともかくサンタフェの厳しい条例は成功を収めた。
デザイン規制がサンタフェ・スタイルという貴重な文化価値を創出したのである。

サンタバーバラ

地震復興で生まれ変わった町

サンタバーバラはアメリカ西海岸、カリフォルニア州中部にあり面積は107平方km(41平方マイル)、ロスアンジェルスから西に30マイル。町の真南に太平洋、北側に森林が広がる地形で一年を通じて快適な気候を持つ、人が住むには理想的な土地柄だ。
この自然環境は先住民にとっても望ましい土地だったに違いない。事実、1959年に当地で1万3000年前の人骨が発見された。アーリントン・スプリングスマン(Arlington Springs Man)と名付けられたアメリカ最古の人骨である。
この人骨の子孫といわれるインディアンのチュマシ族に当地ではじめて出会ったヨーロッパ人はスペイン船の航海士フアン・ロドリゲス・カブリリョ(Juan Rodriquez Cabrillo)で1542年と記録にある。きわめて個性的な発音で言葉を話す民族だったという。
1769年にスペイン人のガスパル・デ・ポルトラ(Gaspar de Portola)もアメリカ探索中にチュマシ族に遭遇、音楽や贈り物で丁重にもてなされたという。当時チュマシ族の人口は1万人を超えていたが、その後の開発に伴い当地から追われた。
スペイン人により建設されたサンタバーバラは1812年の大地震と津波で崩壊、メキシコ領を経て1848年にアメリカ領となった。
1925年、当地は再び大震災に見舞われ町の大部分が倒壊した。行政と市民グループはあらたな町づくりを提唱し、結果としてサンタバーバラは独特のスペイン植民地時代の雰囲気を持った美しい町並みに変わった。スパニッシュコロニアル・リバイバル(Spanish Colonial Revival)という昔なつかしい様式に絞る建築規制が町に統一感を生み出したのだ。
災い転じて福と成す。建築とデザインが町に活力をもたらしサンタバーバラは現代アメリカを代表する洗練されたリゾート都市に発展したのだ。

サンアントニオ

温暖で適度に雨が降り緑ゆたかな美しい町

サンアントニオはアメリカ南西部、テキサス州内陸部の中程にあり、面積は1067平方km(412平方マイル)、最大標高は198m。アメリカのベネティアと例えられるリバー・ウォーク(River Walk)とアラモ(Alamo)が観光的な目玉。
アラモはテキサスに入植したスペイン人によりキリスト教の布教を目的として1718年に建築された伝道所。正式名称はMission San Antonio de Valero。1960年にNational Historic Landmarkに指定された(写真2-3)。
アラモの名を有名にしたのは1836年に起きたアラモ砦の13日間戦争。スペイン統治下にあったテキサス独立派百数十名が反乱を起こし、鎮圧に当たったメキシコ軍数千名と戦い、結局、全員が戦死した。後にテキサス独立の引き金となったが兵士の勇気は後々まで語り伝えられ、アラモ砦はテキサス魂を称える象徴的な史跡となった。
アラモの兵士は多くの映画でも描かれている。1960年公開のジョン・ウェイン監督「アラモ(The Alamo)」がその代表。監督自身がデイビット・クロケット役を演じた。テキサス兵のウイリアム・トラビス大佐をローレンス・ハーベイが、ジェームズ・ボウイ隊長役はリチャード・ウィドマークという豪華な顔ぶれだった。
この超大作は大ヒットしアカデミーの最有力候補となったが惜しくも賞は取れなかった。戦争が美化され過ぎている、ストーリーが史実と違うのではないかという意見が投票権を持ったジャーナリストから出たという。政界意向や大衆に迎合しないアメリカジャーナリズムの尊敬すべき一面でもある。
いずれにしてもベトナム戦争前夜の社会風潮と相まってジョン・ウェインの右寄りの政治信条が強く反映された映画であった。彼はこの映画でかなりの財産を失ったと言われている。

サワロ国立公園

砂漠に林立する大迫力の柱サボテン

サワロ国立公園はアメリカ南西部、アリゾナ州にあり面積は370平方km(142平方マイル)、最大標高はMica Mountainで2641m。1994年に国立公園に指定された。
サワロ(Saguaro Cactus)はもっとも巨大に成長する柱サボテンの1種で直径60cm、最大高は20mにもなる。正式にはサボテン科カルネギエア属、Cereus Giganteus。砂漠で発芽して10年で3mに成長しやっと片手が出てくる。
育つにつれ姿かたちは千差万別、ユーモラスな形に育つサワロも多い。片手を上げてハロー!、両手で万歳!、赤塚不二夫のシェー!もあるのだ。テンガロンハットをかぶったサワロサボテンはアリゾナの看板でよく見かける古典的キャラクターだ。
小中学生時代にサボテンに夢中になり100種類くらいを育てていた。図鑑や専門書を読んでいろいろ勉強するうちにサボテン科だけで5000種以上、なかでも好きなサボテンの殆どがアリゾナ州原産であることが判明。僕のアメリカ大自然への憧れの原点はサボテンなのだ。
アリゾナで見事なサボテンは何度も、もしかしたら何十回も見たけれど、その度にとてもうれしい気分になる。サボテンは種を蒔いて育てることもできる。普通の植物と同じように芽が出てふた葉が開く。しばらくすると葉の間から丸い小さなサボテンが出てくる。サボテンは不思議な植物で密集して植えたほうが生育がよい。競争心を刺激して土中の成分の奪い合いをするからだ。
日本にはオランダ貿易により16世紀に渡来したという。民家の軒先などでもよく見かける短毛丸(Echinopsis属Eyriwsii)という球形サボテンは日本の環境によく馴染み、10cmほどの月下美人に似た、驚くほど美しく、そして芳香性のある真っ白な花を咲かせる。
サワロ国立公園はツーソンから東のRincon Mountains側と西のTucson Mountains側のふたつのエリアに分かれている。東西では雨量と気候が少し異なり、また山から下りてくる伏流水の関係もあって巨大なサワロは東エリア、群生を見るなら西エリアがよい。付け加えるに国立公園外ではツーソンとフェニックスを結ぶ87号線沿いでサワロが林立する雄大な景色を見ることが出来る。

サバンナ

樫の大樹とスパニッシュモスが茂る

サバンナはアメリカ南東部、ジョージア州東端、大西洋に面し面積は202平方km(78平方マイル)。町なかに蛇行した川が入り交じりヨーロッパ人に植民地化される以前は湿地帯だった。18世紀にイギリス、スペイン、ポルトガルの入植者により町の基盤がつくられ、3カ国の文化が交錯したサバンナ独特の文化が形成された。
綿工業の集積地、そして港湾都市としても栄えた。サバンナはサウスカロライナ州チャールストンと並ぶ奴隷市場の中心地でもあった。1810年代の黄熱病の流行、1860年代の南北戦争の影響を受けサバンナの経済は一時停滞する。しかし1872年に綿花取引所(写真2)が設立され経済は活況を取り戻した。
チッペア・スクエアの4km四方が歴史地区に指定されていて、アンドリューロウハウス(Andrew Low House)、ダベンポートハウス(Davenport House)メルドリムハウス、(Green Meldrim House)など19世紀の政財界人の豪奢な暮らし偲ばせるコロニアル様式の素晴らしい煉瓦建築物が目を惹く。
歴史地区のほぼ真ん中にあるジュリエットゴードン・ロウハウス(Juliette Gordon Low House)は1820年築造、Juliette Gordon Low(1860-1927)はサバンナの裕福な家に生まれイギリスからガールスカウトの制度を導入した。その家の前でトム・ハンクス主演の映画フォレスト・ガンプの冒頭のタイトルバック、羽が空を舞うシーンが撮影された。この映画はウインストン・グルームの小説の映画化。
サバンナの町を歩いていてまず目につくのが樫の大樹から垂れ下がるスパニッシュモス。カリブ諸島からハリケーンに飛ばされてアメリカに渡来したという。正式にはチランジア・ウスネオイデス(Tillandsia Usneoides)といい、空気中の水分を吸収して育つエアープランツの1種で可愛い花も咲く。
ふわふわと風に乗ってどこに行こうと自由自在。寄生は樹木だけにとどまらず電線などにぶら下がって旺盛に成長する姿を見ると、そのたくましさに驚く。

ザイオン国立公園

砂漠と森林が交錯する渓谷風景

ザイオン国立公園はアメリカ西部、ユタ州南西部に位置し、面積は593平方km(229平方マイル)、最大標高は2050m。1919年に国立公園に指定された。
ラスベガスから170マイル、景色を見ながらゆっくり走って3時間。日帰りもできるためグランドサークルのなかではグランドキャニオンと並ぶ観光客の多い国立公園。ロスアンジェルスからは車で7時間くらいかかる。
数千万年前、浅い海底であった当地域に3000m以上地層が隆起する地殻変動が起き、現在のコロラド平原が出来あがった。その後コロラド川の支流ノースフォーク・バージン川の水流は砂岩を削り、長さ15マイル、深さ800mに渡る現在のザイオン渓谷が出来あがった。
ザイオンには巨大な単石が多くあり、なかでもグレート・ホワイトストーンの高さ720mはオーストラリアのエアーズロックの倍。ヨセミテのエルキャピタンに次ぐ世界二位の大きさをもつ一枚岩である。
グランドサークルの国立公園群では異なった色相の砂岩が層になっている地形をよく見る。サーモン色がエントラーダ砂岩層(Entrada Sandstone)、黄色く見えるのがナバホ砂岩層(Navajo Sandstone)と呼ばれている。ザイオンの岩肌はエントラーダ砂岩層なので風景が全体的に赤っぽく見える。
アメリカの国立公園にはふたつのパターンがあり、それは砂漠とロックマウンテンの乾いた景色。もうひとつは緑ゆたかなみずみずしい山岳森林風景がある。ザイオンはそのミックス。乾いたモハベ砂漠と湿潤なコロラド平原の境目にあり、ふたつの要素が見事に共存するアメリカでは稀有な国立公園だ。赤く染まるロックマウンテンと緑の木々が交じりあった風景がザイオンの魅力なのである。
当地における人類の登場はおよそ8000年から1万年前。今から600年前までは神秘の人々アナサジ(Anasazi)族が平地に、山岳には古代狩猟民族フレモント(Fremont)族が住んだ。ヨーロッパ入植者によるザイオン渓谷の発見は1858年と記録されている。