ロッキーマウンテン国立公園はアメリカ西部、コロラド州北部に位置し面積は1076平方km(415平方マイル)、最大標高はロングスピーク(Longs Peak)で4345m。1915年に国立公園に指定された。
デンバーから北西60マイルを行ったところにロッキーマウンテン国立公園へのゲートシティとなるエステスパーク(EstesPark)の町がある。
ロッキー山脈は3000m級の山々が5千kmに渡り南北に連なり、北からグレーシャー、イエローストーン、グランドティトンと続き、ロッキーマウンテン国立公園でロッキー山脈は最高頂点となる。
当公園は標高差により著しく生態系が異なる。下から順に山麓地帯(Montane Zone)、森林地帯(Subalpain Zone)、高山地帯(AlpainZone)と三つのライフゾーンに分類され、標高3500mまでの森林地帯にはクロクマ、コヨーテなど多くの野生動物が棲み、4000m以上の高山地帯になると樹木はまったくなくなってツンドラ気候となる。
エステスパークから車でゆっくりと走行中に道路上を悠然と歩く2頭のムース(Moose)と遭遇。最初は大きな馬かと思ったがともかくその大きさに驚嘆。とても鹿の仲間とは思えない。ムースは元々インディアンの言葉であり、英語ではAlces alces。日本ではヘラジカと訳されている。
ムースの最大体長は3m。肩高2.3mで巨大な角まで入れると体高は優に3mを超える。アメリカ国立公園における大型野生動物ウォッチングでは、ムースは灰色熊グリズリー(Grizzly Beer)、アメリカバイソン(Bison)と並ぶ人気ビッグスリーのひとつ。なかでも一番遭遇チャンスが少ないのがムースだ。僕は、グリズリーはグレーシャー国立公園で、バイソンはイエローストーン国立公園で初対面を達成した。
ちなみに最大体重ではバイソンが1100kg、ムースが800kg、グリズリーは450kgとどれもが途方もなく大きい。突然現れたバイソンと30cmくらいの距離ですれ違ったことがあるが攻撃性は感じなかった。もし戦った時の最強はといえば文句なしにグリズリーだろう。ムースはアメリカを代表するカジュアルウェアAbercrombie & Fitchのシンボルマークにもなっている。
ラ行
ロスオリボス
ロスオリボスはアメリカ西海岸、リフォルニア州南部にあり面積6.4平方km(2.5平方マイル)、標高80m、人口は1200人。ロスアンジェルスから北に100マイルの海岸沿いの町、サンタバーバラからだと州道154号で内陸に30マイルの距離。
地名のロスオリボスはスペイン語でザ・オリーブの意味だという。町並みにオリーブの樹々が青々と繁る。季節の花が咲き乱れ、地元産のワインが飲めるカジュアルで素朴なレストランがたくさんある。道に面したテラス席に地元の人々が集う。僕が好きなアメリカ田舎町の典型的なパターンだ。
静かな町なのに風景がキラキラしていて活力に漲っている。ロスオリボスはほぼ満点に近い。しかしサンタフェやタオス、大自然ではグレーシャー、マウントレーニアなどアメリカには桁外れに景色がよくパワー溢れる土地があるので満点は言い過ぎとして星は三つくらいかもしれない。
ロスオリボスはブドウの町でもある。当地を含む広いエリアがサンタバーバラ・ワインカントリーとなっていてサンタイネス・バレー、サンタマリア・バレー、ステリタヒルズ、バラードキャニオン、ハッピーキャニオンの五つAVA(American Viticultural Area)のワイン栽培地域に分類されている。
そのエリアの中でもとりわけ著名なAVAがロスオリボスの属するサンタイネス・バレーで、70のワイナリーが集中している。当地は夜になると太平洋から冷たい霧が流れ込みシャルドネ種、ピノノワール種のブドウがすくすくと育つという。
ロスオリボスの町中にあるテイスティングルームを巡ったが見たことのないラベルだらけ。ワインというのは世界各国、各地に本当に多くの銘柄があってそのバラエティの豊かさにいつも感動する。
レッドウッド国立公園
レッドウッド国立公園はアメリカ西海岸、カリフォルニア州北部海岸沿いにあり面積は315平方km(122平方マイル)、アメリカスギの一種でレッドウッドと呼ばれる巨木が茂る樹林一帯が保護されている。1968年に国立公園に指定、1980年にユネスコの世界遺産となリ正式名称はRedwood National and State Parksに変更された。
当地には樹高115mという途方もない大きさのレッドウッドがあり、この木が現在地球上に存在する最大生物といわれている。1966年に屋久島で発見された縄文杉の樹高は30mで10階建てのビルに相当する。その高さの4倍もあるので桁違いといえる。ちなみにこのレッドウッドの推定重量は730トンもありジャンボジェット機(ボーイング747-400)4台分というから驚く。
アメリカ西海岸の森林ではとんでもない大きさの木に出会う。何故これほど巨大に育つのか。四季を通じて温暖な気候、安定的で豊富な降雨量など気候のよさがその理由といわれているが、それだけでこれほど大きくなるのか。この地特有の生物を特別大きく成長させる何か不思議なエネルギーがあるのではないかと考えたくなる。
この巨木の森にはビッグフット伝説がある。アメリカでは有名な二足歩行のUMA(未確認生物)で身長2m以上、足跡のサイズは最大で47cmあるという。毛むくじゃらで筋肉隆々。先住民である当地のインディアンには古くからサスクワッチ(Sacsquec)と呼ばれていて、ロッキー山脈の西側では度々このビッグフットが目撃され論争を巻き起こしている。1967年に撮影されたパターソンギムソン・フィルムは日本のテレビでも話題になった。
ギガントピテクス(Gigantopithecus)の生き残りという説もある。旧石器時代に絶滅したとされるヒト上科の大型の霊長類で体重は推定最大540kgあったという。
レッドウッドの巨木の森は真昼でも薄暗くちょっと怖い感じがする。それでも僕たち夫婦は道端に車をとめ勇気を出してうっそうと茂る森の中をそろそろと歩いたがビッグフットの足跡すら見ることはできなかった。
レキシントン
レキシントンはアメリカ南東部、ケンタッキー州中北部にあり面積は737平方km(286平方マイル)で標高は298m。
レキシントンはフェイエット、フランクリン、ブルボンなど15の郡からなる広大なブルーグラス牧草地帯の中心地であり、ケンタッキーダービーをはじめ国際級のサラブレッド競走馬を生み出してきた土地柄でもある。
3億年前、当地は海だったという。その名残の貝やサンゴ礁の影響でレキシントン周辺の土壌はカルシウム分に富み、その土が栄養価の高い牧草を育て、連続するゆるやかな丘陵と相俟って頑丈な馬が育ってきた。
西から東に向けフランクフォートとレキシントンの間の17マイルのオールドフランクフォート・パイク(Old Frankfort Pike)と14マイルのパリス・パイク(Paris Pike)を走行した。景観道路、ケンタッキー・シニック・バイウェイ(Kentucky Scenic Byway)である。輝くようなブルーグラスが広がる牧草地帯にサラブレッドの姿が映える。ケンタッキーを象徴する何とも素晴らしい風景だ。
ケンタッキーの呼び方はインディアンに由来する。紀元前から当地に住んでいたイロコイ(Iroquois)族の言葉「草原の地」が州名になったといわれている。イロコイ族は数あるインディアン部族のなかでも異色である。
数百あったアメリカ先住民、インディアン部族はそれぞれに自尊心と独立性が強く17世紀以降にヨーロッパ人から攻撃を受けているさなかにも部族間同士で抗争を繰り返していた。しかしイロコイ族は18世紀前半にすでに他の部族や一部のヨーロッパ諸国と同盟を結ぶなど多くのインディアンのなかでは特異な存在だった。現在はニューヨーク州北部とカナダに跨る地でイロコイ連邦(Iroquois Confederacy)として存在する正式な国家である。
イロコイはオノンダーガ族、カユーガ族、オナイダ族、モホーク族、セネカ族、タスカローラ族の6部族により構成される先住民連合であるためシックスネーションズ(Six Nations)とも称される。当地以外に住むイロコイ族も含めた総人口は約125000人、1997年に正式に発行されたパスポートは世界各国でおおむね受け入れられている。
余談になるがサウスダコタ州に住むスー族(Sioux)もアメリカからの独立を模索しているが彼らの聖地ブラックヒルズの領有権を巡りアメリカ政府と対立を続けている。このことはブラックヒルズの頁に詳しく記す。
レイクパウエル
レイクパウエルはアメリカ西部、ユタ州キャニオンランズ国立公園からアリゾナ州グランドキャニオン国立公園に連なる大峡谷とコロラド川が一体となって堰き止められた中間地点にある。最大標高は1140m。
地図で見るレイクパウエルはコロラドの川幅が突然広くなった地域のように見えるが、実際の感覚では琵琶湖に匹敵する巨大な湖。全長は300Km、湖の周囲3000kmととても大きい。
レイクパウエルの名称は、1869年にコロラド川流域を調査したジョン・ウェズリー・パウエル(John Wesley Powell)から付けられた。
ゲートシティはアリゾナとユタ州の州境にあるページ(Page)。1957年のグレンキャニオンダムとグレンキャニオン橋の建設に伴いできた町である。
僕たち夫婦はページにある湖に面したワーウィーブ・ロッジ(Wahweap Lodge)に宿泊したが設備、ロケーションともに中々快適。ロッジと一体となったマリーナから出るクルーズ船でレイクパウエルを周遊したが、コロラド川を下ってきたロッキー山脈の雪解け水は冷たく清廉、空気は澄み、朝夕には赤茶から紫、ブルーに変幻するロックマウンテンの風景も素晴らしい。
一帯はレインボーブリッジ国立モニュメント、アンテロープキャニオンと合わせてグレンキャニオン国立レクレーションエリアに指定されている。レインボーブリッジの周辺は先住民ナバホ族の居留地(Indian Reservations)である。
ワーウィーブ・マリーナ(Wahweap Marina)から片道2時間、湖を横断して近くまで行き、1マイルほどのトレイルを歩いて到着。アーチ状の岩石はユタ州には数千以上あるが、レインボーブリッジは高さ87mで世界最大。
古来より先住民の宗教信仰の聖地として崇められてきたパワースポットの地であり、興味本位の撮影や観光気分でがやがやとはしゃぐことは慎まなければならない。これは日本の寺社、仏閣などでも同じこと。レインボーブリッジをくぐることは禁止されている。
ルート66
ルート66はアメリカ中西部、イリノイ州シカゴからスタートしアメリカ西海岸カリフォルニア州サンタモニカを結ぶ全長2347マイル(3755km)の旧国道。1926年に建設され1985年に廃線となりその後はナショナルシニック・バイウェイ(National Scenic Byway)に指定された。
初期には産業道路として大型トラックの物流を担い、1930年代にはカンザス、オクラホマからカリフォルニアへ向かう移住者で溢れ返った。ジョン・スタインベックは「怒りの葡萄」で、土地を求めルート66を西へ西へと進む貧しい農民の姿を描き1940年にピューリッツアを受賞、この小説はルート66をますます有名にした。
ルート66は1938年にアメリカで初めての舗装道路となった。アリゾナの国立公園やカリフォルニアへのレジャーに活用されるようになったのは乗用車が普及し出した1950年代以降である。
ふたりの若者が車で大平原を旅する連続テレビドラマ「ルート66」は大ヒットを記録した。いつしかシボレーコルベットとGMキャディラックはルート66のイメージと重なり合い、20世紀中頃のアメリカ人の上昇意欲を刺激した。1960年代に青春時代を過ごしたアメリカ人なら誰しも引退後にはコルベットかキャディラックでルート66を優雅に旅したいと願うという。
事実ルート66を走ってみると出会うのは殆どが中高年夫婦である。沿道の寂れた景色や旧式のガソリンスタンドが懐かしくかえってよい。人生それぞれにドラマがある。ルート66はアメリカの古き良き時代を象徴する道路なのである。
バクダットカフェ(写真8)は映画「バクダットカフェ」の舞台となったところ。アリゾナからカリフォルニア州に入って120マイルほど。荒涼としたモハベ砂漠(Mojave Desert)の真ん中にあるポツンと1軒屋カフェだ。映画は1989年公開、監督はパーシー・アドロン。海外からの旅行者夫婦がうらぶれたカフェに集う変わり者揃いの人々と繰り広げる不思議な人生ドラマ。ルート66にはドラマが似合うのである。
ランカスター
ランカスターはアメリカ北東部、ペンシルベニア州南部にあり面積19平方km(7平方マイル)、標高112m。アメリカ東海岸でもっとも長い川、サスケハナリバー(Susquehanna River)が町の西方に流れる。川の名はインディアン、サスケハナ族に由来する。
メイフラワー号で最初のヨーロッパ人が入植した1620年当時に2000人ほどが当地に居住していたが、その後サスケハナ族は衰退し川の名だけが残った。
ランカスターの歴史は古く、1709年に最初の移民であるペンシルベニア・ダッチが入植し、1729年に正式な町となった。
ランカスターはアーミッシュの町としても知られている。アーミッシュはカトリックの教義に厳格に従い移民当初の生活スタイルを守り続けている人々のこと。アメリカに住むアーミッシュ30万人の15%がランカスター居住といわれている。
ランカスターの郊外ではアーミッシュの家族が乗る馬車に何度も出会った。男性はつばの広い黒い帽子にあごひげ、吊ズボン。女性は髪の毛を束ねボンネットをかぶる独特のスタイルだ。アーミッシュの人々は車を所有しない、自宅に電気を引かないなど厳格なルールを定め近代技術に頼らない生活を300年以上も守り続けている。
ランカスターといえば1985年のハリソン・フォード主演の「刑事ジョン・ブック目撃者(Witness)」の印象が強烈だった。その映画で描かれていたアーミッシュの禁欲的、宗教色の強い規律に縛られた生活が重々しくちょっと恐ろしい生活にも思えた。
しかしランカスターを訪れアーミッシュの人々の生活に少しだけだが触れてみると、実はそれどころかアメリカ開拓時代のシンプルな生き方を継承している普通の人たちだとわかり、僕としてはかなりほっとしたのである。
ラファイエット
ラファイエットはアメリカ南東部、ルイジアナ州南部にあり面積は127平方km(49平方マイル)、標高は11m。
アカディアナ文化が色濃く残る美しい町、美食の町としても知られていて僕たちはブルードッグカフェで食事をした(写真5)。世界的に有名なアーティスト、ジョージ・ロドリゲの作品が100点以上も展示されていて圧巻。ケイジャン料理のレベルも高くて満足だった。
ロドリゲは1944年、当地近くのニューアイベリア生まれ、2013年没。終生「青い犬」を描き続けた。
ロドリゲの生地ニューアイベリア郊外にタバスコ(TABASCO)の製造工場がある。1868年に当地に移住してきた銀行家で美食家のエドモンド・マキレニー(Edmund Mcilhenny)という人物がタバスコペッパーの栽培を開始、TABASCOというユニークな食品を考案し製法特許を取得、現在のマキレニー社 (Mc. ILHENNY CO.)の創業に至る。
蒸留酢と当地原産の岩塩を混ぜ樫の樽で3年間熟成させるというアメリカでは珍しい発酵食品なのだ。世界170か国に輸出されるほど有名になったタバスコ。日本ではアントニオ猪木が経営するアントントレーディング社が1970年に販売契約を結び、一般に普及した。
日本ではピザにタバスコをかける人が多いがイタリアでは珍しい。メキシコの覆面プロレスラー、ミル・マスカラスは鮨を食べる時は醤油の代わりにタバスコを使うそうだ。どう食べようと勝手だが、このタバスコを開発した美食家マキレニーは大好物の生牡蠣の味付けとして考案した。
最初は牡蠣用ソースとして当地に原生していた唐辛子と岩塩を混ぜて食べていたが、それを発酵させると風味が増すことに気が付いたという。いずれにしてもタバスコがまさか世界中に普及するとはマキレニーも考えていなかったようだ。
個性的な風味はもちろんだが象徴的な瓶のデザインがこのブランドの発展に大いに貢献している。容器は発足当初から受け継がれているというから創始者マキレニーのデザインセンスは相当なものだ。煉瓦造りの本社建物も風格があって美しい(写真3-4)。
このマキレニー社はバイユーと呼ばれるワニが生息する湿原と森が交錯する真ん中にあってナビがなければ到底辿りつけない。それでも工場が近づくにつれタバスコ独特の香りが目と鼻を刺激する。
僕たちはまず製造工程を見学しそれからタバスコストアへ向かった。定番の赤いタバスコだけでなくハバロネ、更にはハラペーニョを使った緑色のタバスコなど種類も多い。瓶のサイズもバリエーション豊かで巨大なガロン瓶のタバスコには驚いた。1ガロンは3.8L、日本酒の一升瓶の2倍以上の大きさで価格は40ドルと超お買い得だったがもちろん買わなかった。
ラッセン・ボルカニック国立公園
ラッセン・ボルカニック(ラッセン火山)国立公園はアメリカ西部、カリフォルニア州中北部に位置し面積は429平方km(166平方マイル)。1914年に国立公園に指定された。
サンフランシスコから北に240マイル、車で4時間ほどの距離。マウントラッセンの標高は3187m。カナダからカリフォルニアに連なるカスケード山脈の南方に位置する。カスケード山脈はアメリカ最大の火山帯でもある。
アメリカの過去の大噴火はすべてこの火山帯から起きている。当地から北にあるオレゴンのセントへレンズ山は1980年の大噴火で山頂部分の500mが吹っ飛び、面積518平方kmの森林が消失し、200マイルに渡る高速道路が破壊された。富士山とそっくりだったセントへレンズの姿は爆発で真ん中がえぐり取られ阿蘇山に似たカルデラ山に変化した。火山噴火は恐ろしい。
ラッセン最期の巨大噴火は1630年から1670年の間だったと考えられている。現在、ラッセンの温泉は沸騰し激しく蒸気が噴出している。ラッセン大噴火から300年以上を経た現在、地下の噴火エネルギーは最大限まで高まっておりアメリカ地質研究所と国立公園局は当公園内の9か所に地震計を設置し常時火山性ガスと地殻変動の測定を行う最大の危機管理体制に入っているという。
カリフォルニアと日本は面積も近いが火山と地震災害の危険と隣り合わせという点でも似通っている。カリフォルニアにはサンアンドレアスという南北に走る断層があり度々巨大な地盤変化を起こしてきた。
1906年のサンフランシスコ大地震では3千人が死亡し22万5千人が家を失った。地震も火山噴火も一定周期をおいて繰り返す。サンフランシスコ周辺の地殻の歪みも限界に近付いており20年以内に巨大地震が発生する可能性は80%だと考えられている。
ラジタス
ラジタスはアメリカ南東部、テキサス州ブリュースター・カウンティーに属し、当地北にはビッグベンド・ランチ州立公園、南にはビッグベンド国立公園があり、リオグランデ川を挟み南側はメキシコのチワワ州となっている。
当地は数千年に渡り古代人チソス・インディアンが住むメキシコの領土だったが、その後メスカレロ・アパッチ族、18世紀以降はコマンチェ族が居住した。米墨戦争(Mexican-American War)終結4年後の1852年、陸軍将校ウイリアム・エモリー(William H Emory)が当地を調査し、その後のヨーロッパ入植者の進出により当地の先住民インディアンはほぼ壊滅した。
チソス山脈には水銀の鉱脈があり1890年頃からラジタス周辺で採鉱がはじまり多くの人が集まり活況を呈した。といっても15軒の店が開業し、居住者は50人という程度だった。1901年には郵便局も開設され大きな町へと発展する兆しが見えたが、水銀採掘の斜陽化と共に鉱山は1939年に閉鎖され、以降ラジタスは人が住まないゴーストタウンとなった。
人の気配が消えて50年以上たった1995年、ラジタスはジェームス・ガーナー主演のTV西部劇「荒野の追跡者・ラレード通り(Street of Laredo)」の撮影地で話題となり、またラジタス周辺は鉱泉地であることからスパリゾートの可能性も見いだされたこともあり近年になって急速に観光地として取り上げられだした。
加えてラジタスの周辺から恐竜の化石が大量に出土し恐竜の博物館創設の計画もあるらしい。とはいえ今のところ当地に積極的に訪れる人は少ないようだ。何しろテキサス州の中心地ダラスから車で11時間かかるという度を越した辺鄙な土地。草原と牛、それ以外見当たらない。
長時間のドライブで疲れ果てた僕たち夫婦はホテルにチェックインしたその足で併設の食堂へ。西部劇で見るのとほとんど同じタイプの木造の2階建て。バーと食堂の中間型。
テキサスの流儀に倣いステーキとバーボンを注文した。ホテルダイニングというよりカウボーイのたまり場だ。滅多によそ者が来ないのだろう、じっとこちらを観察する視線。これくらいでビビってたんじゃアメリカ奥地の旅はできないのだ。
ホテルの部屋やバーは映画で見る西部開拓時代のムード満載だったと思うが、それほど楽しめた感じはしなかったし、よくは思い出せない。それなりに緊張した旅となった。
ラグナビーチ
ラグナビーチはアメリカ西海岸、カリフォルニア州にあり面積は24平方km(9平方マイル)。
1870年代から入植者が増え、1900年代には多くのアーティストが当地に移り住み芸術活動が盛んとなった。ラグナ・カレッジオブ・アート&デザインという1961年創立の小さな美術大学もある。
ラグナビーチの北側、3マイルの海岸線および自然森と丘陵、渓谷を合わせた10平方km(4平方マイル)がクリスタルコーブ州立公園に指定されていて当地周辺の散策コースとなっている(写真1)。
アメリカで大ヒットのTVドラマ「ジ・オーシー(The OC)」の舞台として一躍有名になった新興地クリスタルコーブは当州立公園に面するPacific Coast Highwayの東側にあり、聞くところによるとその住宅価格はマリブやビバリーヒルズのベルエアに並ぶという(写真2)。
休暇でラグナビーチに滞在する場合はホテルライフが中心となる。プールサイドで本を読んだり食事をしたり、敷地の中を散歩したり。ビーチに出かけるくらいでほかにはさほど何もないのでホテルはできればよいところを選びたい。
周辺でよく知られているのは4つ。クリスタルコーブ州立公園を挟んで北側にペリカンヒル(Pelican Hill、写真4-6)、南側にモンタージュ(Montage)、更に南にリッツカールトン(RitzCarlton)とセントレジス(St. Regis)。
僕はゴージャスなロビーとか大型のビルディング形式のホテルより住宅的なビラやバンガローが好きなので、そうなるとペリカンヒルとモンタージュが双壁。両方泊まって同じ料金帯で較べたところ部屋の広さ、レストランなど施設のハード面ではペリカンヒルが上。部屋には暖炉もあってテラスもよい。建築とインテリアがやや男性的という感じもするが、これはゴルフコースと一緒になっているリゾートの特色かもしれない。
一方モンタージュのバンガローは全体的に自然観が強く優雅。どちらかといえば女性的。何といっても目の前にラグナビーチが広がっているというのが強み。ホテルの敷地と海岸線が一体となったナチュラルな花畑もかわいく個人的にはこちらがお薦め。