モンテズマキャッスル国立モニュメント

美術工芸に長けた古代人、シナグア族

モンテズマキャッスル国立モニュメントはアメリカ南西部、アリゾナ州の中央部にある。石灰岩の小高いキャニオンの岩壁20mに築かれた先住民シナグア(Sinagua)族の住居遺跡で、その10マイル北東にあるモンテズマウエルと共に1906年国立モニュメントに指定された。
農耕民族シナグアは6世紀頃から当地に住み12世紀には数千名の集落を形成し台地にアドビ煉瓦の家を建てた。岩壁に石造された5層、20部屋の遺跡は50人ほどを収容できるが、出入りには梯子を複雑に組み合わせる必要があり住居の使用目的は不明である。
遺跡周辺は清々しく何とも言えない軽やかな空気感に包まれている。よく調べてみると遺跡は少し変わった地形のなかにある。まず遺跡を中心に小川がヘビのようにぐるりと丸く取り囲み、それは城に対する直径1kmの濠のようでもある。正確にいうとモンテズマウエルから発する水がビーバークリークとなり10マイル南西に下り、遺跡を円弧で巻いてまた南西に下りベルデ川に合流している。
モンテズマウエルは地下からの湧水池。この池をシナグア族が聖地として水の流れが渦巻く真ん中に部屋を石造したのだと考えれば、この岩壁住居は彼らの信仰とも深いかかわりがあると想像できる。
当地を2回訪れた印象ではこの辺りは現在でも強いワースポットの地であることは間違いない。シナグア族は1425年頃を境に当地を去った。何が起きたのかはわからないが同じ時代にコロラドやユタ、アリゾナのアナサジ族も姿を消している。
シナグア族は高度な装飾品の加工技術を持っていたと考えられているが、それが災いして遺跡は激しい略奪に遭っている。遺跡内部へのアクセスは1951年以来凍結されていて見学できないが、ビジターセンターには復元された工芸品が展示されていた。

モニュメントバレー

1万年の歴史をもつ先住民の聖地

モニュメントバレーはアメリカ西部ユタ、アメリカ南西部アリゾナ州に跨るおおよそ70000平方Km(2700平方マイル)に及ぶ広大な地域。
迫力溢れる景観、歴史的価値からいえば文句なしにアメリカ国立公園のレベルにあるが、当地はアメリカ政府の管轄外でナバホ族の居留地(Indian Reservations)なので、正式名称はMonument Valley Navajo Tribal Park。モニュメントバレー・ナバホ族立公園である。
当地では新石器時代にすでに人類の歴史があり紀元前にはアナサジが住み、その後パイユートの土地となり19世紀からナバホが居住するようになった。モニュメントバレーがあるユタ、コロラド、ニューメキシコ、アリゾナの4州が交わるフォーコーナーズ周辺は国立公園が集中するアメリカでもっとも魅力的な自然景観を有する地域であり、多くの先住民が住んでいた。
地殻変動により隆起した台地をメサ(Mesa)といい、ひび割れが雨や風で次第に広がり峡谷(Canyon)となる。削られた峡谷は数百万年を経てロックマウンテンの風景になり、さらに浸食が進んだ残丘部をビュート(Butte)という。現在のモニュメントバレーの平地部はかつての谷底。盛り上がった山のように見えるビュートの頂上部は浸食を逃れた台地、メサだったのだ。
僕たちはケイエンタを経てモニュメントバレーに入った。突然現れるビュートの迫力、大平原のスケールに圧倒される。しかしこのダイナミックな景観はどことなく見なれた感、既視感をともなう。よく考えてみると子供のころから何度も見てきた典型的な西部劇のビジュアルなのだ。現実離れしすぎてあまりにも映画的ともいえる。
モニュメントバレーの風景は「駅馬車」、「黄色いリボン」、「アパッチ砦」などジョン・フォード監督が好んで使ったロケ場所でもある。このロックマウンテンの全体を見渡せる場所は現在John Ford’s Pointと呼ばれている。
この大自然のその後の映画への登場は「2001年宇宙の旅」、「イージー・ライダー」、「Back to The Future」などなど、数えればきりがない。モニュメントバレーの風景に見なれた感を持つ人々は世界中に増え続けているのだ。

モービル

映画「フォレスト・ガンプ」の舞台

モービルはアメリカ南東部、アラバマ州の南端、メキシコ湾岸に位置し面積は413平方km(159平方マイル)。
樫の巨木が道路を覆う。「フォレスト・ガンプ」でトム・ハンクス親子が住む大きな家の庭にも、たしか大きな樫の木があった。まさにディープサウス。1995年公開でアカデミー作品賞を獲得、世界的なヒットとなった。ちなみに冒頭の羽が舞うシーンは東隣の州、ジョージアのサバンナで撮影された。
1702年にヨーロッパ人がオールドモービルに入植した当時、このあたりはチェロキー、アラバマ、チカソー、チョクトー、クリーク、コアサティ、モービルなど多くのインディアン部族の居住地だった。
1830年にアメリカ政府はインディアン移住法を発令、当地を追われたチェロキー族がオクラホマへ向かうその道は「涙のトレイル(Trail of Tears)」として歴史に残る。インディアンが去ったその土地にアフリカから奴隷を導入し、アラバマは綿花の巨大生産地として発展を遂げた。
僕たち夫婦がモービルを訪れたのはクリスマス・イブの夜。あまり深く考えずに、ウキウキした気分で当地で一番という伝統あるレストランに食事に出掛けた時のことは今でも忘れられない。19世紀以来、連綿と白人の支配者階級を顧客としてきたのだろう。客のすべてが白人。おそらく日本人の来店ははじめてなのだろう、どう待遇してよいかわからないのだ。僕たちが店に入っていった途端に支配人の顔色と店内の空気が一変したことを覚えている。
快適とはゆかなかったが、まずまずのサービスを得て食事は出来たが、支配人はもちろんヨーロッパ系白人、注文の係はヒスパニック系、片付けは黒人というまるで映画のなかのワンシーンのようでもあった。
奴隷解放宣言から150年、しかし身分制度の名残は今なお生きていて、それはアメリカ南部、奥地に行けばゆくほど重苦しく生々しいものだった。

メンフィス

黒人音楽ブルース発祥の地、そしてキング牧師最期の地

メンフィスはアメリカ南東部、テネシー州の西端に位置し面積は763平方km(298平方マイル)、最大標高は103m。メンフィスは音楽産業の町。
ミシシッピ川沿いにあるダウンタウンの東側ユニオンアベニューにあるサンスタジオはロックンロール生みの親サム・フィリップスが1950年に創設、アメリカ音楽を語る上で欠かせない伝説的な録音スタジオである。B.B.キング、ジョニー・キャッシュ、エルビス・プレスリーをはじめ多くのスターがこの小さなスタジオから世界へ羽ばたいた(写真3-4)。
そしてその1本南側にあるライブハウスが軒を連ねる通りがビールストリート(Beale Street)だ。この道路はUSA TODAY紙で「アメリカでのもっとも象徴的なストリート」にも選出された(写真1-2)。しかし何よりもメンフィスではまず見ておかなければならない歴史的スポットがある。ロレイン・モーテルだ(写真5-7)。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師暗殺の場所である。
メンフィスは南北戦争以前には奴隷売買の市場として栄え、20世紀以降も黒人労働力を背景にアメリカ最大の綿花集積地として発展を続けた。1960年代に公民権運動が活発となり、その功労者であるキング牧師が1968年4月4日、このモーテル、306号室で凶弾に倒れた。
実際目の当たりにして驚いたのは通路脇からベッドが見えるほどの簡易な部屋だった。1964年にすでにノーベル平和賞を受けている国際的なVIPが何故このようなダウンタウンはずれの寂しいモーテルに宿泊しなければならなかったのか。奴隷制度が廃止された100年後に法の外で起きていた黒人差別についてあらためて考えさせられた。
現在、このモーテルはアメリカ政府が買い取り、永久保存されモーテルを含む周辺は国立公民権博物館(The National Civil Rights Museum)として運営されている(写真4)。キング牧師は1929年1月15日生まれ。1月の第3月曜はキング牧師の日としてアメリカ国民の祝日となっている。

メサベルデ国立公園

忽然と消えた謎の古代民族アナサジの住居遺跡

メサベルデはアメリカ西部、コロラド州南西部に位置し面積は211平方km(81平方マイル)、最大標高は2600m。1906年に国立公園に指定、1978年ユネスコ世界文化遺産に登録された。
アメリカ先住民、いわゆるインディアンの起源をかんたんに記すと、ヨーロッパ、アジアに広がった人類は徐々に東に進みベーリング海峡を越えアラスカから南にロッキー山系を伝ってアメリカに達した。ベーリング海峡は氷河期には陸地化しており、それは3万年から1万3千年前の長期に渡る。
モンゴロイドの南アメリカ最南端への到達は1万年前と発表されているから、アメリカの人類史のスタートは今から2万年から1万3千年前頃からと考えられる。
メサベルデに居住したアナサジ(Anasazi)族は狩猟採集も行う農耕民族であった。紀元前500年頃には当地の丘陵などの台地で生活し、紀元700年代には統率された集団として集落を形成した。キバ(Kiva)という宗教儀式の施設をつくり、周辺を区画割りして木造を泥で固めたアドビの家を建てた。
12世紀になると建物は石造工法となり、数千人の住居は断崖絶壁に移った。これがメサベルデの遺跡群である。複数階建てで家族ごとに住居出来る集合住宅か団地のようにも見える。200部屋あるクリフパレス、バルコニーハウス等々多くあり、当地に点在する。
しかし1425年頃に彼らは当地からいっせいに姿を消した。コロラド州のメサベルデにとどまらずユタ、アリゾナ、ニューメキシコ州の広大な地域に住む30万人の先住民もほぼ同じ時期に消えていなくなった。
この年にいったい何が起きたのか。不思議なことに遺跡には遺骨は無く、抗争や疫病の跡は見当たらないというから僕の好奇心はますます高まるのである。

マンチェスタービレッジ

バーモントのメープル街道

マンチェスタービレッジはアメリカ北東部、ニューイングランド地方バーモント州南部にあり面積は109平方km(42平方マイル)、標高は281m。東にグリーンマウンテン国立森林公園、西にタコニックマウンテンに囲まれた静かで美しいリゾート地。
バーモント州はかつてアベキナ族、モヒカン族やイロコイ族などインディアンが住む土地だった。17世紀に入るとフランス人による植民地化が進み、その後フランス領カナダ、1763年にイギリス支配化となった。1777年に反乱が勃発しバーモント共和国として独立を宣言したが、結局1791年にアメリカに併合された。
ニューヨークから車で当地に向かった。ハドソン川に沿ってくねくねと北に。ニューヨークの州都オルバニーまでトータル6時間。ニューヨーク州はカナダのオンタリオ州、ケベック州と国境を接するところまで北に大きく広がっている。エリー湖、オンタリオ湖もニューヨークなのだ。
オルバニーからマンチェスタービレッジまでは更に2時間、思いのほか時間がかかった。アメリカ北東部は西部とは違い大平原や砂漠をを地平線までまっしぐらという訳にはゆかない。日本の道路事情と一緒で渋滞もあるし料金所も多い。
僕たち夫婦は町から少し離れたタコニックホテル(Taconic Hotel、写真1-2)に宿泊した。雰囲気のある部屋に加えて洗練されたダイニングも素晴らしい。ニューイングランド地方特有の深みのあるメープルの森に囲まれた静かな場所だ。
メープルの日本名はサトウカエデ。その名の通り煮詰めた樹液は甘く香りもよい。メープルシロップはカナダのケベック産が知られているがアメリカでは当地バーモント州が最大生産地となっている。バーモント州のもうひとつの特産品はリンゴ。かつて西城秀樹が歌ったリンゴとハチミツで有名な「ハウスバーモントカレー」はバーモント州では全然知られていない。


マッキニー

過去と未来が共存する町

マッキニーはアメリカ南西部、テキサス州北部に位置し、面積は152平方km(63平方マイル)。1836年にテキサス共和国として独立国家となった当地は1845年にアメリカに併合、1849年にマッキニーの町が創設された。当地の名称はテキサス独立宣言を起草したコリン・マッキニーに因み命名された。
アメリカ4大メディアのひとつであるCNNマネー誌(CNN Money Magazine)では毎年アメリカで「もっとも住みやすい町(Best Place to Live in America)」を発表している。マッキニーは2010年に5位、2012年に2位そして2014年にはついに1位となった。アメリカには2万の自治体(市町村)があり、そのトップなので価値はひじょうに高い。
1849年にたった35人でスタートした町は約100年を経た1952年に人口1万人を超過、2014年には14万人に達した。アメリカのすべての町のなかで人口急増率ベスト5にランクされたこともあるという驚異的な成長を続ける町なのである。
優れた安全性、社会保険制度、税制、教育環境は当然のこと、マッキニーには風力や太陽光を使ったグリーンエネルギーの開発、雨水の再利用、廃油暖房など持続可能な社会を実現するためのシステムがあり、行政当局による先進的な町づくりが当地の価値を高めていることは間違いない。
一方、旧市街では古い建物はひじょうにたいせつに保護され修復して再利用されている。両極のバランスが素晴らしい。僕たちは旧裁判所周辺の歴史的な町並みをゆっくりと散策した。アンティークストアやレストランが立ち並ぶ景観はとりわけ19世紀末の古き良き時代のテキサスを彷彿とさせ、とても魅力的だ。
未来と過去がバランス良く共存する町。こういう町に住んでいる人はさぞかし快適だろうと思う。


マウントレーニア国立公園

標高4329mの高峰、聖なる山、ティースワーク

マウントレーニア国立公園はアメリカ西海岸、ワシントン州の北西部、シアトルから60マイルの距離に位置し、面積は953平方km(368平方マイル)。1899年にアメリカ5番目の国立公園に指定された。
太平洋から吹きつける湿度を含んだ風がレーニアの山岳に衝突し猛烈な雪を降らせる。この雪が数十ものダイナミックな氷河を形成した。エドモンズ氷河はアメリカ本土で最大面積、カーボン氷河はアメリカ本土で最大体積である。
レーニアの南斜面、パラダイスは夏季には高山植物が咲き乱れる景観地区(写真2-4)。しかし冬になると様相は一変、地球上でもっとも降雪量の多い地域となる。1971年冬、28.5mの世界最高積雪を記録した。
マウントレーニアは地球内部から吹き上がる火と水から出来た勇壮な独立峯。大地のエネルギーを脈々とたたえ、麓は強いパワースポットで満たされる。神々しいレーニアは数千年以上前からインディアンと霊的世界観で結ばれていた。
マウントレーニアの東側を流れるホワイト川流域には、かつてピュヤラップ(Puyallup)族、マックルシュート(Muckleshoot)族、ニスクォーリ(Nisqually族)、ヤカマ(Yakama)族などが居住し、彼らは聖なる山をティースワーク(Ti ‘ Swaq)と呼んだ。
20世紀後半からマウントレーニアをインディアンの言葉に戻す運動が起きている。2010年、ワシントン州知事はピュヤラップ族と調印し名称変更を具体化する可能性を示唆した。
国立公園内のロッジ、パラダイスイン(Paradise Inn)は1917年開業。マウントレーニア国立公園を象徴する歴史的木造建築物である。石造暖炉を設えたロビー、ウッディで温かみのあるダイニングの内装、料理も素晴らしい(写真6)。2008年にリノベーションされ耐震化工事などが施された。

マウントラシュモア国立メモリアル公園

聖地に刻まれたふたつの文化

マウントラシュモアはアメリカ西部、サウスダコタ州ブラックヒルズ国立森林公園にあり、1925年に国立メモリアルに指定された。標高1745mのラシュモア山の花崗岩にアメリカ建国と発展を象徴する4人の大統領の顔が彫られている(写真1-2)。
ワシントンは独立戦争を指揮しイギリス軍に勝利、初代大統領となった。ジェファーソンはフランスからルイジアナを買収しアメリカの領土を倍増させ、リンカーンは南北戦争で南軍を破り、ルーズベルトはノーベル平和賞を受賞した。このモニュメントはアメリカ政府の主導により彫刻家ガットズン・ボーグラムが1927年から14年間かけて建造した。
ただしラシュモア山は古くからインディアンの聖地とされており設立以来スー族による抗議活動が頻繁に起きている。一方当地から10マイル西方の岩壁にアメリカ政府に抵抗したスー族の英雄クレイジー・ホース・モニュメントの彫像づくりがコルチャック・ジオルコウスキーにより1947年から進められている(写真3-4)。40年をかけ顔の部分がやっと出来あがったが、数十年後、馬に跨る全身像が完成すると世界最大の彫刻になるという。
このふたつの彫像にそれぞれの立場から異論を唱える人が多くいる。ラシュモアは当然のことクレイジー・ホース像にも反対するスー族の人もいる。美しい大自然を切り刻み、対立するふたつの文化の英雄を競い合わせることでこの地に住む人たちの未来は拓かれるとは思えない。
しかしこのプロジェクトはすでに始まっていて、今さら後戻りは出来ない。いっそのことクレイジー・ホース像の方にもアメリカ政府の予算をつぎ込んで一気に完成させるという案はどうだろうか。16世紀以来続くヨーロッパから入植者とインディアンとの軋轢、争い。今はもう相互理解、相互利益の道を探るしか他はない。
ケビン・コスナーは学生時代にクレイジー・ホース像を見て感動、のちに映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」を制作しスー族の独自文化を世界中に知らしめた。合わせてアメリカ経済にも貢献したのだから、それは両者にとって大いに価値があったのだと思う。

マウントシャスタ

気力漲る本物のパワースポット

マウントシャスタはアメリカ西海岸、カリフォルニア州中北部シャスタトリニティ森林公園(Shasta Trinity National Forest)の北側に聳える4312mの高峰。面積8946平方km(3457平方マイル)に渡る広大な森林公園には多くの河川や湖が点在する。
当地には今から1万年前頃から先住民インディアンが住みマウントシャスタは古来より霊峰として信仰されてきた。19世紀にはシャスタ族、ニューリバーシャスタ族はじめ4部族が居住し人口は6000人前後だったという。
しかし1848年にカリフォルニアの金脈発見が契機となりゴールドラッシュが到来。カリフォルニアを目指す数万人のヨーロッパ人大移動はインディアンの領土を武力で侵略しインディアンは徐々に衰退した。
シャスタが先史時代から信仰の土地であったことを当時の入植者が知ることはなかった。しかし19世紀末以降シャスタにまつわる伝説が次第に明らかになり、また地場エネルギーの研究など土地の力の存在が知られるようになってきた。
その頃、西海岸で著名となった自然主義者で地質学者でもあったジョン・ミューア(John Muir、1838-1914)の影響力も大きい。ミューアは人間と大自然との共生、土地固有の信仰の尊重を訴えた。
パワースポットといわれる土地には大地震や噴火がつきものだ。マウントシャスタもその例にもれずきわめて危険な火山のひとつで、ひとたび爆発が起きれば1980年のワシントン州セントへレンズ大噴火を凌ぐ脅威になるといわれている。マウントシャスタの一番最近の大噴火が1786年。爆発周期が600年に一度といわれているので今世紀はひとまず大丈夫ではないだろうか。
僕たち夫婦はSiskiyou 湖畔、森の中に建つマウントシャスタリゾート(Mount Shasta Resort)に滞在した。キッチン、リビングルームを併設した広いスペースの木造ビラだ。澄み渡る空気で気分は爽快。土地のパワーも存分に吸収して満足の数日間だった。

マウンテンレイク

消えた湖が復活した

マウンテンレイクはアメリカ南東部、バージニア州の西部に位置し面積は0.2平方km(0.08平方マイル)、水面標高は1181m。湖があるジャイルズ郡ペンブロークの面積は2.8平方km(1.1平方マイル)。
マウンテンレイクは6000年前に出来たバージニア州では数少ない自然湖。この湖に流れ込む水源はなく湖が形成された理由はわからないが地震による崩落と大雨の溜水だと考えられている。
しかし19世紀から20世紀を通じて30mあった水深が2002年に突然減りだし2008年に湖は完全に消えてなくなってしまった。雨の少なさと湖底からの水漏れが原因だが、不思議なことに2013年にはまた水が溜まりだし元の湖の姿に戻った。
この現在のマウンテンレイクを自然湖というならちょっと疑問だ。湖が復活した2013年は湖のほとりにある有名なマウンテンレイク・ロッジ(Mountain Lake Lodge)が休業し大規模なリノベーション工事を行っていた時期と重なる。
マウンテンレイクが無くなったマウンテンレイク・ロッジはサマにならない。という訳でホテル工事のついでに干上がった湖の底に細工を施したかもしれないが、当地は世界遺産でも国立公園でもないただの観光地なのでとくに問題ではない。
ともかく僕たち夫婦はリノベーションが終ったマウンテンレイク・ロッジに宿泊した。南北戦争前の1856年創業の歴史あるホテルだけあって重厚な雰囲気。本館は石と木造りでロビーには立派な暖炉がある。紅葉の季節ならソファにゆったりと座り窓外を眺めつつウイスキーを飲めば最高の気分だろう。
メインダイニングも格調高いが肝心の料理は大外れだった。バージニア州の場合、何故かこういう正式なダイニングで料理がよかったことは一度もない。かんたんなメニューを素早く出してくれるStone Creek Tavernというホテルの入り口付近にあるラウンジの方が感じもよく味もよかった。

マード

1880’s Town、西部開拓時代の町

マードはアメリカ西部、サウスダコタ州中部ジョーンズ郡最大の町、東方にミズーリ川が流れる。郡の面積は2517平方km(972平方マイル)。
山岳地帯ならともかく東京都より広いまっ平らなグレートプレーンズ(Great Plains)に人口はたった千人という気が遠くなるほど人口密度が低い過疎の地である。グレートプレーンズとは北アメリカ大陸の真ん中を北から南に広がる堆積平野のことで放牧やトウモロコシの栽培に適している。
サウスダコタ州はインディアンの州としても知られている。スー族の言葉「Dakota(仲間)」が州名となった。紀元前にはパレオ・インディアンが住み、1800年頃にスー族のインディアンリザベーション(Indian Reservation)となった。
インディアンリザベーションとは白人側が条約を提示し住むことを許可した先住民だけの居留地。その地にヨーロッパ入植者の侵入が相次ぎ、西部開拓時代には白人とインディアンの抗争が頻発した。
そんな時代の町並みを再現したのが1880’s Townである。アメリカ各地から西部開拓時代の古い建造物を集めて町をつくったという。ちなみに1880年は日本では明治13年、鹿鳴館が完成したのは1883年だから日本でいうと明治村ということになるだろうか。
主旨としては京都にある東映太秦映画村が近いかもしれない。実際に当地でケビン・コスナー監督の「ダンス・ウィズ・ウルブス(Dances with Wolves)」はじめ多くの映画撮影が行われている。
1880’s Townの創始者リチャード・ハリンガー( Richard Hullinger)は1969年に14エーカーの土地を購入、3年後に80エーカーを買い足し、町づくりを開始した。ダコタホテル(Dakota Hotel)はドラパー、教会はディクソン、ウエルスファーゴ銀行(Wells Fargo Bank)と電報局はゲティスバーグから移築された。
僕たち夫婦はマードの街中のホテルに宿泊し、そこから1880’s Townに出掛けた。インターステイツ90号を西に30マイル、30分の距離だ。当時の市長の執務室も再現されていてデスクの上には今まさに使用中という感じでレトロなペンや便箋が置かれていてその臨場感には感動。ほかに鉄道駅、保安官事務所、散髪屋、レストラン、バーなどもあり、本当に西部劇の現場にタイムトリップしたようでうれしい気分になった。
雨が降りそうな重苦しい空、風がピュ―ピュ―と吹き、舞い上がる砂埃。バーの扉がガタンガタンと開閉する。今にもガンマンが現れそうな不穏な気配。そんな荒天に遭遇出来たら西部劇ムードとしては満点だが、実際には朝からカラッと晴れて清々しい見学日和となった。