オルガンパイプ・カクタス国立モニュメント


アメリカ、メキシコに跨るソノラ砂漠固有のサボテン

オルガンパイプ・カクタス国立モニュメントはアメリカ南西部、アリゾナ州南部に位置し、面積は1330平方km(514平方マイル)、最大標高は509m。1937年にナショナルモニュメントに指定された。
オルガンパイプ・カクタスは柱サボテンの一種。単幹から枝が林立する形状が楽器のパイプオルガンに似ていることから名付けられた俗称で正式にはStenocereus Thurberiという。成長は遅く、最大高の8m、幅4mになるまでに150年かかる。4月から6月にかけて白い花が夜に咲き、コウモリにより受粉され、テニスボールほどの大きさのスイカに似た風味の果実はスイカよりはるかに美味だというが僕はまだ食べたことがない。
ゲートシティはアホ(Ajo)。発音は日本語の阿呆と同じ。当地はアホ連山(Ajo Range)、アホ山(Ajo Mountain)、そして公園内を周回するアホ道(Ajo mountain Drive)などアホのオンパレードであるが、その意味は「絵を描く」こと。当地に住むインディアン、パパゴ族の言葉である。ちなみにアホ・バカ・スープ(Sopa de Ajo y Vaca)という頓珍漢な名前のメキシコ料理があるがスペイン語でAjoはニンニク、Vacaは牛肉。
アホはアリゾナ州ピーマ郡に属する面積73平方km(28方マイル)、インディアン3000人を含む人口4万人の田舎町である。19世紀に銅鉱脈が発見され20世紀前半にはアホ鉱山は大繁栄したが1983年に閉山した。
当地はメキシコ国境に接し、南に僅か3マイルの距離にメキシコ、ソノラ州ソノイタ(Sonoita)の町がある。僕はカリフォルニアやアリゾナ州滞在中にレンタカーで何度も国境を越えメキシコ側に入ったがパスポートの提示を求められた記憶もなくとても簡単だった。
ただし実はこれには大きなリスクがある。メキシコはジュネーブ条約に加盟していないのでアメリカのハーツやエイビスなどレンタカーの保険は効かないそうで、もし事故や車両盗難などに遭ったら大変なのだ。

オリンピック国立公園


アメリカ最高湿度と最高雨量、鬱蒼と茂る温帯雨林

オリンピック国立公園はアメリカ西海岸、ワシントン州にあり面積は3734平方km(1441平方マイル)、最大標高はオリンポス山で2427m。1938年に国立公園に指定、公園内のホー・レインフォレストは1981年にユネスコ世界遺産に指定された(写真1-2)。
シアトルからは直線ではたった30マイルの距離だが海峡を挟んだ反対側のオリンピック半島北端にあるので車でいったん南に迂回しタコマ、そしてオリンピアを経由する必要がある。
オリンピック国立公園はまったく異なった景観を持つ三つのエリアをひとつに統合して成り立っている。太平洋岸の海岸線、オリンピック山脈地帯、温帯雨林である。
太平洋岸の海岸線は森と砂浜が一体化され寒流が打ち寄せる壮大な眺め。海岸には巨大な動物が白骨化したかのようなゴツゴツした流木が散乱し不思議な風景をつくっている。
氷河に覆われたオリンピック山脈地帯は清涼感があり壮大。夏季には高山植物が咲き乱れ一面のお花畑となる(写真3)。西側のオリンポス山は太平洋の湿った空気の影響を受け降雪が多く氷河が見える(写真4)。反対に東側のデセプション山は乾燥した岩肌がむき出しの山岳であり際立った対比を成す。
そしてオリンピック国立公園の最大の見どころともいうべき温帯雨林。ここはまさに異界。山脈地帯の爽快感とは一転、どんより重く湿った空気が垂れこめる。昼でも薄暗い。地面はシダ類で覆われ、樹木からは苔が垂れ下がり異様な雰囲気。負のパワースポットとでも表現しようか、魔物がひっそりこちらを窺っているかのようにも感じる。とても長くは居られない。
このエリアの雨量、年間3700mmはアメリカ本土最高、湿度でもアメリカ最高を記録している。

オクラホマシティ


ゆたかな町並みの背景に先住民の末路が見える

オクラホマシティはアメリカ南西部、オクラホマ州の州都。面積は1608平方km(621平方マイル)、最大標高は396m。
1830年、アメリカ政府はインディアン移住法を制定。風が強く時には竜巻が襲いかかる痩せた不毛の土地、オクラホマをアメリカ各地のインディアンの強制移住先とした。
オクラホマは赤い(Okla)人々(Homma)、つまりのインディアンを意味する。先祖代々数千年に渡り住みなれた土地を追われた数万人のインディアンが東部から南部オクラホマに向かったその道は「涙のトレイル(Trail of Tears)」と呼ばれ今も歴史に残っている。途上、多くの死者を出したという。
その50数年後の1889年、オクラホマは突然ヨーロッパ入植者に提供されることとなった。同年4月22日、1万人以上がどっとこの地に押し掛け、我先にと土地の所有権を主張した。あっという間に白人の町と化した当地はスーナーステイト(Sooner State、早い者勝ちの州)と呼ばれた。
1928年、オクラホマで油田が発見されオイルブームが沸騰する。人々はオイルマネーを原資に川を堰き止めダムと人造湖を造り、広い土地に豪壮な住宅を建設。オクラホマは経済に恵まれた美しい町に変貌した。オクラホマ州のインディアンの人口比は減り続け、現在55部族30万人が住む。
当地出身のウィル・ロジャース(1979-1935)はインディアン、チェロキー族の末裔。映画俳優であり社会評論家としても尊敬されている。彼の名前を冠した学校はオクラホマだけで13校、ロジャース・パーク(写真2-3)、カリフォルニアのウィル・ロジャース歴史公園、テキサスのウィル・ロジャース記念センターをはじめアメリカには彼の名に因んだ施設が多くある。
オクラホマシティにあるウィル・ロジャース国際空港のターミナル正面には馬に跨ったウィル・ロジャースの彫像が飾られている(写真1)。

オークブルック

ミシガン湖畔、知性に囲まれた町

オークブルックはアメリカ中西部、イリノイ州ミシガン湖畔にある町で面積は21平方km(8平方マイル)。シカゴのダウンタウンから西に30マイルにあるこの町はポール・バトラー(Paul Butler)という20世紀初めの有名なポロ選手が開発した。
アイルランド移民の子孫であるバトラーは選手としてだけではなく、実業家として資産を築いた。バトラー・ジュニアハイスクール、バトラー・ナショナルカントリークラブなど当地にはバトラーの名前が多くみられる。
そのカントリークラブに隣接したハイアット・マクドナルド・キャンパス(The Hyatt Lodge at McDonald’s Campus)という不思議な名前のホテルに宿泊した。マクドナルドが運営するハンバーガー大学(Hamburger University)という広大なキャンパスの中にあるホテルだ。この大学は1961年創設の企業大学でマクドナルドに働く管理職が学ぶという。
ホテルは低層で天井高のあるロッジは森と湖に面し、素朴な佇まい(写真3-4)。ミッドセンチュリーのインテリア、家具にも独特のムードがある。驚いたことにこのホテルの設計は巨匠フランクロイド・ライトだった。草原様式と日本語に訳されるライトの代表的な建築手法、プレイリースタイルは地平線を強調した伸びやかな建物で平原が多いアメリカ中西部の空気感に実にピッタと合っている。
ホテルから20分ほどの距離にあるモートン樹木園(Morton Arboretum)に出かけた。草原環境の修復プロジェクトとして計画された6.9平方km(2.7平方マイル)に渡る庭園(写真1-2)。園内にあるハリー・ウィース設計の図書館にはランドスケープや植物学の蔵書が多くあり、ビジターセンターは園内の樹木や石材を再利用し建築の持続可能を追求したという。さすがにオークブルック、樹木園にもインテリジェンスが漂う。

エルパソ

国境の町

エルパソはアメリカ南西部、テキサス州最西端に位置し面積は664平方km(255平方マイル)、最大標高は1140m。ロッキー最南端であるフランクリン山脈が町を東西に二分し一帯は州立公園となっている。
アステカを征服したスペインは1659年、当地にエルパソ・デルノルテの町を創設。1821年、メキシコの独立革命によりメキシコ支配下に置かれる。しかし1848年、アメリカに敗戦したメキシコは当地を二分し北側をアメリカに割譲しエルパソとなった。
エルパソのすぐ南側にある町、メキシコ領シウダード・ファレスは治安最悪の町として名高いが最近その地位をホンジュラスのサンペドロ・スーラに譲り世界ワースト2位に落ちたという。とはいうものの僕はアメリカでは国境を越えていくつかのメキシコの町に出掛けたが、どの町も思いのほか穏やかだった。もちろん用心は必要だけれど旅の基本はチャレンジなのである。
エルパソ人口の80%がメキシコ系アメリカン人ということもあり、町の印象は80%メキシコ。タコス、エンチラーダはうまいしテキーラ、コロナビールは最高だ。コロナはカットしたライムを瓶の中に無理やり突っ込んで瓶ごと飲む。この飲み方スタイルの広告宣伝は大ヒットとなったが、それが災いして同社は瓶のリサイクルにアタマを悩ませているという。
更に気の毒なことに、コロナ禍の風評被害をモロに受け2020年から売り上げが激減している。たしかに「コロナビール(CORONA Beer)」と「コロナウィルス(CORONA Virus)」の発音はよく似ている。
エルパソの町なかをアメリカ大陸横断鉄道が走る(写真1)。現在は貨物輸送がメインだがエルパソ駅にも停まるアムトラック・サンセットリミテッド号はニューオーリンズとロスアンジェルス間を片道48時間で結ぶ。
開通間もない1872年(明治5年)には不平等条約改正交渉に渡米した木戸孝允、大久保利通、伊藤博文はじめ総勢100名の岩倉使節団が乗車した。この年、汽笛一声、新橋から横浜に日本最初の鉄道が開通した。

エバーグレーズ国立公園

大湿原に幅150km水深30cmの川が流れる

エバーグレーズ国立公園はアメリカ南東部、フロリダ半島の南端に位置し面積は13158平方km(5078平方マイル)。これは東京都の3倍にあたりデスバレー、イエローストーンに次ぐアメリカ本土で3番目に広い国立公園。1947年に国立公園に指定、1979年ユネスコ世界遺産に登録された。
エバーグレーズは生態系の多様性に富み400種の鳥類、100種の魚類が生息し、多くの珍しい植物が自生する。ワシントン条約で輸出入が規制されている希少樹木であるマホガニーの大木(写真3)も見られる。
マイアミからインターステイツ1号線を南に30マイル進むと公園のゲートシティとなるホームステッド(Homestead)の町がある。道中、車を降り幅2、3mほどの小川をそっと覗き込むとワニが浮かんでいるので吃驚仰天。何でこんなに車通りの多いしかも狭苦しいところに暮らしているかと思ったが、よく考えてみるとワニは道路が出来るずっと昔からこの川に棲む先住者なのだ。
これは序の口、国立公園エリアに入ると巨大なワニが湿地や草むらでごろごろ昼寝をしている。ワニ好きの僕としては何時間でも見ていたい幸せな光景なのだ。アメリカ7番目の大都市マイアミからたった1時間。これほど自然に恵まれた環境が地球上に残っていることに感動。
この地域のワニはおもに2種類。アリゲーター(Alligator)は最大で5mほどで口が扁平なのが特徴。恐ろしい顔に似合わず性格は温和で攻撃性はない。クロコダイル(Crocodile)は最大で6m以上になり口が尖って細長い。こちらは比較的危険といわれている。
しかしどちらのワニも僕がロソロと近づいても全然動じず無関心。何故ならワニはフロリダでは食物連鎖の頂点にいて怖がるものは何もないからだそうだ。

ウォルナットグローブ

「大草原の小さな家」ローラの足跡を辿る、ペピンの続編

ウォルナットグローブはアメリカ中北部、ミネソタ州南西部にあり面積は2.8平方km(0.6平方マイル)、人口900人に満たない小さな町。
1867年に生まれたローラ・インガルスは7歳までウィスコンシン州ペピンの大きな森の小さな家(Little house in the Big Woods)で暮らし1874年に当地に移住してきた。この時代の生活は「プラム・クリークの土手で(On the Banks of Plum Creek)」に描かれている。
収穫前の小麦がイナゴの被害に遭い、全滅。借金も増え、父親は金の工面のため東部に出稼ぎに行く、という苦難の日々が続いた。僕たち夫婦はゴードン農場とLaura Ingalls Wilder Museumでローラの住居跡を見学(写真3-6)、大きな衝撃を受けた。
それは家というより、むしろ土手に掘られた穴倉だった。しかし横穴小屋(Dugout Depression)は開拓時代の当地では普通に見られた住居だったようだ。土の家は冬は暖かく夏は涼しいが、時には牛が屋根を踏み潰して崩落することもあったという。ヘビやクモにも悩まされたという。
ローラの父チャールズはイングランド系、母キャロラインはスコットランド系の移民だった。WASP(White Anglo-axon Protestant)といわれる彼ら夫婦は、デンマークやスウェーデン移民が多かった中北部アメリカのなかで正統的アメリカ人としての誇りを持っていたと後にローラは書き遺している。
同時代のイギリスはビクトリア王朝華々しい繁栄の時代。ひきかえ新大陸の開拓民の生活は貧窮をきわめた。しかし土の家で遊ぶ絵本のなかのローラは元気はつらつ、とても幸せそうに見える(写真6)。
数々の困難にもめげない彼らには西部開拓という大きな夢があったからだ。ゆたかさとは、幸せとは。土の家を見学しながら多くのことを考えさせられた。

ウイリアムズバーグ

アメリカ草創期の町並みが残る、生きた歴史博物館

ウイリアムズバーグはアメリカ南東部、バージニア州。バージニア半島に位置する独立市。面積は23平方km(9平方マイル)。
1607年4月26日、ヨーロッパから104名のイギリス人がアメリカ大陸にはじめて入植した地がジェームスタウン、そして隣接する町としてウイリアムズバーグをつくった。先住民インディアンであるワンパノアグ(Wampanoag)族が入植者を歓待し好意的に世話をしたものの9か月後の生存者は38名だったという。インディアンから教えられたトウモロコシの栽培は多くの入植者を救った。
11月の第4木曜日が祝日となるサンクスギビングデイは入植者がインディアンを招待して感謝の宴を催したのが始まりとされる。アメリカ開拓が進むにつれインディアンは入植者から迫害を受けることになるが少なくとも17世紀の最初の頃では両者は友好的な関係を結んでいたのだった。
ウイリアムズバーグは17世紀から18世紀、北部マサチューセッツと並びアメリカの文化、政治の中心地として発展し、南北戦争では南軍の本拠地となった。1699年から1780年まで英国領バージニアの首都であったが、南北戦争中に首都はリッチモンドに移りウイリアムズバーグは19世紀以降、次第に存在感を失ってゆく。
これらアメリカの歴史を今に残すエリアがコロニアル・ウイリアムズバーグ(Colonial Williamsburg)である。1920年から1930年代にかけてロックフェラー家の支援で町並みや多くの建築物は18世紀当時の姿に復元された。それだけではなく、この地域の人々は18世紀の服装で町を行き交い、当時の言葉遣いで会話をする。
僕たち夫婦は町なかの1軒のレストランで食事をした。当然のように電気は来ていないので夕方になるとあたり一帯は真っ暗、人影もまばら。道路もよく見えないほどで、店の階段を上るのも覚束ない。オイルランプと蝋燭だけの夜の暮らしは、さぞかし不便だったのだろう。
しかし暗闇のなか、鉄鍋ごと供された肉料理とコーンブレッドは素朴な中にも味わい深く、その温かさとおいしさに心から感動した。忘れ難い18世紀料理となった。

ウィラメットバレー

オレゴン・ワインカントリー

ウィラメットバレーはアメリカ西海岸、オレゴン州北西部にあり面積は13500平方km(5200平方マイル)、南北250km、東西100kmに渡る丘陵と渓谷に囲まれた広大なエリア。
ポートランドからスタートして一路南にユージンまでウィラメットバレーを4日間で巡った。途中、小さな田舎町のニューバーグで一泊だけしたホテルAllison Innは想像以上のレベルで驚いた(写真3)。葡萄畑の中に建つホテルの外観は格好よくレストラン、バーの内装もナチュラルな雰囲気ながら洗練されている。料理も素晴らしかった。
グルメ州で知られるオレゴンでもとりわけ当地は高品質な食材の宝庫で年中グルメフェスティバルが開催されているという。Oregon Truffle Festivalはウィラメットバレーに自生する黒トリュフの食の祭典だ。ホップ栽培も盛んで、醸造所が連なるユージーン・エールトレイル(Eugene Ale Trail)と名付けられた地ビール街道もある。
更にウィラメットリバー流域に広がる葡萄畑はオレゴンを代表するワインの一大生産地となっている。当地は同じ西海岸でもカリフォルニア州の気候とはだいぶ違う。年間を通して比較的湿度が高く加えてカリフォルニアより冷涼な気候がピノノワール(Pinot Noir)の生産に適している。
フランス・ピノノワールの聖地、ブルゴーニュのコートドール(黄金の丘)とほぼ同じ北緯45度で気候風土がよく似ている。多少趣が違うがウィラメットバレーのピノノワールは今や世界トップクラスの実力だ。しかしナパバレーのOpus OneやBeringerのように地域を引っ張る有名ワイナリーが見当たらず、その点は大損をしている。
想像だが200以上もあるワイナリーが多分どんぐりの背比べ的なレベルなのだろう。誰もが知るという飛びぬけた銘柄がない。瓶に貼られたラベルデザインもいまひとつ垢抜けせず記憶に残らない。しかしそこのところがかえって好感が持てるようにも思う。

イエローストーン国立公園

アメリカを代表する国立公園。圧倒的迫力の大自然

イエローストーン国立公園はアメリカ西部、ワイオミング州を中心としてモンタナ、アイダホ3州に跨る8980平方km(3470平方マイル)の広大な国立公園。1872年、世界で最初の国立公園に指定、1978年にはユネスコ世界遺産に登録された。
大地のオーラ、そして野生動物との出会い。まさに生きいきと活動する大自然の姿がそこにはある。バイソンの群れ(写真1)、灰色熊グリズリー、ビッグムース、ハクトウワシなどなど。運が良ければ草原を疾走する灰色オオカミを見ることもできるという。
大平原を緩やかに蛇行するYellowstone River(写真2)や4万リットルの熱水が一気に50mも吹きあがるダイナミックな間欠泉Upper Geyser Basin。この公園には本当にたくさんの見どころがある。
しかしここでは観光は程々にして何もしないでのんびりと過ごす時間がたいせつだ。朝と夕に散歩、日中は遠くの景色を眺めながら本を読む、夜はワインを飲む、という穏やかなスケジュールが理想的だ。
九つある公園内ロッジのレベルは高く、とりわけOld Faithful Inn(写真3-4)はイエローストーンを象徴するロッジ。1904年開業というのですでに100年以上が経過している。吹き抜けの大空間と天井まで伸びる流紋岩の暖炉には圧倒される。
ダイニングは伝統あるロッジに相応しい雰囲気を醸し出しているが、残念なことに料理やワインのセレクションは平凡だった。言葉は悪いが中途半端な高級感。この料理が数日続くと飽きてくることは間違いない。観光客が頻繁に出入りするので騒々しいというのもある。このロッジを1泊だけにして、素朴な造りのLake Lodge Cabins(写真5-7)などで残りの数日間を質素に過ごす、というのがよいプランだと思う。

アトランタ

公民権運動発祥の地

アトランタはアメリカ南東部、ジョージア州の北西部にある大都市。面積は343平方km(132平方マイル)。町の西北にはチャッタフーチー川が流れ、河川域には美しい南部大自然の名残がある。アトランタの東側に降った雨水は東に流れ大西洋に、西側の雨は南に下りメキシコ湾に注ぐのは町なかを東部分水嶺が縦断しているからである。
アトランタといえばまず、映画「風と共に去りぬ」が思い浮かぶ。原題「Gone with the Wind」のWindとは南北戦争のこと。アイルランド入植者の娘スカーレットを取り巻く人間模様と、凋落してゆく南部貴族社会を描いた大河ドラマだった。
当地ではアフリカ奴隷による綿花産業で多くの富豪が生まれた。僕たち夫婦はアトランタ郊外のプランテーションを訪ねたが、まさに「風と共に去りぬ」そのもの。豪壮な家屋敷は当時の贅沢な暮らしぶりを彷彿とさせるものだったが、広い庭の片隅にある今は使われなくなった粗末な奴隷小屋と錆びて朽ちた奴隷用足枷を見た時には心底、奴隷制度の怖さを感じた。
南北戦争は自由貿易主義の北部と奴隷酷使により農業大国を目指す南部の戦いだった。奴隷は解放されたが、そのことにより白人と黒人の対立がかえって鮮明化され差別というあらたな社会問題に発展した。とくにアトランタでは人種間抗争は熾烈をきわめた。
アトランタに生まれ公民権運動に身を投じたキング牧師は志半ばにして1968年テネシー州メンフィスで射殺された。キング牧師最後の地となったロレイン・モーテルも見学したがそのことはメンフィスの頁に記す。オーバン通りにあるキング牧師の生家、教会一帯は国立歴史地区となっている。
バックヘッドの住宅街には19世紀の反映を物語る白亜の家が立ち並び(写真1)、片や黒人街は町の片隅に追いやられている。ニューヨークやロスアンジェルスなど大都会では窺い知れない重い歴史がアトランタにはあった。

アッシュビル

「アメリカで住みたい場所」トップの優雅な邸宅地

アッシュビルはアメリカ南東部、ノースカロライナ州とテネシー州との州境を南北に流れるフレンチブロード川と東西に横断するスワナノア川が交差する東北側に位置し面積は107平方km(41平方マイル)、最大標高は650m。
アッシュビルでは驚くほど様式的な邸宅があちこちで見られる。アール・デコとネオゴシックの混在だがヨーロッパの伝統建築とは違い独特の雰囲気を持っておりアッシュビル・スタイルといってもよいのだと思う。
アッシュビルという地名は日本ではあまり知られていない。しかし2007年のRelocate-America.com でアッシュビルは「アメリカで住みたい場所ベスト100」のナンバーワンになった。その他フォーブス、アメリカンスタイルなど多くの雑誌で人気の住宅地、避暑地として頻繁に取り上げられるという。
なかでもビルトモア・ハウスは部屋数250室以上という途方もないスケールで、アメリカ最大の個人邸宅である。僕たちはグローブ・パークイン(写真1-4)という当地では歴史的ホテルに滞在した。1913年に創業された自然石をふんだんに使った豪壮な建物だ。アッシュビルという地域自体が地理風水に恵まれた穏やかな土地柄だが、見晴らしのよい丘の上に建つこのホテルのテラス周辺の空気感は格別。本当に心地よい。多分この場所が当地最高のパワースポットなのだろう。
それもそのはず。27代ウイリアム・タフトから44代バラク・オバマに至る歴代大統領がこのホテルを訪れたのだという。ロビーフロアには多くのアメリカ著名人の写真がズラリと飾られているが、僕はこういう権威主義的な雰囲気に満ちた空間は好きではない。部屋自体はさすがに昔のつくり、ふたつのダイニングとそのメニューにも落胆。もうひとつあった今風のカジュアルレストランEDISON(写真5)はとても感じ良かったが、かつての歴史的な栄光を継承しつつ現代にも対応してゆくということはとてもたいへんなことだと思った。

アスペン

銀山の町がアメリカ最高の山岳リゾートに変貌

アスペンはアメリカ西部、コロラド州中央部にあり、州都デンバーからグレンウッドスプリングス(Glenwood Springs)を経由してコロラド州道82号線で200マイルの奥深い山中にある。面積は9平方km(4平方マイル)、最大標高は2405m。
元々はインディアンのユト(Ute)族の居住地であったことからユートシティと呼ばれていた。1880年に銀鉱山が発見されヨーロッパ入植者が増大、地名も1881年にはアスペンと変更された。1890年代には銀鉱山としてアメリカ最大の生産量を誇ったが1893年の大恐慌を境に町は徐々に衰退の道をたどり、人々は町から去った。
太平洋戦争後、アスペンはアメリカを代表するスキーリゾートとして再び注目を浴びるようになる。スキーに適した雪質に加えて趣のある旧式の建物が多くある町並みが独特のラグジュアリー感を醸し出したからだ。銀鉱山マネーで設計された高品質な建築物が長引く不況で数十年間活用されなかったことが町興しに却って幸いしたのだ。
アスペン音楽祭が1949年から始まり、1950年にはスキーの世界選手権の開催地となった。1970年代にはアメリカ富裕層や多くの歌手や俳優が移り住み、またヨーロッパ・ブランドのブティックが優雅な町並みを形成し、大自然の中にアメリカを代表する山岳高級リゾートの町が出来あがった。
カントリーの歌手、ジョン・デンバー(John Denver)は当地では圧倒的な有名人。「ロッキーマウンテン・ハイ(Rocky Mountain High)」はコロラドの正式な州歌、カントリーロード(Take Me Home, Country Road)は世界的なヒットとなった。
アスペンには設備の整った素晴らしい宿泊施設がいくつもある。僕たち夫婦は勧められたこともありセントレジス(St. Regis)に宿泊したが次に行くときは当地の特色を活かした自然感あふれる山小屋風ロッジを選択したいと思っている。

アケーディア国立公園

アメリカンロブスターの一大産地

アケーディア国立公園はアメリカ北東部、ニューイングランド地方6州における唯一の国立公園。マウントデザート島を中心に南西の小島アイル・オ・オ、ベイカーアイランド及び本土スクーディック半島の一部が対象で面積は198平方km(76平方マイル)、1919年に国立公園に指定された。
岩場の斜面や点在する小さな島々の風景はたしかにアメリカでは珍しいが、どちらかというと瀬戸内海の眺めにも似ていて日本人として正直に表現すればそれほど凄いとは思わない。急傾斜の岩場風景も海から一気に800mも駆け上る小豆島にある寒霞渓の絶景には到底及ばない。大地の基盤が花崗岩であるという点でも小豆島と同じ。
メイン州沿岸にあるマチャイアスシール島と周辺海域の領有権でカナダとアメリカは紛争中だという。国土面積世界2位と3位の大国が何故こんな小島にこだわるのかと不思議に思うが縄張りの問題はいつの時代も厄介なのだ。
公園内にはロッジはなく僕たち夫婦は島の北東部にある海岸沿いのバー・ハーバーイン(Bar Harbor Inn)に宿泊した(写真4)。外観は素朴な造りに見えるが実は歴史あるホテルで19世紀末から20世紀前半におけるニューイングランド地方の社交の場として栄えたという。テラスから大西洋が望める部屋はとても雰囲気がよい。
やや気取り過ぎにも思えるダイニングの主役は当然の如く当地名産のロブスター。オマール海老とも呼ばれる高級食材でメイン州の漁獲が90%近くを占める。ちなみにロブスターは不老不死、寿命が無い生き物といわれている。実際にはそんなことはないと思うが2009年に捕獲されたロブスターは体重9㎏で推定年齢は140歳。何事もなければ100年くらいは平気で生きるそうだ。
シーフードのバリエーションが少ないからだろうか、アメリカ人はロブスターを飛び切り珍重するが僕にはその価値があまりわからない。メイン州滞在中は結果的に毎日毎日ロブスターを食べることになったが2日目には少し飽きてきて3日目以降は食欲も落ちてくる。茹でたロブスターに溶かしバター。料理方法がどの店に行ってもだいたいワンパターンなのだ。
例えていえば日本の伊勢海老は刺身、蒸し、焼きから始まり唐揚げ、揚げ出し、鬼殻、具足煮、真丈、味噌汁などなどバラエティが豊富。ベイシックを大切にするアメリカ人気質は尊敬しているがロブスター料理にはもうちょっと変化が欲しい。

アーチーズ国立公園

大自然に架けられた巨石の大鳥居

アーチーズ国立公園はアメリカ西部、ユタ州の東南部に位置し面積は309平方km(119平方マイル)、最大標高は1732m。1971年に国立公園に指定された。
数億年前内海だった当地の最高気温は摂氏60度。強い太陽熱で海水が蒸発し岩塩地帯となり、その上部に土砂が堆積し1000m以上の厚さを持った地層が形成された。この地層が4千年前の地殻変動により隆起しコロラド川による浸食により岩塩層が溶解、水や風力の影響で岩に開いた穴が広がり特殊な地形が出来がった。
驚いたことにこの地域にはアーチ形をした巨石が2000以上もあり、総称してアーチーズと呼ばれている。とりわけデリケートアーチはアメリカ国立公園を象徴する風景として広く知られている。
コロラド州デンバー国際空港から車で6時間、さらに傾斜のきつい片道2時間のトレイルを登り切って念願のデリケートアーチに到着。やっと辿り着いたという感激もさることながら赤く染まった巨石アーチの見事なバランスに驚嘆した。高さ17m、空にそびえる岩石のかたまり。
どこか京都の平安神宮大鳥居をほうふつとさせる神々しささえ感じられる。鳥居とは神域への入り口を示し、神を祀る空間と人間が住む俗界を区画する結界であるという。かつて先住民の聖地としてこの場所が信仰の対象になっていたことは想像に難くない。
当地には紀元前後から15世紀頃にかけ狩猟採集と農耕を営む先住民アナサジ(Anasazi)族の居住地となっていた。15世紀以降はユタ州の語源となったユト(Ute)族の棲みかとなった。ユト・アステカ語族(Uto-Aztecan)に属する勇猛な山岳騎馬民族である。
アーチーズはモアブ断層の真上にあり、景観の素晴らしさに加えて強いパワースポットの土地でもある。傾斜の大きいトレイルを登っていても殆ど疲れを感じない。それどころか不思議なことに体中に清々しいエネルギーが満ちてくる。