デルマー

エネルギー溢れる静かな町

デルマーはアメリカ西海岸、カリフォルニア州南部に位置し面積は5平方km(2平方マイル)。ロスアンジェルスから海岸線沿いを南に120マイル。サンディエゴ空港から北に20マイルの距離。この地域は16世紀にスペイン人によって開拓されメキシコ領となり、1850年に敗戦したメキシコからアメリカに割譲されカリフォルニア州に併合された。
デルマーの夏は乾燥して涼しく、冬は湿潤。四季を通じて穏やかな気候に恵まれている。当地南側にはトーリーパインズ州立保護区が広がり、更にその南にラホヤ(La Jolla)の町がある。共にサンディエゴ都市圏の高級リゾート地として知られるが、ピーンと張りつめた静謐なデルマーに較べ、観光地化が進んだラホヤの雑然感は否めない。
デルマーの東隣にランチョ・サンタフェという小さな町がある。ひと気も少なくどこにでもありそうな田舎町に見えるが、実は知る人ぞ知る凄い住宅街。世帯平均年収がアメリカトップ。しかし華やかな高級住宅地感はどこにもない。ビル・ゲイツやアーノルド・シュワルツネガーなど高額納税者がひっそりと住むというが、当地を車で走ってもそれらしき住宅はどこにも見当たらない。富豪の敷地には森や谷があり空からでないと建物は見えないという桁外れのスケールなのだ。
デルマーは海沿いの綺麗な景観をもった抜けのよい明るい町。対象的に内陸側にあるランチョ・サンタフェは深い緑に囲まれた町。しかし共通するのはどちらの町もとても強い土地のオーラを発していて、静かな中にも溌剌としたエネルギーを感じる。
ランチョ・サンタフェではバレンシア(The Villas at Rancho Valencia)という広い敷地に建つビラ・リゾートに一度滞在したことがある(写真6)。内装は伝統的なスペイン風でやや古臭く感じたが、近所の人が食事に訪れるダイニングの雰囲気はさすがにエレガントだった。

デビルスタワー国立モニュメント

未知との遭遇、いったい何だ!この山は

デビルスタワーはアメリカ西部、ワイオミング州北東部に位置し、面積は5.5平方km(2.1平方マイル)、最大標高は1558m。1906年に国立モニュメントに指定された。
デビルスタワーといえばスティーブン・スピルバーグ監督「未知との遭遇」 のインパクトがあまりにも強烈。映画のラストシーンで山頂に円盤が舞い降りる。宇宙人が人類とコンタクトする謎の場所、それはデビルスタワーだった。
映画のイメージとどうしても重なるけれど、実際にデビルスタワーの麓に立つと今にも何かが起きそうな不思議な感覚に見舞われる。ワイオミングの穏やかな草原地帯の風景と、何の脈絡もなしにドンと突き出た独立峰の組み合わせはあまりにもミスマッチ、とにかくSF的な眺めなのだ。
デビルスタワーは古代より当地に住むインディアン・スー族、カイオア族、アラパホ族をはじめ20を超える部族の崇拝の対象となってきた。観光客増大とロッククライマーの出現により先住民は信仰のための祭祀が困難になったが、1994年にクリントン大統領が制定したインディアン聖地保護政策により伝統文化が復活しつつある。
実は山のように見えるかたまりは巨岩、ひとつの石だそうである。2億年前、中生代三畳紀の火山活動で噴火したマグマが厚い堆積岩層を突き破って垂直に吹きあがり、そのまま冷えて現在のデビルスタワーの形をした硬質の溶岩塊(響岩質斑岩)が地中に出来あがった。その後数千万年かけて周辺の堆積岩層が浸食されデビルスタワーが地上に出現したという。
デビルスタワー周辺の草原はプレーリードッグの一大生息地帯でもある。傍に近寄る人間にはお構いなし。小さな体を背伸びさせ、ひたすら遠くだけを眺める姿は何ともほほえましい(写真4)。悪魔の塔に圧倒された僕たち夫婦の緊張感はすっかり緩んでしまうのだった。

デッドウッド

西部劇、伝説のヒーローが集う死の森

デッドウッドはアメリカ西部、サウスダコタ州ラピッドシティから北西に40マイル、標高1382m、人口1300人余り。小さな田舎町だが、西部開拓時代には金鉱掘り、ガンマン、ギャンブラーなど数万人がたむろしたアウトローの町であった。
デッドウッドは古くからインディアンが住むブラックヒルズの北東部に位置する。当地はアメリカ各地から強制移住させられたスー族の居留地として、白人の居住どころかこの地を通過することさえ禁じられていた。しかし1874年に金鉱脈が発見され、法を守らないヨーロッパ入植者が続々押し寄せてきた。このことはブラックヒルズの頁に詳しく書いた。
いずにしても百数十年前、当地では日常的に争いが起きていた。保安官ワイアット・アープ、女流拳銃使いカラミティー・ジェーン、騎兵隊カスター将軍、インディアンの英雄クレイジー・ホースなど西部劇映画のレジェンドがオールキャストで入り交じり、結果的にバタバタと多くの人が死んでいった。
正義の殺し屋ワイルド・ビル・ヒコック(Wild Bill Hickok)は運悪く出入り口に背を向けて座った酒場Saloon No.10で後ろから撃たれて死んだ(写真1-2)。その時、手に持っていたポーカーの札はAceと8のツーペア。この手役は以来Dead Man’s Handと呼ばれている。
1989年、賭博は合法化され町は健全に再生されたが無法時代の面影が今も残る。町なかのミッドナイトスター(Mid Night Star)で食事をした。ケビン・コスナーが兄弟で経営しているサロンだ。映画「ダンス・ウィズ・ウルブス(Dance with Wolves)」で使用された衣装や小道具が展示されていて中々楽しめる(写真4-5)。
チェロキー族の血統を引くケビン・コスナーは町の北側にバイソンの博物館Tatankaを設立し、インディアン文化の啓蒙に多額の私財を投じている(写真6-7)。


デスバレー国立公園

荒々しい大地。灼熱の太陽

デスバレー国立公園はアメリカ西海岸、カリフォルニア州とネバダ州に跨るアメリカ本土最大の国立公園。公園面積13158平方km(5078平方マイル)は東京都の6倍。最大標高はテレスコープ峠で3368m、最低地点はバッドウォーターでマイナス86m。1994年に国立公園に指定された。
空気が極度に乾燥しているため、少々雨が降っても地上まで届かないという過酷な環境。摂氏35度以上の気温が年間8か月続き、真夏の最高気温は56.7度を記録したという、デスバレーはまさに死の谷なのだ
僕はアメリカで摂氏45度を体験したが日本の夏の暑さとはかなり違う感覚だった。汗を全然かかないのでそれほど不快感はない。しかし高温乾燥下では体からみるみる水分が奪われてゆく感覚がありそれに応じてどんどん水を補給しなければならない。そして気を付けるべきは帯電した車や金属のドアノブだ。不用意に触ると痛い目に遭う。バチっと静電気の火柱が飛び、相当恐ろしい。
これほど気温が高くなるとレストランやホテルは猛烈にエアコンを効かすのでたいていの日本人は暑さそのものより温度差と乾燥で体調がおかしくなる。しかしヨーロッパ系の白人はこういう環境下でもいたって平気、すこぶる元気である。
つけ加えるとアメリカの風邪薬や鎮痛薬は少し危険。成分が強いので日本人は四分の1に割って飲むと良いとよくいわれる。彼らは酒にも強くほとんど酔わないので驚いたこともある。西部開拓時代、この過酷な死の谷を越え更に西へ西へと進んだ人々が現実にいたかと思うと、その体力と精神力にあらためて驚く。
ファーニスクリーク(Furnace Creek)にビジターセンターがあり博物館もある。西部劇に出てくるようなFurnace Creek Innのビラとレストランは簡素だがたいへん雰囲気がよい。
なおデスバレーのレーストラック・プラヤ(Racetrack Playa)という地域で夜中に岩石が数十m移動する不思議な現象が度々目撃されている。1年に数十km移動したという報告もある。これはセーリングストーン(Sailing Stone)と呼ばれていて、今までに多くの科学者やNASAも調査
したそうだがはっきりとした理由はまだわかっていない。
2014年にアメリカの機関Scripps Institution of Oceanographyが2年がかりの研究により、セーリングストーンは岩石が氷に押されて動く現象という発表を行い一件落着したかに見えたがその後に新説が出てくるなど謎が完全に解明されたわけではなさそうだ。

デ・スメット

「大草原の小さな家」、ウォルナットグローブの続編

デ・スメットはアメリカ西部サウスダコタ州東部キングスバリー郡にあり、面積は3.0平方km(1.2平方マイル)、最大標高は526m、人口2010人の小さな町。
ローラ・インガルス・ワイルダー(Loura Ingalls Wilder)は1867年にウィスコンシン州ぺピンに生まれ、1874年にミネソタ州ウォルナットグローブ、1879年にデ・スメットに移住した。
1885年、18際になったローラはアルマンゾ(Almanzo James Wilder)と結婚。しかし夫はジフテリアに感染し脚が不自由となる。また1889年には長男フレディが死亡、同年火災のため住居を失い、旱魃により農場の権利も失った。
1年間ミネソタの農場に暮らし、1891年にアルマンゾの療養のためフロリダに移住するが翌年再びデ・スメットに戻りローラは裁縫、アルマンゾは鉄道人夫として働くこととなった。
ローラが住んだ開拓農地(写真3-4)、ローラ記念館(写真5-6)などを見て回ったが、ローラ・インガルスに纏わる施設以外にこれといって見るべきものは何もない閑散とした田舎町だった。
デ・スメットは「大草原の小さな家」、「長い冬」「シルバーレイクの岸辺で」、「この楽しき日々」、「はじめの4年間」に頻繁に登場するのでローラにとってもっとも思い出深い町だったのだろう。
当地での生活も困窮をきわめ1894年にミズーリ州マンスフィールドに最後の移住を決断。なけなしの全財産をはたいて買った小さな農地を少しずつ増やし、20年もの努力を積み重ね果樹園、牧場、養鶏場をつくり0.8平方km(24万坪)まで所有地を広げた。
インガルス一家の西部開拓の夢はようやく実を結びつつあった。このときローラは50歳。世界的ヒット「大草原の小さな家」刊行まであと十数年を費やすこととなる。

ツーソン

スペイン統治時代の面影を残す町

ツーソンはアメリカ南西部、アリゾナ州の南東、総面積は505平方km(195平方マイル)、最大標高は727m。
同じ南アリゾナでもフェニックスは砂漠地帯、ツーソンは山と川に囲まれた緑ゆたかな町。ツーソンには銀と銅の鉱脈があり、さまざまな輝石も産出する地下資源の町でもある。
当地は数千年来、インディアンの居住地だったが1539年にスペイン人による入植がはじまり、アメリカ・メキシコ戦争が終結する1848年まで300年以上に渡りスペイン統治下にあった。現在でもスペイン文化の影響がきわめて大きい町として知られている。
西部開拓時代のツーソン周辺では鉱山、牧場の利権を巡ってならず者が往来し数々の西部
劇の舞台となった。「OK牧場の決斗(Gunfight at the OK Corral)」は有名。1957年公開のパラマウント映画ではワイアット・アープをバート・ランカスターが、ドク・ホリディをカーク・ダグラスが演じ、監督ジョン・スタージェスの代表作品となった。
これは1881年、ツーソンから南西80kmにあるツームストン(Tombstone)で実際に起きた事件。ワイアットは1848年生まれで幕末の志士と同世代。アメリカには日本ほど歴史好きはいないが、それでも日本の坂本龍馬に匹敵するほど保安官ワイアット・アープの人気は絶大。20世紀以降の数々の小説や映画に登場する。
1994年公開の映画「ワイアットア―プ(Wyatt Earp)」ではケビン・コスナーが主役を演じ、また2001年にはロバート・B・パーカーが「ガンマンの伝説(Gunman’s Rhapsody)」というタイトルで小説にした。
ツーソンへは何度も訪ねたがホテルはLoews Ventana Canyon ResortとWestin La Palomaの印象が良かった。ツーソンの少し北にMiraval という素晴らしいスパリゾートがあり、このホテルを設計したクローダ・オーブリー(Clodagh Aubry)さんは僕の30年来のニューヨークの友人。環境主義者であり現代アメリカを代表する女流建築家である。

チャールストン

18世紀、アメリカ最大の貿易港

チャールストンはサウスカロライナ州東部沿岸、複雑に蛇行したアシュレー川とクーパー川に挟まれた半島に位置し、河口は深く大きな入江となっていて港湾都市として発展する素地を備えている。面積は348平方km(147平方マイル)。大自然と生態系の多様性に恵まれ、町の北側にはフランシスマリオン国立森林公園が広がり、さらに北にはモートリー湖、マリオン湖があり野生動物保護区となっている。
1670年、イギリス入植者により集落がつくられイギリス国王チャールズ2世にちなみチャールズタウンと命名された。領有権を主張するスペインやフランス、そして先住民との幾多の争いを経て次第にカロライナ植民地の中心地として発展してゆく。
18世紀に入り当地は大西洋貿易港として繁栄をきわめた。当時のヨーロッパでは鹿皮は馬具や書籍装丁用として大量の需要があり、文明化五部族の先住民から供給される鹿革を輸出、アフリカから奴隷を輸入した。
文明化五部族(Five Civilized Tribes)とはヨーロッパ入植者の生活文化を受け入れたチェロキー、クリーク、チカソー、チョクトー、セミノールのインディアン5部族を指し、彼らは独立戦争、南北戦争の徴兵にも応じた。
チャールストンは戦争、大火事、ハリケーン、洪水など度重なる災害に見舞われた土地でもある。1886年のチャールストン大地震では多くの建物が倒壊、1989年のハリケーン・ユーゴーの被災は記憶に新しい。しかし輝かしい過去の歴史を持つチャールストンの人々にとって町並み保存は最大の課題であり、莫大な財政投入により現在の美しい町が維持されている。碁盤の目のように区画された歴史地区はイギリス人が入植した1670年にすでに計画されていたという。

タオスプエブロ

今もなおプエブロ族が住むアメリカ最古の木造集合住宅

タオスはアメリカ南西部、ニューメキシコ州中北部タオス(Taos)の北側3マイルに位置し、面積は0.08平方km(0.03平方マイル)、標高は2130m。サンタフェから北に70マイルの距離にある。
タオスプエブロは13世紀に築かれた赤褐色のアドビ(Adobe)煉瓦で建てられたインディアン、プエブロ(Pueblo)族の住居遺跡。そして現在も百人前後のプエブロ族が実際に生活を続けている。1978年、ユネスコ世界文化遺産に登録された。
アドビとは日干し煉瓦のこと。粘土にわらや砂などを混ぜ、型に入れ天日にさらして乾燥させた建築材料。アドビを積み上げ表面を泥で塗り固めて建物を強固に保つ。吸収した太陽熱をゆっくり放出するため夏は涼しく冬は暖かい。防音性、耐久性にも優れていると考えられている。
アドビは南北アメリカ、中東、北アフリカ、スペインでも利用されているが、タオスプエブロの土の家はとりわけ素晴らしい。やわらかい曲線と面で構成された建築造形はニューメキシコ州の乾いた大地、澄み切った真っ青な空と見事に調和して美しい。
タオスプエブロは16世紀にスペイン人による侵攻、その後のメキシコ支配、1847にはアメリカ軍の包囲攻撃を受け最後には陥落した。しかし1970年、リチャード・ニクソン大統領は当地をアメリカ領から除外しプエブロ族に返還した。
タオスプエブロは北に山脈(写真4)が聳え、西にリオグランデ川(写真6)、南に土地が開けた地理風水に優れた土地柄。集落の中を流れる小さな川(Red Willow Creek、写真5)は、古来プエブロ族に聖地として崇められてきたブルー湖(Blue Lake)から流れ出る。澄みきった空気感が清々しく強いパワースポットの土地である。
当地はアメリカ政府に保証された先住民居留区(Indian Reservations)であり観光目的での土地開発はできない。またブルー湖に無許可で訪れることも禁止されている。

ダイアースビル

映画「フィールド・オブ・ドリームス」撮影地

ダイアースビルはアメリカ中西部、アイオワ州北東部にあり面積は14.6平方km(5.6平方マイル)。アメリカは世界有数の農業大国。アイダホといえばポテト、アイオワはコーン。見渡す限りのトウモロコシ畑。その景色は海原に似て、風になびく繁った葉は押し寄せる波のようで生命力に溢れる。
そのトウモロコシ畑を抜け出たところに小さな野球場はあった。「フィールド・オブ・ドリームス」はW.P.キンセラの小説「シューレス・ジョー」の映画化。
レイ・キンセラはトウモロコシ畑で不思議な声を聞く。そのインスピレーションをきっかけに畑を切り拓き、野球場をつくったことからファンタジーがはじまる。ケビン・コスナー主演、1989年公開でアカデミー作品賞を受賞した。撮影場所は元通りの畑となったが、映画を懐かしむ人の声が集まり再び野球場に戻されたという。
明るいグラウンドは弾けるようなエネルギーに満ちていた。まさにパワースポットともいえる高揚感。何もない広大な畑の真ん中なのでそんなはずはないと思うが元々特別な土地だったのかも知れない。あるいは映画撮影という創造を通じて土地の気力が高まったのか。いずれにしてもカラダがスッと軽くなるような気持ちよい空気感に包まれたフィールドだった。
ちなみにアメリカのトウモロコシ生産量は世界トップ、その最大生産地がアイオワ州。そして莫大な量のトウモロコシの30%が再生可能エネルギー、バイオマス・エタノールに変わる。
ガソリンにエタノールを混合するのはアメリカでは常識。「E10」というのはエタノール10%で、これが標準。アメリカ最高峰のモーターレース、インディで使用される燃料は「E85」、つまりバイオエタノール85%と規定されている。