ホワイトマウンテン国立森林公園

森と渓谷のパワースポット

ホワイトマウンテン国立森林公園はアメリカ北東部、ニューイングランド地方ニューハンプシャー州北部からメイン州西部に跨り面積は3039平方km(1173平方マイル)。1918年に国立森林公園に指定された。メイン、ニューハンプシャー、バーモント、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカットの6州をニューイングランド地方と呼ぶ。
当森林公園を横断する全長100マイルのホワイトマウンテン・トレイルはナショナルシニック・バイウェイに指定されている。アメリカでは道路を学術や観光資源の側面から評価し格付けを行っている。
考古学、文化、歴史、自然、レクレーション、景観の6項目を審議し120か所がナショナルシニック・バイウェイに、更に30か所が最高ランクの道路としてオールアメリカンロードに指定されている。歴史街道「ルート66」、ミシシッピに沿って走る「グレートリバーロード」などが有名。
当森林公園で最高峰がワシントン山で標高1917m。かつて神聖な山として当地に住むインディアン部族の信仰の対象となっていて入山も固く禁じられていた。山頂近くには行っていないので感覚はつかめなかったがパワースポットの地であることは間違いない。川に沿ってトレイルを歩いたが吹き渡る風は爽快で気力に満ちていた。
ワシントン山は突然猛烈な風が吹く危険な山としても知られている。その風力は桁外れで103m(時速372km)という風速世界2位の記録もある。東西の風が山頂付近で衝突するという地理に加えて北方の冷たい風と南の暖気が交錯する特殊な気象条件が重なって起きる現象だという

ホワイトサンズ国立モニュメント

見渡す限り、真っ白な砂の雪景色

ホワイトサンズ国立モニュメントはアメリカ南西部、ニューメキシコ州南部、面積は710平方km(275平方マイル)、最大標高は1218m。東にサクラメント山脈、グアダルーペ山脈、西をサンアンドレアス山脈に囲まれたトウラロサ盆地にあり、1933年に国立モニュメントに指定された。メキシコ国境の町、エルパソから100マイルの距離にある。
白砂の海岸は世界各地にあるがこれは白褐色の石英砂が強い太陽に反射して白く見えるもの。しかしホワイトサンズでは手に取ってじっくり見ても正真正銘の純白の砂。この砂はアラバスター(雪花石膏)という結晶物で、数億年前に海洋だった当地域が大陸移動と土地隆起、太陽熱と複数回に渡る氷河期を経て石灰岩、石膏、塩分の堆積物が凝縮したという。
写真で見ると雪景色のようにも見えるがここはアメリカ最南端、全然寒くないし、真っ白な砂丘風景は美しいというより不思議世界という感が強い。
不思議つながりで、余談。ホワイトサンズの東にロズウェルという町がある。ロズウェル事件(Roswell UFO Incident)で一躍世界中に名が知られた町である。その事件とは空飛ぶ円盤が墜落し残がいをアメリカ空軍が回収したという前代未聞の騒ぎ。
出来事はいったん収束したが、のちの1978年にJesse Marcelという空軍少佐がテレビのインタビューで、円盤に搭乗していた異星人の遺体の存在について爆弾発言し再度大騒動となった。数多いUFOとの遭遇事件のなかで、もっとも信憑性が高い事例だと言われている。
元々当地ニューメキシコ州南部ではUFOの目撃談が多いという。ホワイトサンズにはアメリカ空軍の核ミサイルのテスト基地があり、それが関係しているという説もあるが、真偽は不明。期待はあったが、ともかく僕たち夫婦は空飛ぶ円盤を見ることは出来なかった。

ホットスプリングス国立公園

スパの始祖バスハウス、伝統的な温泉療養地

ホットスプリングス国立公園はアメリカ南東部、アーカンソー州中央部に位置し、面積22平方km(9平方マイル)は国立公園では最小。最大標高は317m。1921年に国立公園に指定された。
源泉地帯となるノースマウンテン、ウエストマウンテンおよびその谷間のバスハウス・ロウが公園エリアだが、商業施設やホテルが立ち並ぶ景観はアメリカ国立公園としてはきわめて異質。
当地は数千年に渡りインディアンが居住し温泉は身体保養に活用されていた。1541年にスペイン人によって発見され、17世紀にフランス人が入植した。
1875年に当地でははじめての高級ホテル、アーリントン(Arlington)が開業、歴代大統領をはじめマフィアの大親分アル・カポネも定宿にしていたという歴史的ホテル(写真4)、同年にホットスプリングス鉄道も開通し温泉観光地として徐々に発展してゆく。
しかしバスハウスの入湯者数は1946年の64万人をピークに徐々に減少しだす。長らく滞在し療養するバスハウスは現代生活には向かない。洗練されたデイスパやスパリゾートの普及、医学の進歩も遠因。そのせいか町全体の寂れた感じは否めない。
アーリントンに2泊したがさすがに老朽化がひどくホテルとしての基本機能は無いに等しかった。ホットスプリングスの南方のハミルトン湖周辺には近代的なリゾート施設が多くあり、滞在はこちらがお薦め(写真1)。
ホットスプリングス出身の有名人がいる。ビル・クリントン42代大統領だ。小学生から高校卒業まで育った家は国立公園エリアのバスハウス・ロウから車で5分のところにある(写真5)。少年期は決して恵まれた境遇ではなかったというが地元のホットスプリングス高校を卒業後、三つの大学を経て32歳の若さで州知事、その後の大出世は記すまでもない。
好奇心に負け生家をこっそり偵察に出かけた。気のせいかもしれないが小高い丘に建つ小さな家の周りにはスッキリした空気感が立ち込めパワースポットかと思えるほど強い気力に満ちていた。

ポートイザベル

幻のネコ、野生オセロットの棲家

ポートイザベルはメキシコと国境を接するアメリカ南西部、テキサス州最南端の小さな港町。面積は8平方km(3平方マイル)。当地はメキシコ革命後にアメリカ領となり18世紀から19世紀にかけて綿花積み出し港として活況を呈した。
メキシコ湾を望み、きりっと立つ灯台に僅かに往時の繁栄が偲ばれる(写真1)。イザベル灯台は1852年創設、南北戦争後の修復を経て長らく稼働したが1905年に消灯。1976年にテキサス州歴史遺跡に指定された。
ポートイザベルはパドレ島のゲートシティでもある。海岸線と並行して南北数百マイル、幅がたった2マイルという驚異的に細長い島で、その南端のサウスパドレアイランドはテキサス州を代表するビーチリゾート、別荘地として知られている。
僕たち夫婦は当地に4泊の予定で出かけたが延々と続くビーチはたしかに素晴らしいが、施設やレストランはどこも少し寂れた感があって期待外れというのが正直な感想。
ポートイザベルの北側がラグナ・アタスコサ野生動物保護区となっていて毎年11月には25万羽もの水鳥が訪れる。特記すべきは当地海岸沿いに棲む幻の野生ネコ「オセロット」(Ocelot、学名Leopardus Pardalis)の存在。抜群のスタイルとゴージャスな毛並みを持つオセロットの美しさはアメリカではネコ科最高と称賛されている。
ちなみにアメリカネコの代表格アメリカンショートヘアは先住民オセロットとは違いいわゆる入植者。イギリスから新天地を目指し1621年にマサチューセッツに着いたメイフラワー号に乗っていたネコの子孫であるとされている。オセロットに似たネコを作り出そうと交配されたのがオシキャット(Ocicat)。しかしオセロットの血は入っておらずアビシニアン、シャム、アメリカンショートヘアの混血だそうだ。
ともかくぱっちりとした丸く大きな目。梅花紋といわれる野生的な黒い斑点。負けん気の強そうなオセロットの可愛さはネコ好きにはたまらない。優美な毛皮がきわめて高額で取引され個体数が激減、現在は絶滅危惧種に指定されている。
ポートイザベルでは野生12匹が確認されていて、アメリカ全体の推定個体数は50匹。人になつきやすことでも知られていて野生以外に数十匹の飼育オセロットがいるという。海岸近くをウロウロしたが遭遇未体験、映像でしか見たことがない。

ポーツマス

川沿いの土手に野イチゴが実る

ポーツマスはアメリカ北東部、ニューイングランド地方ニューハンプシャー州の大西洋沿岸にある町で面積は44平方km(17平方マイル)。1603年にイギリスのブリストル出身の軍人マーティン・プリング(Martin Pring)が当地を探索。その後イギリス人によって開発され1653年にポーツマスの町となった。
当時、イギリスからの入植者の生活は苦難を極めとくに厳寒の季節には多くの死者を出した。ポーツマスにはワンパノアグ族、イロコイ族など多数のインディアン部族が住み、彼らは入植者に食料を提供しまた当地に合った農法を教えた。
収穫期の秋にイギリス人入植者たちが共同でインディアンを招き感謝の意を伝えたのがサンクスギビングデイの起源になったと伝えられている。11月の第3木曜日がアメリカ国民の祝日。翌日の金曜がいわゆるブラックフライデーで年末商戦の始まりの日となる。
初期には友好的だった入植者とインディアンの関係は次第に悪化する。急増したヨーロッパ人はインディアンに土地の提供を強要、争いが頻発する。1675年に起きたインディアン戦争(フィリップ王戦争、King Philip’s War)は凄惨を極め、4千人のインディアンが戦死したと記録されている。
僕たちは町の南側、ピスカタクア川河口近くにあるストロベリーバンケ・ミュージアム(Strawberry Banke Museum)を見学した。ストロベリーバンケの名はヨーロッパからの入植当時には川の土手(Banke)に野イチゴが群生していたことに由来する。
4万平方kmの屋外エリアで17世紀から19世紀の移民の生活文化や歴史的な建物を復元した生きた歴史博物館だ。屋内の家財道具もじっくり見たが素材は質実剛健ながらもデザインは格調高く困難な生活の中にも様式を重んじたイギリス開拓民のプライドが偲ばれる。
当地の名は日本ではポーツマス条約で知られている。日本とロシアは1900年に日露戦争に突入、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの調停で1905年9月5日、当地ポーツマス海軍造船所で停戦の興和条約を締結した。

ペピン

「大草原の小さな家」、ローラ・インガルスの生まれ故郷

ペピンはアメリカ中北部、ウィスコンシン州西部に位置し面積は645平方km(249平方マイル)、町の南端をミシシッピ川が流れる。
ミズーリ州セントルイスからぺピンを目指し一路北に向かった。500マイルの道のり。地平線まで続くトウモロコシ畑。輝くような濃い緑の葉が真っ青な空に映える。その風景はイリノイ州からアイオワ州、更に北上しウィスコンシン州に入ってもいっこうに変わらない。アメリカ中北部の大平原(Prairie)はどこまで行っても本当にまっ平らだ。
更に北上、まだまだ続くトウモロコシ畑の真ん中に小さな田舎町ぺピンはあった。南北戦争さなかの1863年にイングランド移民のチャールズ・インガルスとその妻キャロラインは当地ぺピンの森のなかに小さな丸太小屋(写真1)を建て4年後にローラが生まれた。後にアメリカを代表する女流作家となるローラ・インガルス・ワイルダー(Laura Ingalls Wilder)である。
西部開拓を夢見る両親と共にローラはアメリカ各地を転々とし、貧しさと数々の苦難の日々を過ごしながらもアメリカ大自然のなかでたくましく生きてゆく。晩年に娘の勧めで大自然の美しさや子供の頃の暮らしを綴った自伝記を書き始め、1932年に刊行された「大きな森の小さな家(Little house in the Big Woods)」が世界的なベストセラーとなる。
その後「大草原の小さな家(Little House on the Prairie)」をはじめ数々の名作を生みだした。映画で見る西部開拓はガンマンやカウボーイが頻繁に登場し実に男性的で勇ましい。しかし実際にはローラの家族のように素朴で堅実な開拓の歴史があったに違いない。
僕たち夫婦はローラが暮らしたアメリカ中北部の田舎町を訪ね歩き、ローラの足跡を辿り、その生活をじかに感じてみたいと思った。ウォルナットグローブ、デ・スメットについてはそれぞれの頁に記す。

ベアマウンテン州立公園

ニューヨーク州立公園の歴史的ロッジ

ベアマウンテン州立公園はアメリカ北東部、ニューヨーク州にあり面積は21平方km(8平方マイル)、標高は391m。大都市ニューヨーク・マンハッタンから北に50マイル。この公園のさらに西側がハリマン州立公園となっている。
ベアマウンテンは急峻なハドソン川の西岸に位置し崖とゴツゴツとした岩が多い森と湖の風景で1913年にニューヨーク州立公園に指定され、2年後に宿泊施設であるベアマウンテン・イン(Baer Mountain Inn)がオープンした。このホテルは歴史あるアメリカ遺産として2002年に国立公園局が管理するアメリカ歴史登録財(The National Register of Historic Place)に指定されている。
国立公園法の施行、公園局の設置はアメリカが世界に誇れる法律のひとつだ。それに伴い自然環境に馴染む素晴らしい外観、内装を持つ公園内ロッジが多く生まれてきた。その代表、イエローストーン国立公園のオールドフェイスフル(The Old Faithful)の開業は1904。クレーターレイクのロッジ(Crater Lake Lodge)は1915年、ヨセミテのアワ二―(Ahwahnee)は1927年の開業だ。
ベアマウンテン・インは公園ロッジ草創期の1915年というかなり早い時期にオープンした公園史に名を遺す歴史的ロッジであることは間違いない。6年間のリノベーション期間を経て2012年に再開業した。僕たち夫婦は改装後のロッジにそれなりに期待を持って滞在したが、大いに落胆。石と木で出来た建物外観は重厚感に溢れ格調は高いが中身がなかった。客室内装や人的サービスは情けない限り。
T型フォードの生産が始まったのが1908年。とはいえこのホテルが出来た1915年はモータリゼーションのまだまだ黎明期。今ではベアマウンテンはマンハッタンから車で1時間の距離。しかしのんびりと馬車に揺られて赴いただろう開業当初は滞在型リゾートホテルとしての価値は高かったと思う。
このロッジだけではなく都市近郊の歴史的ホテルは遠方からの旅行者より地域の会合やウエディングなど大口の団体客に重きを置くことが多い。そういう時にたまたま当たってしまうとロビーでワインを飲んだり、庭でゆっくり本を読んだりという旅のくつろぎ感は吹っ飛んでしまうのだ。


ペトログリフ国立モニュメント

謎の古代人アナサジのビジュアルメッセージ

ペトログリフ国立モニュメントはアメリカ南西部、ニューメキシコ州中央部に位置し、アルバカーキからリオグランデ川を挟み西に10マイルの距離、面積は29平方km(11平方マイル)。
当地には24,000点に上る世界最大数の先史時代のペトログリフと考古学上の重要な史跡、及び5箇所に渡る火山噴石孔があり、それらの文化、自然遺産を合わせて1990年に国立モニュメントに指定された。
ペトログリフとは岩石や洞窟内部に描かれた意匠や絵文字彫刻の総称。先住民アナサジ(Anasazi)族が紀元前1200年から紀元1400年頃に遺したものと考えられている。
僕たち夫婦はこの絵文字を順次見て回ったがテーマは擬人化した動物か、意味不明な幾何学的な図形が多い。
二足歩行のカメのような生き物はいったい何がモチーフになったのだろうか。アナサジ族は狩猟採集と農耕の双方を営み暮らしてきたが、いずれにしても感受性にすぐれた平和主義の民族だったのだろう。多くの絵文字をじかに見てあらためてそう感じた。
アナサジ族はユタ、コロラド、ニューメキシコ、アリゾナ州周辺に数多く居住していたが、15世紀のある時期にいっせいに姿を消した。その理由はいまも謎とされる。アメリカを移動しプエブロの先祖(Ancient Pueblo People)となったという説もあるが正確にはわからない。
現在プエブロ族は19の種族、3万5千人がアメリカ政府により公認されていて、アコマ、ズニ、タオス、ホピなどアドビ(Adobe)煉瓦で造られた集落に住む。
ちなみに先史以来アメリカには900以上のインディアン部族が確認されているが、彼らは一様に自尊心が高くそれぞれが固有の文化と言語を持ち他族をなかなか受け入れなかった。数千年に渡り部族間抗争を繰り返してきたというが、もしアメリカのインディアン部族が17世紀の時点で統一されていたらヨーロッパ入植者によるアメリカ開拓の歴史は変わっていただろう。

ブラックヒルズ国立森林公園

グレート・スー・ネイション、偉大なるスー族の聖地

ブラックヒルズはアメリカ西部、サウスダコタ州西部からワイオミング州北東部に跨る4850平方km(1875平方マイル)の広大な国立森林公園。最大標高はハーニー山の2206m。
明るい草色の丘陵地帯にポンデローサ松がくっきり黒く映える風景はまさにブラックヒルズと呼ぶにふさわしい。草原、美しい森と湖、バイソン、ビッグホーンシープなど多くの野生動物が棲む大自然の恵みに溢れた素晴らしい地域だ。
しかしブラックヒルズには複雑なアメリカの歴史がある。1800年以降、ヨーロッパからの入植者は西へ西へと領土を広げた。彼らの西部開拓、フロンティアに先住民インディアンは大いなる障害だった。アメリカ政府は指定地にインディアンを強制移住させる政策を推進した。インディアン・リザベーション(Indian Reservation)である。
政府はブラックヒルズを居留地と決め各地のインディアン・スー族に対し当地域への移住を強要した。その代わり「この土地については永遠にスー族のものであり白人の通過、居住を許さない、Great Sioux Nationである」と確約した。1868年のララミー砦条約である。
ハナシはこれで終わらない。条約締結僅か6年後の1874年、ブラックヒルズに莫大な金鉱脈が発見されこの条約は一方的に破棄された。折しも1873年の経済大恐慌の影響で職を失ったヨーロッパ系白人が大挙して宝の山目当てにブラックヒルズに押し寄せたのだ。法を侵す白人制圧の名目でアメリカ政府軍が当地に侵攻、結果としてスー族の排除と金鉱奪い合いの戦いに発展した。インディアン迫害史に残るブラックヒルズ戦争(Black Hills War)である。
その後もくすぶり続けたこの争いは百年以上を経た1980年、民主党のカーター大統領政権下の最高裁法廷でやっと決着。アメリカ政府によるブラックヒルズの没収は条約違反とする判決が下された。政府は賠償金として1億ドル余りを提示したが、スー族はこれを拒否、あくまでも聖地ブラックヒルズの自治権の復活を主張している。
驚いたことに当地の地下には5千トン、数千億ドル相当のウラン鉱石の埋蔵が判明し、すでに複数の巨大企業により開発は始まっている。経済的発展を願う人々、民族の伝統文化を尊ぶ人々。互いの価値観の溝はそう簡単には埋まらない。

ブラウンカウンティ

インディアナ、インディアンの土地という名の州

ブラウンカウンティ州立公園はアメリカ中西部、インディアナ州中央部に位置し面積は64平方km(25平方マイル)、最大標高は322m。1929年にインディアナ州立公園に指定された。州都インディアナポリスから南に30マイルの距離。
アベマーティン・ロッジ(Abe Martin Lodge)という公園内ロッジがあるが、僕たち夫婦は公園の北側にあるブラウンカウンティ・イン(Brown County Inn)に宿泊した。木造のカントリー風の建物でレストランの雰囲気もナチュラルで好みのスタイルだ。
ブラウンカウンティは厳寒の冬、蒸し暑い夏と四季のメリハリが明快。とりわけ秋の紅葉が素晴らしいという、日本に似た気候で丘陵と谷が連続する地形も日本によくある風景だ。
当地は1818年のセントマリー条約によりアメリカがインディアン、デラウェア族から取得した土地である。インディアナの語源は「インディアンの土地」で、その名の通りミシシッピ川流域でのインディアンの歴史は古く、紀元前8000年頃に遡る。
アジアから氷河伝いにベーリング海峡を渡り北アメリカ大陸に到達したインディアンの祖先となるモンゴロイドは元々移動を繰り返す狩猟民族であり、そのため彼らはアメリカ各地に広がっていった。紀元前1000年頃からは農耕系インディアンが当地に定着した。小さな集落を形成し土器を作りトウモロコシを栽培するアデナ文化、ホープウェル文化である。
そして9世紀からインディアンによるミシシッピ文化が花開く。少数の権力者が多くの民を治める首長制国家で、彼らはマウンド(Mound)と呼ばれるピラミッドに似た巨大構造物をミシシッピ流域に数多く建設した。
しかし統率されたミシシッピ文化は16世紀に衰退した。数多くのインディアン部族が対立し抗争を繰り返していた17世紀はアメリカの植民地化が始まったヨーロッパ人にとって都合のよい状況だった。

フォートワース

カウボーイ発祥の地

フォートワースはアメリカ南東部、テキサス州の北東部にあり、面積は774平方km(299平方マイル)、標高237m。
19世紀、カウボーイの町として知られた当地には各地から牛が集まり取引された。当時の面影を残すストックヤード国立歴史地区はダウンタウンから5マイルほど北にある。ストックヤードの家畜取引は1876年の鉄道開通をきっかけに大発展。しかし20世紀に入り自動車の出現に伴いアメリカの物流政策は転換し当地は衰退する。
鉄道登場から100年後の1976年に当地の由緒ある建物が復元され国立歴史地区に制定された。当地区の最大の見ものはテキサス人が誇るロングホーンの行進、キャトルドライブだ(写真4)。
乗馬したカウボーイたちが数千頭のロングホーンを伴い東に向かう旅を昔はCattle Driveと呼んだ。ロングホーンは長旅に耐える強靭な体力を持つ牛なのだ。
テキサス出身のプロレスラー、スタン・ハンセンが右手で角の形にする決めポーズもロングホーン。Stockyards Station、Cowtown Coliseum、Texas Cowboy Hall of Fameなど当地区には歴史的な建物も多くある。
19世紀の町並みの中、直感頼りでステーキハウスに入った。店名はキャトルメンズ(Cattle Men’s、写真1)。年季の入ったオーク材の内装でちょっと格式が高そうだ。まずはガラスケースにずらっと展示してあるステーキ肉を観察する。
かなり悩みつつ選んだのは定番のポーターハウスではなくニューヨークストリップ。サーロインより脂はさらに多めで少しだけ硬めの肉質。もちろん数週間寝かせたドライエイジド・ビーフだ。結果は大当たり、炭火で表面だけを焦がすように焼くアメリカにはよくある香ばしいタイプのステーキだが肉質が抜群。
元々アメリカのステーキレベルはひじょうに高い。今まではニューヨークのピータールーガー(Peter Luger)、ちょっと落ちてウルフガング(Wolfgang’s)、ベンジャミン(Benjamin)あたりが最高ランクと思っていたが、さすがにCowtownフォートワース、本場の味と雰囲気に大満足した。

ヒルカントリー

野草の楽園、テキサス最高のワイナリー

ヒルカントリーはアメリカ南東部、テキサス中央部に広がる美しい丘陵地帯。春にはブルーボネットが咲き乱れ、秋には葡萄がたわわに実る。北アメリカ大陸の中央部を細長く縦断するグレートプレーンズの南端部にあたり面積は36300平方km(14000平方マイル)、最大標高は750m。
グレートプレーンズはロッキー山脈から流れる河川により形成された堆積平野地帯で砂質及び石灰質土壌は大草原の自然景観をつくる。
テキサスの抜けの良い風景のなか真っすぐの道路を走る爽快感は格別。とにかく広い。テキサスの1州だけで日本全土とほぼ同じ面積がある。
事実アメリカに併合される前のテキサスはテキサス共和国(Republic of Texas)として独立国だった。町の各所で見られる旗は星条旗ではなくローンスター(Lone Star)と呼ばれる星がひとつのテキサス州旗。他の州とは一味違った独自の文化性とプライドの高さを醸し出している土地柄である。
ヒルカントリーの中心地がフレデリックスバーグ(Frederickburg)。その名からも窺える通りドイツ人入植者により19世紀半ばに創設された、まさにドイツ的な町である。フレデリックス(フリードリヒ大王)は18世紀のプロイセンの専制君主。
町なかのレストランにもドイツの伝統が感じられる。ビール醸造所とパブが一体化したビアレストランが多くあり楽しい。ビールでソーセージと子牛のカツレツを食べるのが定番。メインストリートにあるSilver Creekには2度、Crossroad Salon & Steak Houseにも行ったが、どちらにも大満足、味、雰囲気共にひじょうに高レベルだった。
当地にはワイン醸造所も多くあり、ちなみにテキサスはカリフォルニア、オレゴン、ワシントン、ニューヨークに次ぐ5番手のワイン生産州でもある。郊外のいくつかのワイナリーを巡ったが、ベッカーヴィンヤード(Becker Vineyards)が当地では一級品のようだ。

ビッグベンド国立公園

大迫力の砂漠と山岳。アメリカ最大の辺境の地

ビッグベンド国立公園はアメリカ南東部、テキサスとメキシコとの州境を流れるリオグランデ川の北側、面積3242平方km(1251平方マイル)は東京都の1.5倍。最大標高はチソス山脈にあるエモリー岳で2387m。1944年に国立公園に指定された。
同じくテキサスの南にあるグアダルーペマウンテンをアメリカの大秘境と書いたが、こちらは更に辺鄙。テキサスのヒューストン、ダラスのどちらからでも直線距離で650マイル、車で延々片道11時間かかる。ここまで奥地になると余程の動機が無ければ誰もここまでは来ないだろう。
事実、統計によると来園者の殆どがテキサス在住者なのだという。しかし辿り着いた時のうれしさは格段。よくこんなところまで来たものだと我ながら感動する。
ヨセミテやイエローストーンと違って観光的なポイントがない分、余計に空漠とした風景に迫力を感じる。地平線まで続く平原と尖った山々の荒々しい風景はまさにアメリカ大自然と形容するにふさわしい。
ビッグベンドの殆どの面積をチワワ砂漠が占め、中央部にチソス山脈が走る。高温の砂漠から冷涼な山岳地帯と多様性に富んだ気候は多種の動植物を育み、生態系の宝庫となっている。また土地を掘り返すと白亜紀、第三紀の生物の化石が大量に出土するという。当地は地質学上における重要な地域でもあると考えられている。
ビッグベンドの宿泊施設及びレストランはチソス・マウンテンロッジ(Cisos Mountain Lodge)1軒のみ。ただし公園から20マイルほど離れた田舎町ターリングア(Tarlingua)とアルパイン(Alpain)にはモーテルがいくつかあり、その点では周辺にまったく何も無いグアダルーペマウンテンの秘境感には及ばない。
この地域には、かつて遊牧民といわれた古代狩猟民族チソス・インディアン(Chisos Indian)、その後メスカレロ・アパッチ(Mescalero Apache)族、更に18世紀にはコマンチェ(Comanche)族が居住したが、ヨーロッパ入植者の移住が進んだ19世紀以降に衰退した。

ビッグサー

クジラ飛ぶ絶景

ビッグサーはアメリカ西海岸、カリフォルニア州セントラルコーストに位置し、モントレー岬カーメルから南に90マイルほどの断崖絶壁の海岸線地域。
1769年、後にカリフォルニア初代総督になるスペイン軍人ガスパル・デ・ポルトラ(Gaspar de Portola)率いる軍船が当地に接岸、ビッグサーに上陸した最初のヨーロッパ人となった。ビッグサーはスペイン語で「大きな南」の意味。
翌年、スペインはカリフォルニアを植民地とすることを世界に宣言した。先住民であるインディアン、オローニ族、エセレン族、サリナン族はスペインの抑圧政策で衰退した。しかし当地は1821年にメキシコ支配下となった。米墨戦争(Mexican-American War)でメキシコはアメリカに敗退し、1848年からは当地を含むカリフォルニア一帯がアメリカ領となった。
カーメルからスタートしてカリフォルニア州道1号線を海岸線に沿い一路南下。まさにカリフォルニアの青い空、ドカーンと広がる太平洋、空間の大きさに圧倒される。
しかし崖の下は海、道路の反対側は急傾斜の岩壁、大きなカーブが交互に連続して風景を見ている余裕は中々ない。アメリカを代表するシニックドライブであるというが、高所から見下ろす系の大自然はリラックスした気分にはなれない。
この高低差のきつい壮観な風景をつくっているのがサンタルシア山脈だ。山が海底から急角度でせり上がり海から3マイルの距離で1571mの山頂に達する。海岸線上にある山としてはアメリカ最高峰である。
ドライブに少し疲れたので道路沿いのカフェでしばしの休憩。海側の景色の良いテラス席に。大海原の向こうを眺めていたら突然クジラが飛びあがり僕たち夫婦は大感動。その店の名前はホエールウォッチングカフェ(Whale Watching Cafe)だったので、それほど偶然ではなかったのかも知れない。

ハンニバル

「トム・ソーヤの冒険」の作者マーク・トウェインの故郷

ハンニバルはアメリカ南東部、ミズーリ州北東部に位置し、面積は42平方km(16平方マイル)。アメリカを南北に縦断するミシシッピ川に面した当地はかつてニューオーリンズやセントルイスとの海上交易で賑わった。
その繁栄の時代にこの地で少年時代を過ごしたマーク・トウェイン。彼はハンニバルを舞台に町で出会った人々やさまざまな出来事を「トム・ソーヤの冒険」、「ハックルベリー・フィンの冒険」をはじめとした数々の冒険小説のなかに生き生きと描いた。
「ベッキー・サッチャーの家」は「トム・ソーヤの冒険」の主人公ベッキーの住居で彼女はマーク・トウェイン初恋の人(写真6)。Mark Twain’s Boyhood Homeにはトムがポリーおばさんに叱られてペンキ塗りをさせられた板塀が今もある(写真4)。
町なかはどこに行ってもマーク・トウェイン一色、蒸気船が往来する19世紀末のミシシッピ河畔の美しい小さな商業港の雰囲気が今も残されている。船運の衰退がその後の町の開発をピッタリ止めてしまったことがかえって幸いしたのだ。
マーク・トウェインは19世紀末から20世紀初頭における最高ランクの文筆家と評され、フィクション、ノンフィクションから歴史小説、紀行文学、文芸評論までこなし、1910年に74歳で死去。
文豪アーネスト・ヘミングウェイは、「あらゆるアメリカ現代文学はマーク・トウェインのハックルベリー・フィンに由来する」と賛辞を送った。トウェインが晩年に移り住んだ東部コネチカット州の旧邸宅も見学したが、そのことはハートフォードの頁に記す。
気に入って二日連続で訪ねた町中にあるトスカーナレストランThe Brick Ovenの料理には正直いって驚いた(写真2)。ニューヨークのミートパッキングあたりにありそうなカジュアルかつ都会的で行き届いたお店。南部の田舎町らしくない雰囲気に少し不思議な感じがしたが、よく考えてみれば当地は瀟洒な暮らしぶりで知られたマーク・トウェインを生んだ町。かつての洗練と賑わいの面影はしっかりと食文化に生きていた。

バトンルージュ

19世紀の南部繁栄を物語るプランテーション

バトンルージュはアメリカ南東部、ルイジアナ州の南東部にあり面積は205平方km(79平方マイル)、標高21m。1699年、インディアンが住む当地にフランス人が入植し町の開発が始まった。バトンルージュはフランス語で「赤い杖」の意味。
1803年アメリカはバトンルージュを含むルイジアナ全域をフランスから1500万ドルで買収した。当時のフランス領ルイジアナとは現在のアメリカの真ん中を縦断するミシシッピ川流域の15州。現在の感覚では到底想像もつかないがフランス皇帝ナポレオンはアメリカ15州の売却益をイギリスとの戦費にあてた。
アメリカ領となったバトンルージュは1849年にルイジアナ州の州都となり町の発展がはじまった。19世紀に建造されたゴシック・リバイバル様式の旧州会議事堂(写真5)の1マイル北側に1932年に建設された高層の州会議事堂がそびえたつ(写真4)。
当地の南50マイルにあるオークアレイ・プランテーションを訪ねた。かつて栄えた大農園の邸宅跡だ。オークアレイとはフランス語で「樫の小路」の意味。何といっても樹齢300年以上という樫の大樹が見事だ(写真1)。
煉瓦と漆喰によるこのグリーク・リバイバル様式の邸宅は砂糖王と呼ばれたサトウキビ農園主バルカー・エメが1837年に建てた。設計はジョセフ・ピリ。所有者は時代ごとに変わり1925年には建築家リチャード・コッホにより大規模な修復が行われた。
いくらアメリカでもこれだけの歴史遺産を個人資産で維持してゆくのは難しいのだろう。最後の所有者ジョセフィン・スチュワートが土地と邸宅を寄付しオークアレイ財団となり、現在はアメリカ歴史的建造物(National Historic Landmark)に指定されている。
いくつかのプランテーションを見学したが一様に19世紀の南部貴族の驕りと奴隷史を物語る重々しい空気感が漂っていた。栄華を極めた大農園主は南北戦争を境に没落した。

パドレアイランド国立海浜公園

海岸草原、コースタル・プレーリー

パドレアイランド国立海浜公園はアメリカ南西部、テキサス州南部にあり、面積は528平方km(203平方マイル)。パドレ島はテキサス海岸線から2マイルほどの沖合に並行する幅2マイル、長さ数百マイルに及ぶ細長い島。
コーパスクリスティから町の東端に架かる3マイルの橋を渡れば、あっけないほどかんたんにパドレ島に到着する。しかし着いてみて感じたのはこの島は陸と海の境界がきわめて曖昧だということだ。これはコースタル・プレーリー(海岸草原、Coastal Prairie)と呼ばれ、まさに草むらと海が混ぜ合わさったような不思議な風景だ。
メキシコ湾岸では陸地と水域の中間にあたる湿原や沼沢地、干潟が豊富でこれらを総称してウェットランドと呼んでいる。水鳥の生息地になるだけではなくウェットランドは地球規模で水系を調節する働き、つまり河川の氾濫や高波、津波などの自然災害を最小限に食いとめる役割も担っているのだそうだ。
当地はウミガメの産卵地としても知られ、加えて280種の渡り鳥が世界各国から飛来するというアメリカでも有数の海浜保護区となっている。
フロリダからメキシコ湾岸地域には稀に桁違いに巨大なハリケーンが襲来する。1554年、スペイン艦隊サンエステバン(San Esteban)はパドレ島海域で暴風雨に遭い難破。巨額の金銀財宝が海中に沈み300人が死亡するという歴史上の海難事故が起きた。
16世紀のスペインといえば無敵艦隊(Spanish Armada)を率いた世界の覇者。1521年にアステカ文明、その後マヤ文明を滅ぼし1532年にはインカを全滅させ、南北アメリカを制圧。東南アジアを含む世界制覇に邁進中のスペイン黄金の世紀(Siglo de Oro)と呼ばれた絶頂期の出来事だった。
それから410年を経た1964年にサンエステバンは当地沖合で発見された。年月をかけ修復を終えた難破船は現在コーパスクリスティ科学歴史博物館に展示されている。

ハドソンバレー

ニューヨーク郊外の田舎町

ハドソンバレーはアメリカ北東部、ニューヨーク州マンハッタンから北に延びるハドソン川流域地帯。ウエストチェスター郡の面積は1295平方km(500平方マイル)。ハドソン川は五大湖のひとつであるエリー湖から運河でつながれ、南下して大西洋まで流れる。
1609年、オランダの東インド会社(the Dutch East India Company)に雇われた探検家ヘンリー・ハドソンがこの地域を調査しこの名称となった。オランダにとって黄金の世紀と呼ばれた17世紀は貿易、軍事、科学、芸術などすべての分野で世界に君臨する先進国だった。
1625年、当地にオランダ人が入植、マンハッタン島はニューアムステルダムと名付けられた。当地はビーバーが多く棲む大自然に恵まれた湿地帯だったが、オランダ人は入植当時からこの地の将来性、世界一級の大都市に変貌する姿を見出していたという。
すぐれた貿易港の特質をもった地形、ハドソン川による交易、大型建築を可能にする硬い地盤の当地はやがてニューヨークと町の名を変え、1788年の合衆国憲法発令に伴いアメリカ最初の首都となった。
マンハッタンからハドソン川に沿って北上、タリ―タウンにキャッスルホテルという上品な施設がある。この建物は1897年ヘンリー・キルバンにより城として設計され、1981年には歴史的建造物(National Historic Landmark)に指定されている(写真5-7)。
周辺にはしっとりとした森と渓谷、そして田園風景が広がる。当地にはロックフェラー、ルーズベルトなど富豪の旧邸宅も多くあり、とても地理風水がよいのだろう、凛と澄んだ空気感が心地よい。
ロックフェラー旧所有地を活用したブルーヒル・ストーンバーンズは体験型教育農場。牛、豚、鶏が放し飼いにされ果物や野菜の農園もあり、これらは併設されるオーガニックレストランの食材となる(写真3-4)。もっとも予約がとりにくい店としても話題。
世界一の大都会ニューヨーク・マンハッタンからたった1時間。これほどゆたかな自然があるとは驚きだ。

バッドランズ国立公園

映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」の舞台

バッドランズ国立公園はアメリカ西部、サウスダコタ州南西部にあり面積は924平方km(357平方マイル)、最大標高は1018m、1978年に国立公園に指定された。
アメリカ大陸の真ん中特有の大平原地帯を走行していると突然切り立った白褐色のロックマウンテンンの風景が出現する。なだらかな緑の草原と寂寥とした岩山の対比は実にダイナミック。
バッドランズの地質はアメリカ大自然のなかでも比較的新しく、地殻変動で隆起したメサ(台地)が数十万年前に当地の方向に流れ込んだシャイアン川に削られ現在のような特異な風景が出来あがった。この先数十万年で岩山はすべて浸食され、やがて平地になるという。
グランドキャニオンの最古の地層は20億年前なので、バッドランズの景観が生まれて消え去るまでの百万年は地球の歴史から考えるとほんの一瞬の儚い出来事だといえるかも知れない。
当地は元々インディアンの居住地だった。バッドランズのシーダーパス(Cedar Pass)にあるピナクルと呼ばれる奇妙な形の岩山はケビン・コスナー監督・主演映画「ダンス・ウィズ・ウルブス(Dances with Wolves)」の撮影が行われた場所。
南北戦争を舞台にインディアン・スー族と北軍少尉の心の交流を描いた作品で1991年にアカデミー賞を受賞した。過去の西部劇とは異なりインディアン迫害やバッファロー殺戮などアメリカ白人社会への批判色が強い作品のため映画化を妨げる動きもあったという。
1889年にアメリカ政府により禁じられた「ゴースト・ダンス」は最近になって復活が許可された。死者の魂を蘇らせるス―族独自の伝統的儀式である。
インディアンが崇める神聖な土地、そしてその地下に眠る金やウランの鉱脈。尖がった奇怪な山々。バッドランズは文句なしのパワースポットである。
僕たち夫婦はCedar PassにあるCedar Pass Lodgeに宿泊した。キャビンのテラスにはウッドチェアがあり眺望は抜群、ピナクルから吹く風がとても爽快だ。白木材をふんだんに使用した内装は簡素ながらも清潔感があり快適だった。

パームスプリングス

砂漠のオアシス

パームスプリングスはアメリカ西海岸、カリフォルニア州にあり、面積は246平方km(95平方マイル)。東に3554mのサンジャシント山、北にリトルサンベルナルディノ山脈、南をサンタロサ山脈に囲まれた盆地。
アメリカ最高の晴天率と年間平均気温21度の気候。水源となる湖もあり、地理風水に恵まれた実に素晴らしい土地柄だ。
数千年に渡り、高峰サンジャシント山を信仰してきたインディアン、カウイヤ(Cahuilla)族は、その麓にあるパームスプリングスを聖地と考えていた。たしかに当地には人をリラックスさせる緩やかな雰囲気が漂っている。この心地よい空気感はかなり広範囲なものでパームスプリング市の東南のパームデザート、ラキンタ地区にまで及んでいる。
パームスプリングスは19世紀末から開発が進み、現在はゴルフリゾート、高級別荘地として人気が高い。夏は暑いが、湿度が低く爽やか。冬に日本から訪ねるバケーション用の避寒地としてはおそらくアメリカ本土ではもっとも安定して暖かいと思う。
僕はエレベーターを使うビルディング形式のリゾートは苦手。できれば平屋でベランダから出入りできるような施設に泊まりたいといつも思っている。
当地にはウェスティン・ミッションヒルズ(Westin Mission Hills Resort and Villas)やラキンタ(La Quinta Resort and Club)など低層のビラがたくさんある。前者は近代的でクリーン、後者は1926年創業の古い建物(写真2-3)。ラキンタはナチュラルな庭や建物だけでなくレストランのメニューも気に入っている。
なおパームスプリングスでは風力発電の風車が目立ち、こうした場所をウインドファーム(Wind Farm)と呼んでいる(写真4)。
アメリカは1980年代から風力発電に力を注いでいて、パームスプリングスはその代表格。世界の風力発電の総量は年間540ギガワット。中国は188ギガ、アメリカは89ギガ。日本とほぼ同じ面積のドイツの発電量が56ギガなのに対しわが国の3ギガはあまりにも寂しい数字。
SDGsが叫ばれる今日、風力発電に限らず太陽光、バイオマスなどグリーンエネルギー比を高める努力は先進国の義務であると思う。

ハーパスフェリー

南北戦争の激戦地

ハーパスフェリーはアメリカ南東部、ウエストバージニア州ジェファーソン郡にある歴史遺産の町、面積は1.6平方km(0.6平方マイル)、標高は149m。
1970年代の大ヒット曲、ウエストバージニアの州歌でもあるジョン・デンバーのカントリーロード(Take Me Home, Country Road) に当地から眺めるブルーリッジマウンテンやシェナンドーリバーの風景が歌われている。
大西洋チェサピーク湾に注ぐポトマック川とシェナンドー川が鋭角で合流する三角地帯の内側に位置し、ウエストバージニア、バージニア、メリーランドの3州の境界地域でもある。
1733年にポトマック川を越えて西側に渡るフェリーが建造され、バージニア州議会からその権利を取得したペンシルバニア州フィラデルフィア出身のロバート・ハーパー(Robert Harper)の名にちなんでハーパスフェリーと命名された。
植民地時代にはチェサピーク湾とオハイオ運河を結ぶ重要な河川交通を担い、19世紀に入りハーパスフェリーはポトマック鉄道の要衝となった。初代大統領となったジョージ・ワシントンは兵器の製造地を模索し、当地が工場地として決まり開発が進んだ。
1859年に奴隷の開放を主張するジョン・ブラウンがこの兵器工場を襲撃し、逮捕され即刻処刑となった。この事件が1861年にはじまった南北戦争の引き金になったと言われている。
南軍の最北端地としてハーパスフェリーは激戦地となり、1862年9月12日から3日間のハーパスフェリーの戦いは壮絶さを極めた。1944年に当地は戦争遺跡として国立歴史公園(Harpers Ferry Historical Park)に指定されている。
歴史公園には多くの観光客がいたが、いつもは明るいアメリカ人もさすがに神妙な面持ちだった。

ハートフォード

「トム・ソーヤの冒険」、マーク・トウェイン晩年の住まい

ハートフォードはアメリカ北東部、コネチカット州の州都で面積は47平方km(18平方マイル)、標高は18m。1614年にインディアンが居住する当地にオランダ人が入植、砦を築きニューネーデルランドに属するオランダ領となった。
コネチカット川沿いのハートフォードはオランダ本国との貿易拠点となった。しかし1630年代に入りイギリス人が進出、結局オランダは1654年には砦から撤退した。
コネチカットの州名は「quinatucquet、長い川に沿った」を意味するインディアン(アルゴキン語)の言葉。長い川とはカナダ、ケベック州を上流とし大西洋岸に流れるコネチカット川をさす。
現代のハートフォードは保険会社の町として知られている。人口12万足らずの小さな町に30社以上の保険企業が本社を構える。
町の中心部にあるマーク・トウェイン(1835-1910)の旧邸宅を視察した(写真1-3)。トウェインは19世紀末から20世紀初頭におけるアメリカ最高の文筆家と称えられている。子供の頃を過ごし「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」の舞台となったミズーリ州時代の様子はハンニバルの頁に記した。
南北戦争に従軍後、サンフランシスコで新聞記者となり1870年に結婚、翌年ハートフォードに移り住み作家活動に専念し数々の名作を発表。大人気作家となったマーク・トウェインは1873年にニューヨークの建築家エドワード・ポッターに依頼し当地1万4千平米の広大な庭に個性的な構えの邸宅を建設した。
しかし浪費に加えて投資の失敗などが重なり1894年、58歳であえなく破産。その後、文筆業に精を出し3年間で借金を完済、再び裕福な暮らしを復活させ1910年に74歳で死去と記録にある。トウェインは超一級の作家だったと伝えられているが報酬も破格だったのだろう。

バーズタウン

ケンタッキー・バーボントレイル

バーズタウンはアメリカ南東部、ケンタッキー州のほぼ真ん中、ネルソン郡にある町で面積19平方km(7平方マイル)、標高197m。町名の由来は1785年にバージニアから入植したデイビッド(David Bard)とウイリアム(William Bard)のバード兄弟による。
バーズタウンはバーボンウィスキーの町。バーボンの95%がケンタッキー州で生産されるという。スコッチは大麦が原料、バーボンはトウモロコシ、とにかく百聞は一見に如かず、僕たち夫婦はルイビルからからスタートしてバーズタウンを経てレキシントンに向かう100マイルの道のりを2日間で巡ることにした。ケンタッキー・バーボントレイルだ。
実際行ってみるとワイナリーとはだいぶ様子が異なる。ディスティラリーというのは全体的に男性的だと思った。広大な敷地に点在する施設は巨大なのでひとつの蒸留所を見学するだけで物凄い運動量になる。
ワイナリーはアメリカだけで1万か所あり、世界だと数10万に及ぶ少量多品種ビジネス。ひきかえバーボンはケンタッキー州のたった10数社で世界市場の95%を占めている。1か所から生産される量が全然違うのだ。
ヘブンヒルのテイスティング設備には感心した。グラスをぐるぐる回す優雅なワインとは流儀が違う。トランペットのような形のラッパが壁面に並んでいてスイッチを押すと液状のバーボンが顔に向けて噴出、全身全霊で香りを体感する何とも強引な仕掛けだ。ほとんどの人がスイッチを押すので、おかげで館内にはバーボン臭が立ち込めそれはそれで気分が上がる。
メーカーズマーク、フォアローゼズ、ジムビームなどそれぞれ見応えがあったが、何といってもワイルドターキーは素晴らしかった。ディスティラリーとしての設備も抜群なので見学をして回っていて快適だがミュージアムの展示デザインも素晴らしい。
ワイルドターキーのシンボルは七面鳥。かなり大型の鳥でアメリカ南部の森には多くの野生七面鳥が棲んでいるらしい。何しろルックスが凄いのだ。黒光りする羽毛で全身が覆われ首から上は無毛、イボだらけの顔にハゲアタマ。鋭い目つきでこわもて感は半端ない。
人気が出るキャラクターとは思えないのだが、何しろ当地はケンタッキー。日本に溢れるゆるキャラちゃんではバーボンのマスコットは務まらないのだ。しかしあまりにもドスが効きすぎたか、正面向きの顔は1999年に横顔にリニューアルされ最近はおとなしくなった。