オルガンパイプ・カクタス国立モニュメント

アメリカ、メキシコに跨るソノラ砂漠固有のサボテン

オルガンパイプ・カクタス国立モニュメントはアリゾナ州南部に位置し、面積は1330平方km(514平方マイル)、最大標高は509m。1937年にナショナルモニュメントに指定された。
オルガンパイプ・カクタスは柱サボテンの一種。単幹から枝が林立する形状が楽器のパイプオルガンに似ていることから名付けられた俗称で正式にはStenocereus Thurberiという。成長は遅く、最大高の8m、幅4mになるまでに150年かかる。4月から6月にかけて白い花が夜に咲き、コウモリにより受粉され、テニスボールほどの大きさのスイカに似た風味の果実はスイカよりはるかに美味だというが、僕はまだ食べたことがない。
ゲートシティはアホ(Ajo)。発音は日本語の阿呆と同じ。当地はアホ連山(Ajo Range)、アホ山(Ajo Mountain)そして公園内を周回するアホ道(Ajo mountain Drive)などアホのオンパレードであるが、その意味は「絵を描く」こと。当地に住むインディアン、パパゴ族の言葉である。ちなみにアホ・バカ・スープ(Sopa de Ajo y Vaca)という頓珍漢なメキシコ料理があり、スペイン語でAjoはニンニク、Vacaは牛肉。
アホはアリゾナ州ピーマ郡に属する面積73平方km(28方マイル)、インディアン3000人を含む人口4万人の田舎町である。19世紀に銅鉱脈が発見され20世紀前半にはアホ鉱山は大繁栄したが1983年に閉山した。
当地はメキシコ国境に接し、南に僅か3マイルの距離にメキシコ、ソノラ州ソノイタ(Sonoita)の町がある。僕はレンタカーで何度もメキシコ国境を越えたことがあるが車の旅行に不慣れな人は注意を要する。メキシコはジュネーブ条約に加盟していないので事故などに際してアメリカのレンタカー保険は適用外となるからだ。

オリンピック国立公園

アメリカ最高湿度と最高雨量、鬱蒼と茂る温帯雨林

オリンピック国立公園はワシントン州にあり面積は3734平方km(1441平方マイル)、最大標高はオリンポス山で2427m。1938年に国立公園に指定、公園内のホー・レインフォレストは1981年にユネスコ世界遺産に指定された(写真1-2)。
シアトルからは直線では30マイルの距離だが、海峡を挟んだオリンピック半島北端にあるので車でいったん南に迂回しタコマ、そしてオリンピアを経由する必要がある。
オリンピック国立公園はまったく異なった景観を持つ三つのエリアをひとつに統合して成り立っている。
太平洋岸の海岸線、オリンピック山脈地帯、温帯雨林である。太平洋岸の海岸線は森と砂浜が一体化され寒流が打ち寄せる壮大な眺め。海岸には巨大な動物が白骨化したかのようなゴツゴツした流木が散乱し不思議な風景をつくっている。
氷河に覆われたオリンピック山脈地帯は清涼感があり壮大。夏季には高山植物が咲き乱れ一面のお花畑となる(写真3)。西側のオリンポス山は太平洋の湿った空気の影響を受け降雪が多く氷河が見える(写真4)。反対に東側のデセプション山は乾燥した岩肌がむき出しの山岳であり際立った対比を成す。
そしてオリンピック国立公園の最大の見どころともいうべき温帯雨林。ここはまさに異界。山脈地帯の爽快感とは一転、どんより重く湿った空気が垂れこめる。昼でも薄暗い。地面はシダ類で覆われ、樹木からは苔が垂れ下がり異様な雰囲気。負のパワースポットとでも表現しようか、魔物がひっそりこちらを窺っているかのようにも感じる。
このエリアの雨量、年間3700mmはアメリカ本土最高、湿度でもアメリカ最高を記録している。

オクラホマシティ

ゆたかな町並みの背景に先住民の末路が見える

オクラホマシティはオクラホマ州の州都。面積は1608平方km(621平方マイル)、最大標高は396m。1830年、アメリカ政府はインディアン移住法を制定。風が強く、時には竜巻が襲いかかる痩せた不毛の当地を強制移住先と決定した。
オクラホマは赤い(Okla)人々(Homma)、つまりのインディアンを意味する。先祖代々数千年に渡り住みなれた土地を追われた東部数万人のインディアンが南部オクラホマに向かったその道は「涙のトレイル(Trail of Tears)」として今も歴史に残っている。途上、多くの死者を出したという。
1889年、オクラホマは突然ヨーロッパ入植者に提供されることとなり、同年4月22日、1万人以上がこの地に押し掛け、我先にと土地の所有権を主張した。あっという間に白人の町と化した当地はスーナーステイト(Sooner State、早い者勝ちの州)と呼ばれた。
1928年、オクラホマで油田が発見されオイルブームが沸騰する。人々はオイルマネーを原資に川を堰き止めダムと人造湖を造り、広い土地に豪壮な住宅を建設。オクラホマは経済に恵まれた美しい町に変貌した。オクラホマ州のインディアンの人口比は減り続け、現在55部族30万人が住む。
当地出身のウィル・ロジャースはインディアン、チェロキー族の末裔。映画俳優であり社会評論家としても尊敬されている。彼の名前を冠した学校はオクラホマだけで13校、ロジャース・パーク(写真1-2)、カリフォルニアのウイル・ロジャース歴史公園、テキサスのウイル・ロジャース記念センターをはじめアメリカには彼の名に因んだ施設が多くある。
オクラホマシティにあるウィル・ロジャース国際空港のターミナル正面には馬に跨ったウィル・ロジャースの彫像が飾られている(写真5)。

オークブルック

ミシガン湖畔、知性に囲まれた町

オークブルックはイリノイ州ミシガン湖畔にある町で面積は21平方km(8平方マイル)。シカゴのダウンタウンから西に30マイルにあるこの町はポール・バトラー(Paul Butler)という20世紀初めの有名なポロ選手が開発した。
アイルランド移民の子孫であるバトラーは選手としてだけではなく、実業家として資産を築いた。バトラー・ジュニアハイスクール、バトラー・ナショナルカントリークラブなど当地にはバトラーの名前が多くみられる。
そのカントリークラブに隣接したハイアット・マクドナルド・キャンパス(The Hyatt Lodge at McDonald’s Campus)という不思議な名前のホテルに宿泊した。マクドナルドが運営するハンバーガー大学(Hamburger University)は1961年創設の企業大学。マクドナルドで働く管理職が学ぶという。
低層で天井高のあるロッジは森と湖に面し、素朴な佇まいながらどことなく品格が漂う(写真3-5)。
ミッドセンチュリーのインテリア、家具にも独特のムードがある。驚いたことにこのホテルの設計は巨匠フランクロイド・ライトだった。草原様式と日本語に訳されるライトの代表的な建築手法、プレイリースタイルは地平線を強調した伸びやかな建物で実にアメリカ中西部の空気感に合っている。
ホテルから20分ほどの距離にあるモートン樹木園(Morton Arboretum)に出かけた。草原環境の修復プロジェクトとして計画された6.9平方km(2.7平方マイル)に渡る庭園(写真1-2)。園内にあるハリー・ウィース設計の図書館にはランドスケープや植物学の蔵書が多くあり、ビジターセンターは園内の樹木や石材を再利用し建築の持続可能を追求したという。さすがにオークブルック、インテリジェンス漂う樹木園だった。

エルパソ

国境の町

エルパソはテキサス州最西端に位置し面積は664平方km(255平方マイル)、最大標高は1140m。ロッキー最南端であるフランクリン山脈が町を東西に二分し一帯は州立公園となっている。
アステカを征服したスペインは1659年、当地にエルパソ・デルノルテの町を創設。1821年、メキシコの独立革命によりメキシコ支配下に置かれる。しかし1848年、アメリカに敗戦したメキシコは当地を二分し北側をアメリカに割譲しエルパソとなった。
南側のメキシコ領シウダード・ファレスは治安最悪の町として名高いが、最近その地位をホンジュラスのサンペドロ・スーラに譲り、世界ワースト2位に落ちたという。とはいうものの僕は国境を越えていくつかのメキシコの町に出掛けたが、どの町も思いのほか穏やかだった。もちろん用心は必要だけれど旅の基本はチャレンジなのである。
エルパソ人口の80%がメキシコ系アメリカン人ということもあり、町の印象は殆どメキシコ。タコス、エンチラーダはうまいしテキーラ、コロナビールは最高だ。コロナはカットしたライムを瓶の中に突っ込んで瓶ごと飲む。この飲み方スタイルの広告宣伝は大ヒットとなったが、それが災いして同社は瓶のリサイクルにアタマを悩ませているという。
エルパソの町なかをアメリカ大陸横断鉄道が走る(写真-1)。現在は貨物輸送がメインだがエルパソ駅にも停まるアムトラック・サンセットリミテッド号はニューオーリンズとロスアンジェルス間を片道48時間で結ぶ。
開通間もない1872年(明治5年)には不平等条約改正交渉に渡米した木戸孝允、大久保利通、伊藤博文はじめ総勢100名の岩倉使節団が乗車した。この年、汽笛一声、新橋から横浜に日本最初の鉄道が開通した。

エバーグレーズ国立公園

大湿原に幅150km水深30cmの川が流れる

エバーグレーズ国立公園はフロリダ半島の南端に位置し面積は13158平方km(5078平方マイル)。これは東京都の3倍にあたりデスバレー、イエローストーンに次ぐアメリカ本土で3番目に広い国立公園。1947年に国立公園に指定、1979年ユネスコ世界遺産に登録された。
エバーグレイズは生態系の多様性に富み400種の鳥類、100種の魚類が生息し、多くの珍しい植物が自生する。ワシントン条約で輸出入が規制されている希少樹木であるマホガニーの大木(写真3)も見られる。
マイアミからインターステイツ1号線を南に30マイル進むと公園のゲートシティとなるHomesteadがある。道中、幅2、3mほどの小川をそっと覗き込むとワニが浮かんでいるので吃驚仰天。
何でこんなに車通りの多い、しかも狭苦しいところに暮らしているかと思ったが、よく考えてみるとワニは道路が出来るずっと昔の太古の時代からこの川に棲む先住者なのだ。
これは序の口、国立公園エリアに入ると巨大なワニが草むらでごろごろ昼寝をしている。ワニ好きの僕としては何時間でも見ていたい幸せな光景だ。アメリカ7番目の大都市マイアミからたった1時間。これほど自然に恵まれた環境が地球上に残っていることに感動。
この地域のワニはおもに2種類。アリゲーター(Alligator)は最大で5mほどで口が扁平なのが特徴。恐ろしい顔に似合わず性格は温和で攻撃性はない。クロコダイル(Crocodile)は最大で6m以上になり口が尖って細長い。こちらは比較的危険といわれている。
しかしどちらのワニも、僕が相当傍まで近づいても全然動じず無関心。何故ならワニはフロリダでは食物連鎖の頂点にいて、怖がるものは何もないからだそうだ。

ウォルナットグローブ

「大草原の小さな家」ローラの足跡を辿る、ぺピンの続編

ウォルナットグローブはアメリカ中北部、ミネソタ州南西部にあり面積は2.8平方km(0.6平方マイル)、人口900人に満たない小さな町。1867年に生まれたローラ・インガルスは7歳までウィスコンシン州ぺピンの大きな森の小さな家(Little house in the Big Woods)で暮らし1874年に当地に移住してきた。
この時代の生活は「プラム・クリークの土手で(On the Banks of Plum Creek)」に描かれている。収穫前の小麦がイナゴの被害に遭い、全滅。借金も増え、父親は金の工面のため東部に出稼ぎに行く、という苦難の日々が続いた。
僕たち夫婦はゴードン農場とLaura Ingalls Wilder Museumでローラの住居跡を見学(写真3-6)、大きな衝撃を受けた。それは家というより、むしろ土手に掘られた穴倉だった。
しかし横穴小屋(Dugout Depression)は開拓時代の当地では普通に見られた住居だったようだ。土の家は冬は暖かく夏は涼しいが、時には牛が屋根を踏み潰して崩落することもあったという。ヘビやクモにも悩まされたという。
ローラの父チャールズはイングランド系、母キャロラインはスコットランド系の移民だった。WASP(White Anglo-axon Protestant)といわれる彼ら夫婦は、デンマークやスウェーデン移民が多かった中北部アメリカのなかで正統的アメリカ人としての誇りを持っていたと後にローラは書き遺している。同時代のイギリスはビクトリア王朝華々しい繁栄の時代。ひきかえ新大陸の開拓民の生活は貧窮をきわめた。
しかし土の家で遊ぶ絵本のなかのローラは元気はつらつ、とても幸せそうに見える(写真-6)。数々の困難にもめげない彼らには西部開拓という大きな夢があったからだ。ゆたかさとは、そしてこころの幸せ観について考えさせられた。

ウイリアムズバーグ

アメリカ草創期の町並みが残る、生きた歴史博物館

ウイリアムズバーグはバージニア州。バージニア半島に位置する独立市。面積は23平方km(9平方マイル)。
1607年、イギリス人104人がアメリカ大陸にはじめて入植した地がジェームスタウン、そして隣接する町としてウイリアムズバーグをつくった。
1693年にはアメリカで2番目の大学、ウイリアム・アンド・メアリー大学(College of William & Mary)がイギリス国王の認可を得て創設された。大統領トーマス・ジェファーソンの卒業校でもある。ちなみにアメリカ最初の大学はハーバード大学。
ウイリアムズバーグは17世紀から18世紀、北部マサチューセッツと並びアメリカの文化、政治の中心地として発展し、南北戦争では南軍の本拠地となった。1699年から1780年まで英国領バージニアの首都であったが、南北戦争中に首都はリッチモンドに移りウイリアムズバーグは19世紀以降、次第に存在感を失ってゆく。
これらアメリカの歴史を今に残すエリアがコロニアル・ウイリアムズバーグである。ロックフェラー家の支援で町並みや多くの建築物は18世紀当時の姿に復元された。それだけではなく、この地域の人々は18世紀の服装で町を行き交い、当時の言葉遣いで会話をする。
町なかの1軒のレストランで食事をした。当然電気は無いので夕方になるとあたり一帯は真っ暗、人影もまばら。道路もよく見えないほどで、店の階段を上るのも覚束ない。オイルランプと蝋燭だけの夜の暮らしは、さぞかし不便だったのだろうと推察する。
しかし暗闇のなか、鉄鍋ごと供された肉料理とコーンブレッドは素朴な中にも味わい深く、そのおいしさに心底感動した。思い出に残る18世紀料理であった。

ウィラメットバレー

オレゴン・ワインカントリー

ウィラメットバレーはオレゴン州北西部にあり面積は13500平方km(5200平方マイル)、南北250km、東西100kmに渡る丘陵と渓谷に囲まれた広大なエリア。
ポートランドからスタートしてユージンまでウィラメットバレーを4日間で巡った。途中、小さな田舎町のニューバーグで泊まったAllison Innは想像以上のレベルで驚いた(写真-3)。葡萄畑に建つホテルの外観は格好よくレストラン、バーの内装もナチュラルな雰囲気ながら洗練されている。
グルメ州で知られるオレゴンでもとりわけ当地は高品質な食材の宝庫で年中グルメフェスティバルが開催されているという。Oregon Truffle Festivalはウィラメットバレーに自生する黒トリュフの食の祭典だ。ホップ栽培も盛んで、醸造所が連なるEugene Ale Trailと名付けられた地ビール街道もある。
更にウィラメットリバー流域に広がる葡萄畑はオレゴンを代表するワインの一大生産地となっている。当地は同じ西海岸でもカリフォルニア州の気候とはだいぶ違う。年間を通して比較的湿度が高く、しかも冷涼な気候がピノノワール(Pinot Noir)の生産に適している。
フランスのブルゴーニュ産とは趣が違うが、ウィラメットバレーのピノノワールは今や世界トップクラスの実力だ。しかしナパバレーのOpus OneやBeringerのように地域を引っ張る有名ワイナリーが見当たらず、その点は大損をしている。
200以上もあるワイナリーの殆どすべてがどんぐりの背比べ的に小規模経営のため誰もが共通に知るという銘柄がない。瓶に貼られたラベルデザインもいまひとつ記憶に残らない。
これがウィラメットバレーワインの一方の特色でもありそこのところが僕にとっては逆説的に好ましく思える。

イエローストーン国立公園

アメリカを代表する国立公園。圧倒的迫力の大自然

イエローストーン国立公園はワイオミング州を中心としてモンタナ、アイダホ3州に跨る8980平方km(3470平方マイル)の広大な国立公園。1872年、世界で最初の国立公園に指定、1978年にはユネスコ世界遺産に登録された。
大地のオーラ、そして野生動物との出会い。まさに生きいきと活動する大自然の姿がそこにはある。目の当たりに見るバイソンの群れ(写真1-2)。グリズリー、ハクトウワシ、ムースなどなど。
運が良ければ草原を疾走する灰色オオカミを見ることもできるという。 大平原を緩やかに蛇行するYellowstone River(写真3-4)や4万リットルの熱水が一気に50mも吹きあがるダイナミックな間欠泉Upper Geyser Basin。
この公園には本当にたくさんの見どころがある。しかしここでは観光は程々にして何もしないでのんびりと過ごす時間がたいせつだ。朝と夕に散歩、日中は遠くの景色を眺めながら本を読む、夜はワインを飲む、という穏やかなスケジュールが理想的だ。
九つある公園内ロッジのレベルは高く、とりわけOld Faithful Inn(写真5-6)はイエローストーンを象徴するロッジ。1904年開業というのですでに100年以上が経過している。吹き抜けの大空間と天井まで伸びる流紋岩の暖炉には圧倒される。
ダイニングは伝統あるロッジに相応しい雰囲気を醸し出しているが、残念なことにワインのセレクションとメニュウは平凡。言葉は悪いが中途半端な高級感。この料理が数日続くと飽きてくることは間違いない。観光客が頻繁に出入りするので騒々しいというのもある。
このロッジを1泊だけにして、素朴な造りのLake Lodge Cabins(写真7-9)などで残りの数日間を質素に過ごす、というのがよいプランだと思う。

アトランタ

公民権運動発祥の地

アトランタはジョージア州北西部の町。面積は343平方km(132平方マイル)。町の西北にはチャッタフーチー川が流れ、河川域には美しい南部大自然の名残がある。アトランタの東側に降った雨水は東に流れ大西洋に、西側の雨は南に下りメキシコ湾に注ぐのは町なかを東部分水嶺が縦断しているからである。
アトランタといえばまず、映画「風と共に去りぬ」が思い浮かぶ。原題「Gone with the Wind」のWindとは南北戦争のこと。アイルランド入植者の娘スカーレットを取り巻く人間模様と、凋落してゆく南部貴族社会を描いた大河ドラマだった。
当地ではアフリカ奴隷による綿花産業で多くの富豪が生まれた。僕たち夫婦はアトランタ郊外のプランテーションを訪ねたが、まさに「風と共に去りぬ」そのもの。豪壮な家屋敷は当時の贅沢な暮らしぶりを彷彿とさせるものだったが、広い庭の片隅にある今は使われなくなった粗末な奴隷小屋と錆びて朽ちた足枷を見た時には心底、奴隷制度の怖さを感じた。
南北戦争は、自由貿易主義の北部と、奴隷酷使により農業大国を目指す南部の戦いだった。奴隷は解放されたが、そのことにより白人と黒人の対立がかえって鮮明化され差別というあらたな社会問題に発展した。とくにアトランタでは人種間抗争は熾烈をきわめた。
アトランタに生まれ公民権運動に身を投じたキング牧師は志半ばにして1968年メンフィスで射殺された。オーバン通りにあるキング牧師の生家、教会一帯は国立歴史地区となっている。
バックヘッドの住宅街には19世紀の反映を物語る白亜の家が立ち並び(写真-1)、片や黒人街は町の片隅に追いやられている。ニューヨークやロスアンジェルスなど大都会では窺い知れない重い歴史がアトランタにはある。

アッシュビル

「アメリカで住みたい場所」トップの優雅な邸宅地

ノースカロライナ州とテネシー州との州境、南北に流れるフレンチブロード川、東西のスワナノア川が交差する東北部に位置し面積は107平方km(41平方マイル)、最大標高は650m。
驚くほど様式的な邸宅があちこちで見られる。それはアール・デコとネオゴシックなのだが、ヨーロッパの伝統建築とは違い独特なのでアッシュビル・スタイルといってもよいのだと思う。
アッシュビルという地名は日本ではあまり知られていない。しかし2007年のRelocate-America.com でアッシュビルは「アメリカで住みたい場所ベスト100」のナンバーワンになった。その他フォーブス、アメリカンスタイルなど多くの雑誌で人気の住宅地、避暑地として頻繁に取り上げられるという。
なかでもビルトモア・ハウスは部屋数250室以上という途方もないスケールで、アメリカ最大の個人邸宅。
グローブ・パークイン(写真2-5)は1913年創業の自然石をふんだんに使った豪壮なホテル。アッシュビルという地域自体が風水に恵まれた穏やかな土地柄だが、見晴らしのよい丘の上に建つこのホテルのテラス周辺の空気感は格別。本当に心地よい。多分この場所が当地最高のパワースポットなのだろう。
それもそのはず。27代ウイリアム・タフトから44代バラク・オバマに至る殆どの大統領がこのホテルを訪れたのだという。ロビーフロアには多くのアメリカ著名人の写真が飾られているが、僕はこういう権威主義的なPRの仕方は嫌い。部屋自体はさすがに昔のつくり、ふたつのダイニングとそのメニューにも落胆。
もうひとつのレストランEDISON(写真-5)はとても感じ良かったが、かつての栄光を連綿と継承してゆくというのはとてもたいへんなことなのである。

アスペン

銀山の町がアメリカ最高の山岳リゾートに変貌

アスペンはコロラド州中央部にあり、州都デンバーからグレンウッドスプリングス(Glenwood Springs)を経由してコロラド州道82号線で200マイルの奥深い山中にある。面積は9平方km(4平方マイル)、最大標高は2405m。
元々はインディアンのユト(Ute)族の居住地であったことからユートシティと呼ばれていた。
1880年に銀鉱山が発見されヨーロッパ入植者が増大、地名も1881年にはアスペンと変更された。1890年代には銀鉱山としてアメリカ最大の生産量を誇ったが1893年の大恐慌を境に町は徐々に衰退の道をたどり、人々は町から去った。
太平洋戦争後、アスペンはアメリカを代表するスキーリゾートとして再び注目を浴びるようになる。スキーに適した雪質に加えて趣のある旧式の建物がラグジュアリー感を創出した。
銀鉱山マネーで設計された高品質な建築物が長引く不況で数十年間活用されなかったことが町興しに却って幸いしたのだ。
アスペン音楽祭が1949年から始まり、1950年にはスキーの世界選手権の開催地となった。1970年代にはアメリカ富裕層や多くの歌手や俳優が移り住み、またヨーロッパ・ブランドのブティックが町並みを形成し、大自然の中にアメリカを代表する山岳高級リゾートの町が出来あがった。
カントリーの歌手、ジョン・デンバー(John Denver)は当地では圧倒的な有名人。「ロッキーマウンテン・ハイ(Rocky Mountain High)」はコロラドの正式な州歌、カントリーロード(Take Me Home, Country Road)は世界的なヒットとなった。
アスペンには設備の整った宿泊施設がいくつもある。僕たち夫婦はSt. Regisを選択したが、次は自然感あふれる山小屋風ロッジを選択したいと思う。

アケーディア国立公園

オマールエビ、アメリカンロブスターの大産地

アケーディア国立公園はニューイングランド地方アメリカ北東部6州のなかでは唯一の国立公園。マウントデザート島を中心に南西の小島アイル・オ・オ、ベイカーアイランド及び本土スクーディック半島の一部が対象で面積は198平方km(76平方マイル)、1919年に国立公園に指定された。
急傾斜の海岸線と点在する小さな島々の風景は瀬戸内海の眺めに似ていて、日本人的な感覚で正直にいえば普通。急傾斜の岩場も、海から一気に800mも駆け上る小豆島の寒霞渓の絶景には到底及ばない。しかし大地の基盤が花崗岩であるという点では小豆島と同じ。
メイン州沿岸にあるマチャイアスシール島と周辺海域の領有権でカナダとアメリカは紛争中だという。国土面積世界2位と3位の大国がこんな小島にこだわるのかと不思議に思うが縄張りの問題はいつの時代も厄介なのだ。
公園内にはロッジはなく島の北東部にある海岸沿いのBar Harbor Innに宿泊した。外観は素朴な造りに見えるが実は歴史あるホテルで19世紀末から20世紀前半におけるニューイングランド地方の社交の場として栄えたという。テラスから大西洋が望める部屋はとても雰囲気がよい。
やや気取り過ぎにも思えるダイニングの主役は当然の如くロブスター。アメリカ人はロブスターを有難がるが、僕はそれほどでもない。メイン州滞在中はどこへ行っても毎日ロブスターを食べたが味付けがワンパターンなので3日目で完全に飽きる。
日本の伊勢海老は刺身、蒸し、焼きから始まり唐揚げ、揚げ出し、鬼殻、具足煮、真丈、味噌汁などなどバラエティが豊富。ベイシックを尊ぶ気風は素晴らしいがロブスターにはもうちょっと変化が欲しい。

アーチーズ国立公園

2000以上もあるアーチ形の巨石群

アーチーズ国立公園はユタ州東南部に位置し面積は309平方km(119平方マイル)、最大標高は1732m。1971年に国立公園に指定された。
数億年前、内海だった当地の最高気温は摂氏60度。強い太陽熱で海水が蒸発し岩塩地帯となり、その上部に土砂が堆積し1000m以上の厚さを持った地層が形成された。
この地層が、4千年前の地殻変動により隆起し、コロラド川による浸食により岩塩層が溶解、水や風力の影響でアーチーズの特殊な地形が出来がったという。
当地はかつて先住民インディアンの土地だった。紀元1世紀頃から狩猟採集と農耕を営むアナサジ(Anasazi)族が居住していたが、不思議なことに15世紀のある時期に当地から消えた。
15世紀以降はユタ州の語源となったユト(Ute)族の棲みかとなった。ユト・アステカ語族(Uto-Aztecan)に属する勇猛な山岳騎馬民族である。
アーチーズに数多くあるアーチの中でも、とりわけデリケートアーチはアメリカ国立公園を象徴する風景として広く知られている。(写真-1)。高さ17m。真下からだとアーチが空に聳えるように見える。
アーチーズはモアブ断層の真上にあり、景観の素晴らしさに加えて強いパワースポットの土地でもある。しかしデンバー、ソルトレイクシティの中間にあり車で6時間、さらに片道2時間を掛けて傾斜のきついトレイルを登る必要があり、その分、辿り着いた時の感動はより一層大きい。
きつい傾斜のトレイルを登っていても殆ど疲れを感じない。東京では運動不足で30分も歩けないのに、本当に不思議な感覚だ。まさに磁場の真上を歩くとはこのことなのである。